第2話 個別指導塾
新しい講師
先日道端で出会った
佐野と出会った二日後、茉莉は授業の準備をするために早めに塾へ向かった。塾の扉を開けると、塾長席に座っている眼鏡の男が笑いかけてくる。
「お疲れ、鳴海センセ。もしかして本当にちょっと疲れてる?」
「え、わかっちゃいますか?」
茉莉の顔を見るなり、塾長の
「この世界、顔色見て気遣いできないと大変だからね。鳴海センセもそういうスキル身につけたほうがいいよ」
「そうなんですね……」
この塾長は茉莉が教育系の仕事を志望していることを知っていて、何かとアドバイスをしてくることが多かった。しかし、その大半は「教育なんてまともな人間のやる仕事ではない」「人間に人間を育てるなど無理だ」「引き返すなら今のうち」というような意地悪なものばかりだった。
「そうだ、昨日から新しい講師来ることになったから。今休憩室にいるから挨拶しておいてね」
塾長は自席で何かの作業をしながら軽く茉莉に話しかけた。
「新しい人、か……」
茉莉は嫌な予感を覚えながら休憩室の扉を開けて、そして凍り付いた。
「や」
休憩室にいたのは、間違いなくこの前夜道で出会った占い師の佐野だった。以前はフードを被ったパーカー姿だったが、今日は講師らしくスーツを着て、髪をしっかり撫でつけている。声で佐野とわかったが、あまりの風体の違いに茉莉は面食らった。
「ちょ、ちょっとなんでここにいるんですか!?」
佐野は置いてあるクッキーを次々包装を破いて口に入れていく。
「いちゃ悪いか。佐野先生だぞ、ほら」
首から下げたIDカードを佐野は茉莉に突きつける。
「で、でも本当に勉強教えられるんですか?」
「この前も言っただろ、センター試験くらいなら何とかなるって。それに塾長と面談してお墨付き貰ってるんだ、文句は言わせないぞ」
意外、という言葉を茉莉は飲み込んだ。そして改めてちゃんとした「佐野先生」を見る。昼間の彼は、夜道で怪しい商売をしている男には到底見えなかった。
「しかし、塾講師のバイトってのはいいな。夕方から出勤だし、週二くらいでも文句言われないし、ガキに勉強教えて金貰えるんだもんな。もっと早く始めとけばよかったかも」
見た目は怪しくなくなったが、中身は相変わらず夜道で占いをやっていそうな胡散臭い奴であることがわかって、茉莉はどこか安心した。
「そんなに甘くないですよ?」
「人生経験少ないガキに言われなくてもわかってるわ」
「何ですか、それ」
悪態をつかれたと茉莉は思ったが、追求しても仕方ないと思い流すことにした。
「まあ黙ってろって。それより、こいつなんだよな? そのクレーム入れてきた奴って」
「そうですけど……って、次の担当あなたなんですか!?」
「ちょっとお願いしたら、塾長に是非にって言われてねえ」
佐野は生徒ファイルを眺めながらコーヒーを啜る。まさかこの短期間に彼が例の悩みの核心部まで辿り着くとは、茉莉も思っていなかった。
成績は小学生の算数から振り返りが必要。志望校は
「源東西って、俺たちの頃から最低ランクだよ。自分の名前が書ければ入れるって」
「それでも、今の壮一君には厳しいかもしれないんです」
「じゃあ、引き継ぎがてら教えてくれよ。どんななん?」
佐野の言葉に嫌味を覚えつつ、茉莉は生徒ファイルから壮一の数学の入塾テストを取り出した。
「今やっているのは、小数点の計算問題と中一の方程式です」
数学のテストは初歩の計算問題だけ辛うじて書き込みがあったが、全て正解しているわけではなかった。それから後は白紙で、このテストを前にした壮一の怯えが伝わってくるようだった。
「この状態で方程式っていうのは?」
「本人の要望で、中学の勉強もやりたいっていうから……」
茉莉は壮一の資料を佐野に見せた。今取り組んでいるのは分数と小数の計算で、次の授業では小数点のある割り算のプリントが宿題になっているという。原則宿題で小学校範囲の計算を進め、授業ではようやく中学の数学範囲に入ったと茉莉は佐野に語った。
「方程式を今やってるってことは、この前まで何をやっていたんだ?」
「面積と立体と、あと割合ですね。小学五年生のテキスト使ってます」
数学どころか算数の範囲を並べた茉莉に、佐野は苦笑いを浮かべる。
「中三でそれは、まあまあキツいな」
正直な佐野の感想に、茉莉は自分のことのように項垂れる。
「そうなんですけどね。それ以上に、その……家庭が複雑で」
「やっぱ、そういう系?」
佐野が身を乗り出す。茉莉は野崎壮一について何を話せばいいのか、少しだけ悩むことになった。
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