第2話(終)


 陽菜の声は、どんどんとはっきりと震えだした。

 数年、いや、十年位前のことだろうか。遠い昔、刹那はぐれて再会した時に聞いた、わんわん泣いて、少し落ち着いた頃にようやく喋りだした声の震え方に、よく似ている気がした。


「うん。そうだね」

「そうだね、って」

「コーヒーマシンが、故障してたんだ。それだけ」

「本当に?」


 僕は、はぁ、とため息をついた。

 

「なんだよ。疑ってんのか?」


 返事はなかなか来なかった。


「怒って、る?」


 ようやく言葉が返ってきた。それは、僕の想像とは異なるようで、心の奥底ではそうなるだろうと想像できていたことのようにも思えた。

 

「怒ってないよ。そういう陽菜は? まだ怒ってる?」

「怒って、ない」


 とん、とんと廊下を進む。

 ついさっき、ひょこりと顔を出していた壁の向こうを、そっと覗く。

 そこには、膝を抱えて小さくなった、陽菜がいた。


「なにしてんの?」

「いや、その……。ごめん」

「なんで謝るの?」

「いや、だって」

「いつものことじゃん」

「まぁ、そうかも。いつものことかも。でも、お兄ちゃんはいつもと違うじゃん。だから、その。いよいよ、ほら、何だっけ? ええっと」

「堪忍袋の緒が切れた、とでも思った?」

「……うん」

 

 あの頃のようにもじもじしているくせに、あの頃とは全然違う。

 同じだけ時を過ごして、その分だけ成長した僕らは、あの頃とは違う。

 けれど、僕の目には、今の陽菜に、あの頃の陽菜が重なって見えた。

 僕が守ってやるからな、なんて、あの頃はまっていた戦隊ヒーローみたいに、かっこつけて言っていた小さい頃の、小さい陽菜が目の前にいるように思えた。


「まぁ、似たようなものかもしれない。でも、兄ちゃんが切ったっていうより、コーヒーマシンに切られたっていったほうが、いいかもな」

「え?」

「陽菜、この後暇? 暇なら、コーヒー飲みに行くか? 兄ちゃん、陽菜が好きなカフェ、なんだか恥ずかしくて行ったことないんだ。注文の方法もわからない。だから、一緒に行ってくれるっていうなら、行ってみようかなって思うんだけど」


 陽菜は、またきょろきょろと目を泳がせると、


「ああ、うん。まぁ、いいよ?」


 と、探るような目で僕を見ながら言った。


 その日飲んだコーヒーは、濃くて苦くて香ばしかった。

「あたし、ミルクとか入れたことあるんだけど、香りがなくなって、美味しさ半減しちゃって、後悔したの。ブラックで頼んだら、ブラックのまま飲んだ方が美味しいよ」

 という陽菜の教えを無視して、僕は僕のコーヒーにミルクを入れた。すると、香りは本当にどこかへ飛んでいった。確かに、美味しさは半減した。僕も、かつての陽菜と同じように後悔した。

 陽菜はその様子を間近で見ながら、くすっと笑った。


   *   *   *

 

 あれから、陽菜とカフェへ行ったことはない。

 けれど、今日、陽菜が久しぶりに帰ってくるというから、僕は、陽菜が嫌でなければ、一緒にコーヒーを飲みに行きたいと思っている。

 僕なんて邪魔かもしれないけれど、コーヒーのお供くらいにはなれるだろう。コーヒーの香りを邪魔することなく、そこにいることくらいできるだろう。


「ただいま」


 玄関から、陽菜の弾む声がした。

 興奮をひた隠しながら玄関へ向かうと、初めて会う男が扉をおさえていた。

 お互いに、ぎこちなく微笑みながら、ぺこりと頭を下げる。

 その様を、陽菜は笑いをこらえながら見ていた。

 愛おしいような、憎たらしいような笑顔から、陽菜の手へと視線をうつすと、そこにアイスコーヒーがふたつあるのに気づいた。


「おみやげ」


 ぐい、と差し出されたカップを受け取る。

 一緒にカフェへ行く、というささやかな夢は儚く散ったか、と残念に思いながらも、冷たいプレゼントに喜びを隠せず、照れ笑う。

 陽菜が連れて帰ってきてくれた、あたたかい記憶をそっと抱きしめながら僕は、


「ありがとう。おかえり」


 と、呟いた。







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陽菜とアイスコーヒー 湖ノ上茶屋(コノウエサヤ) @konoue_saya

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