陽菜とアイスコーヒー
湖ノ上茶屋(コノウエサヤ)
第1話
逃げ出すように外へ出た。
向かう先は足がよく知っている。だから、迷うことなくそこへと駆ける。
――どうせ、コーヒー買って帰ってくるんでしょ?
頭の中に、陽菜の声が響いた。馬鹿にするような、嗤うような、呆れたような、愛想をつかしたような、よく聞きなれた声だった。
けんかをするのは、服を着るように、ご飯を食べるように、眠るように当たり前のことだった。
些細なことで言い合いになっては、陽菜が家に残って、僕が外へ出る。いいや、追い出される。違う、いつも僕が逃げ出しているんだ。
足は勝手に前へ出る。僕はそれに抗うことなく、出したいなら出せと、足にむかって自暴自棄に言う。
そうしてたどり着いたコンビニを見ながら、はぁ、と大きなため息をつく。
何も変わらない。変えようとしたことは幾度もあるけれど、何をしても失敗だった。
一番簡単で成功率が高い回復方法は、コンビニで美味しいものを買って帰ること。
いつの日かそう学んだ僕は、それだけを繰り返す。謝罪する必要があるのが僕であるかは関係なしに、仲直りの話をするためのきっかけを、ここに買いに来るのだ。
これは、昔話とは言えない、そう遠くはない過去のこと。
いつものようにけんかをして、僕は逃げ出した。逃げ込んだコンビニで、陽菜が「食べたいけど見つからない」と言っていたスイーツを見つけた。僕はそれを買って帰ることにした。でも、それはひとつしかなかった。だから僕は、僕の分としてアイスコーヒーを買った。これは僕の分だもんな、と、僕はそれを、薄くなる前に少し飲んだ。
家に帰ると、ひとつだけの、飲みかけのコーヒーを見て、陽菜は拗ねた。
いいや、陽菜にはこれを買ったんだ、と差し出したスイーツをちらりと見て、陽菜は「それは昨日食べた」と吐き捨てた。
今日の気分は、コーヒーだったのに。だいたい、なんで先に口をつけるかな。つけてなかったら、交換できたのに――。
僕は、むすっとした顔をちらりと見て、ごめん、と呟くことしかできなかった。
鮮明な記憶を頭に浮かべながら、いつものコンビニをぼーっと見つめ、再び、はぁ、と大きなため息をつく。
このコンビニは、何も悪いことをしていないというのに、僕に見られるたびにため息をつかれている。なんてかわいそうな存在なんだろう。いいや、それは自分はかわいそうではないと、本当にかわいそうなものが何であるかから目をそらした結果思えることであって、本当にかわいそうなのはコンビニではなく僕なのだろう。
だって、理不尽だ。
いつだって、僕は存在するだけで、文句を言われる側になって、存在すること自体に罪悪感を抱いたりなんかして、安泰を手に入れるために謝罪を繰り返すばかりなのだから。
店内に足を踏み入れると、ちりんちりんとベルが鳴った。
揚げ物が揚げたてだと、店内中に響き渡る大きな声で店員さんが言う。
そういえば、いつだったか、陽菜が「カレーパンが美味しかったから、今度チーズカレーパンを食べようと思ってるんだ」なんて言っていたっけ。
ふと、チーズカレーパンをふたつ買って帰る気になって、その気を首をふりふり振り払う。
どうせ、陽菜は食べただろう。どうせ、昨日の帰り道ででも。
要らない、と言われても日持ちするからダメージが少ない、ドリンクコーナーをゆっくりと見る。
定番商品の隣に、新商品が並んでいる。いつまでここに居られるのやらわからないそれらは、どこか緊張した面持ちをしているように思えた。
そのぴりりとした雰囲気に、なんとなく仲間であるような気がして、ふっと笑う。
ほんの少しの元気をもらうと、献上品探しを続けた。
お菓子コーナーには何があるだろう。パンは? スイーツは?
――どうせ、コーヒー買って帰ってくるんでしょ?
頭の中に、また、陽菜の声が響いた。馬鹿にするような、嗤うような、呆れたような、愛想をつかしたような、よく聞きなれた声だった。
そうだ。僕はいつだって、こうして悩みに悩む。そして、手掛かりがあるならばそれを買うし、手掛かりがなければ、コーヒーを買う。
まるでロボットか何かのように、めったやめったには逸脱しない行動をとる。
このいつも通りのコンビニ旅の結末だって、どうせふたつのコーヒーだ。そうに決まっている、と、顔から笑みを消し去った。
馬鹿にするように、嗤うように、呆れたように、愛想をつかしたように、僕はひとつ、息を吐く。
それから、アイスコーヒーのカップをふたつ手に取って、レジへと向かった。
「大変申し訳ありません――」
ばつが悪そうに笑いながら、店員さんは僕に、『コーヒーマシンが故障した』と告げた。
僕は自分で新たな道を切り開くでもなく、コーヒーマシンの故障によって、新たな道を歩き出すこととなった。
両手が空っぽのまま、とぼとぼと家へ帰る。
「ただいま」
と、呟くと、ふてくされたような顔をした陽菜が、壁からひょこりと小さく顔を出して、僕を見た。
一瞬、目が合った。陽菜の視線は、すぐさま僕の手へと降りていった。
珍しく空っぽの手を見て、驚いたのだろう。陽菜はきょろきょろと目を泳がせると、すっと頭をひっこめた。
カメみたい、と、ぼくは思った。
「どう、したの?」
不満をどうにか押し込めているような、不安を抱えているような、ほんの少し心配しているような、困惑しているような声だけが、僕のもとにふわりとやってきた。
「どうしたって、なにが?」
「らしくないじゃん。お兄ちゃんは、いつだってコーヒー買って帰ってくるじゃん」
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