複雑な育ち

 茉莉は塾講師になった佐野に、問題の生徒である野崎壮一について引き継ぎを行っていた。


「保護者がお父さんだけで、最近お母さんのところからお父さんのところに引き取られたとかで」

「へえ、そりゃ複雑だね。でも、そのくらいで複雑って言うか?」


 佐野が茉莉に聞き返す。茉莉の話だけでは、大して珍しいことではないと佐野は思った。


「そうなんですけど……どうにも、そのお母さんが徹底して壮一君に勉強をさせなかったみたいでして」

「何それ?」


 佐野は茉莉が述べようとしている壮一の不可解さを理解した。


「何だか、家の跡を継ぐだか将来なるべき職業が決まっているとかで……中学に入ってからは、家庭での勉強を禁止されていたみたいなんです」

「それは随分エグいな」


 佐野は生徒ファイルを見ながらため息をついた。勉強しろと強制されて子供が潰された事例なら佐野もよく知っていたが、勉強するなと強制された事例については聞いたこともなかった。


「そんな田舎の嫁にしたいだけの女の子じゃあるまいし、どうしてそんなことになったんだ?」

「ちょっとそこまでは……あまり踏み込んだことは私も知らないです、すみません」

「ふぅん……」


 佐野は壮一の入塾テストを見つめた。


「それで逆教育虐待をしていたことに気がついたお父さんが、お母さんから引き剥がしたっていうところか?」

「さあ、そこまでは」


 茉莉は深く壮一の話をしたくなかった。正直に茉莉の見解を話せば佐野によくない印象を与えてしまうかもしれないと思うと、生徒の家庭環境の話をするのは恐ろしかった。


「ところで、それで壮一君を任せて大丈夫なんですか?」

「そこは安心しておけって。複雑な育ちについては誰にも負けない自信があるからな」


 嫌な勝ち負けを持ち出されて、茉莉は鼻白む。


「佐野……先生も家庭が複雑なんですか?」

「まあ、複雑育ちにかけてはそこそこ自信ある。毒親勝負では圧倒的に負けるけどな。茉莉センセは?」

「うちは普通だと思いますけど……って、何言わせるんですか!」


 またしての佐野のペースに乗せられそうになって、茉莉は慌てて話を打ち切ろうとする。


「普通だと思っているうちは、本当に普通だから大丈夫だ。明らかにおかしい奴はどう見てもおかしいだろ、俺みたいな社会不適合者はさ」

「まあ、普通ではないですよね」


 黒ずくめの格好で道端で占い師をやろうとしている三十歳前後の男などろくなものではないだろうと、勝手に茉莉は推測する。


「だからある意味類友ってことで、塾長には話が通ってるんだ」

「それで壮一君の担当に……」


 茉莉は壮一が佐野の占いに乗せられている姿を思い浮かべる。


「待ってくださいよ、その事情を知ってるってことは塾長と佐野先生、知り合いなんですか?」

「おう、ダメモトで来てみたら中学の時の先輩でびっくりしたよ」

「そんな偶然あります!?」


 茉莉は素っ頓狂な声を出す。


「あるんだなあ、これが。おそらくこれもどこかの誰かさんの運勢のせいだと思うぞ」

「私のせいですか!?」


 先日、茉莉は佐野から「不幸を回避する運勢はとても良い」と言われたばかりであっった。


「そうだ。きっとこれから起こる出来事は偶然に思えても全部あんたが呼び寄せたことだ。その自覚を持った方がいいぞ」

「でも、そもそもその運勢がどうのこうのって言うの、信じていいんですか?」

「信じようが信じまいが、そうなっちまってることはそうなってるんだから仕方ない。俺は強すぎるそれは見て伝えるくらいしか今のところできないんだ」


 抽象的なことを語り出した佐野に、茉莉は不信感を抱いた。


「それじゃあ、後で塾長から佐野先生の中学のときの話聞いていいですか?」


 その質問をした瞬間、茉莉はすっと空気が冷たくなったような気がした。先ほどまで談笑していたと思っていた佐野の目が異様に鋭くなっているように感じる。


「俺は構わないけど、多分頼んでも柴崎塾長は話してくれないと思う。お前が何をどれだけ知ってるか、次第だろうな」


 不思議な物言いに、茉莉は混乱する。


「どれだけ知ってるかって、知らないから尋ねるんですよ」

「世の中には知らなくてもいいことだってある」


 佐野の声が一段低く感じられた。それからしばらく休憩室を重苦しい沈黙が支配した。茉莉が佐野にどう声をかけようか戸惑っているうちに、別の講師が休憩室に入ってきた。するとすぐに佐野は先ほどのへらへらした柔らかい口調に戻って、その講師に挨拶を始めた。


「まあ、そのうち教えてやるよ。その時になったら、な」


 授業の時間になり、休憩室を出て行く佐野は茉莉にそう呟いた。顔だけは営業向けに笑っていたが、声は冷たいままだった。

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