後編

 邦夫の抱えていた仕事の問題が意外にすんなりと解決して、私達はバミューダで休暇を取ることにした。あの空港での出会いから十七年を経て、ふたりだけで過ごす夏なのだ。


 ともに住み始めればどの男も同じなのだ、という私の仮説は完全に覆った。こんなに穏やかな幸せがあるとしいことも発見した。幸せは長く続くのだということも。

 おそるおそる初めて海に足をいれる子供のように臆病だった私だけれど、彼の体温や匂いに慣れて、大海の中で快く漂っていた。

 

 長い年月、どうしてこういうことにならなかったのか、私達はそのことを話題にして何度も笑ったものだ。私はもう鏡ではない。


「ぼくは初めからアヤが好きだったさ。憧れだったよ。でも、アヤにはいつも誰かがいた」

「誰かがいたのは、クニオのほう。私には誰もいない」

「信じていいのかな。マークとはどうして別れたの」

「彼に恋人ができたのよ。私から、去ったんじゃないわ」

「それも信じられないよ。でも、どうして、誰もいなかったとか、彼が自分から去ったとか、そんなこと言うんだい」

「正直でいたいからよ。きられるのなら、早いほうがいいもの」

「アヤはなんて謙虚なんだ。そんなに感動ばかりさせないでくれよ」

 クニオは頭の上でオーバーに手を広げ、シーツをはがして、私に乗りかかった。

「ぼくが、アヤに厭きるなんて、考えられない」


 邦夫の秘書のグロリアから電話がはいった時、私達はバミューダの明るく蒼い海を望むホテルで、同じベッドの中にいた。

 彼が裸のまま起き上がって電話に出て、私はシーツを纏って窓際に行った。太陽の光が 海の上に、黄金の絨毯のように伸びていた。


 電話を終えると、邦夫が「ヤッホー」と叫んだ。

 アビィが四ヶ月の予定だったフランス滞在をまだ半分残したまま、帰ってくるというのだった。

「パリに取られちゃうかと心配していたのに、取り越し苦労とはこのことだ」

「いつ帰るの?」

「もうこっちに向かっている」

「まあ、大変」

「ニューヨークに戻って、アビィもここに連れて来ようか。まだ休暇はたっぷり残っている」

「それはだめでしょう。急に、私達の関係を知ったら、どう思うかしら」

「ぼくはすぐに言うつもりだよ。ぼくの娘だから、喜んでくれるはずさ」

「時間が必要じゃない?」

「そうかぁ。あの年頃の子供ときたら、予測できないというのは本当だよ。アヤもそうだった?」

「忘れてしまったわ」

 遠い昔のことだもの。私の少女時代なんて。



 私達は次の便でバミューダからラグワーデァ空港に着き、そこからJFK空港まで飛ばしたけれどラッシュに巻き込まれ、アビィのほうが先に着いてしまった。

 

 アビィは父親を見つけると、走ってきて、その身体に抱きついた。

「ダディ、来てくれないかと思ったわ」

「アビィを迎えに行かないなんて、世の中が終わりになっても、ありえないことだよ」

「ダディ、世界で一番大好き。だから、帰ってきちやった」

「ママはよくしてくれたのかい。パリで辛いことはなかったかい」


「パリは夏休みでがらがらでも、やっぱりすてきな街だし、ママもちゃんとしてくれたわ。でも、ママに映画の役がついて、イタリアに行くことになったの。初めママは断わろうとしてたけど、私がいい仕事なんだから行くべきよってすすめたの」


 アビィは麺を茹でる鍋からあふれ流れる湯のように、饒舌だった。

「あら、ダディ、新車?」

 空港の駐車場で、アビィが聞いた。

「レンタカーさ。ダディも旅行に行っていたんだ」

「だから。なかなか連絡がつかないんだもん。ダディからも見捨てられたのかと思っちゃった」

「ダディがおまえを見捨てるわけがないんだよ。そのことは、よく覚えておくことだね」

「冗談よ」

 アビィは急いで、助手席に座ろうとしていた私の傍に来た。


「アヤおばさま、今夜、私がダディの横に座ってよいですか」

 アメリカでは子供は後ろに座るのが普通で、この三人が一緒の時も、アビィはいつも後ろの席だった。

「もちろんよ」

「おもしろい子だ。弁護士の許可はとったのかい」

「弁護士になんて連絡しなければ、何もしないわ。弁護士なんか、もういらない」


「じゃ、何かおいしいものでも食べに行こうか。フランス料理というのはどうだい」

 と邦夫がアヤにウインクした。和食レストランの予約は取ってある。

「それでいいかい、アヤ?」

「もちろん」

 

「私、マクドナルドがいい」

「ジョークかい」

「本気よ。パリにもあるけど、ママったらマクドナルドに恨みでも持ってるんじゃない。目の仇みたいに嫌っているの。だから私、マクドナルドのバーガーに飢えているの」

「わかった。今夜はアビィのリクエストで、かの有名なマクドナルドに行くことにするよ」

「やった」

 アビィが拳をにぎって、上から下におろした。


「うちの娘は安くて助かるね」

 邦夫が私を振り返った。


             *


 マクドナルドの後、邦夫の家に着くと、私はスーツケースを自分の車に移した。

「おばさまも旅行中だったの?」

 アビィが立ち止まった。

 ええ。私は静かに答えながら、目で邦夫の背中を追う。


「そっか」

 アビィはそう言って、残った荷物を家の中に運んで行った。

 邦夫が残りの荷物を取りに戻って来た。私達の目が闇の中で出会う。彼は肩をすくめて笑う。私は夏の終わりのような 感じて、おやすみなさいと微笑みながら、 両腕で自分の体を抱く。そうしなければ、多分震えているのを見も破られてしまうかもしれないから。いいえ、この私が、彼の娘に嫉妬などするはずがない。



 マンハッタンのアパートにはいる時、ドアボーイが驚いた顔をした。休暇はあと半分も残っているのに、こんなに早く戻ってきたからだった。

「仕事が」

 私は顔を少ししかめながら言わなくてもよい言い訳を言って、エレベーターに乗る。八階が私の部屋だ。

 ドアをあけスーツケースはそのままにして、大きなミラーの前でイヤリングを外す。

 恋なんてね、お酒よね。酔いはいつまでも続くはずがないわ。


 私は浴室に行き、バスタブにお湯をみたすために、蛇口をひねる。勢いよくお湯が流れ、白い湯気があがる。その中に、ラベンダーの香りのパウダーを

吉川藤よしかわふじ。シンプルで、よい名前だ」

 そう言ったのは、邦夫だ。

 東野邦夫とうのくにお。邦夫というのは、彼のイメージから一番遠い名前だと私が言った時、彼は笑って賛成した。仕事を始めた時、もっと呼びやすいようにアメリカの名前を考えたんだと彼は言った。

 「でも、どれもしっくりこなくてもたもたしているうちに、秘書が名刺を注文してしまい、仕事が来るようになり、今日に至っているわけさ」

 


「子供の頃の話をして」

 彼がどんなにわんぱくだったか話す時、私は思ったものだ。彼が幼稚園の時、私は中学生なのだった。

 彼は若くて、疲れを知らなかった。私はこの状態が一秒でも長くことを祈りながら、運命の神に、あまり幸せなことを感じ取られまいとした。

 この彼の顔が醜く歪んで、別れる日がくるのだろうかと思うとこわい。


 夏の後半、何度も邦夫の家に招かれた。そのたびに、アビィは蝿のように父親にまつわりついていた。もともとパパっ子ではあったのだけれど、パリでの一ヶ月の間に、これほど過激なほどの父親びいきにしなってしまったのかと、邦夫でさえ苦笑した。


「何があったのかなあ」

 私達の関係については、私が以前より頻繁に訪問するようになったにもかかわらず、アビィから質問されたことがなかった。


 私達の関係がより近くなるためにはまだたくさんの時間が必要だったし、アビィが戻って以来、邦夫とふたりきりになれた時間はなかった、

 私はそのことに対して、できるだけ考えないようにしていた。考えたり、あせったりしても、進むようにしか進まないものだ。幸い、私には、仕事があった。仕事場にはいると、私は変わる。スイッチがはいり、倦怠が消滅する。


 夏の終わり、運命はまた予測しないシナリオを用意していた。

 それは夜の十一時過ぎ、邦夫の電話で始まった。


「今から行ってもいいかい」

 声が緊迫している。


「ええ。どうぞ」

「もう、近くまで来ている」


 私はベッドから下り、ガウンをはおったが、それを脱いで、洋服に着替えた。化粧はしなかったが、鏡を見て、髪を整え、後ろでたばねた。

 斜陽貴族だった祖母がいつも言っていた、負の時こそ、誇りを持てと。


 それがこの時だ。

 私には邦夫が何を言いに来るのか、わかっていた。

 それは、別れ。

 長い年月の末にやっと始まった恋なのに、もう終わりだ。


 きっとアビィに私のことを告げたら、強く反対されたのだろう。それでもう二度と会えない。それを言いにくるのだと思った。

 下からブザーが鳴り、邦夫の声がした。私はドアをあけるスイッチを押す。


 部屋にはいって来た邦夫の顔は青い。あんなに若く、輝いていたのに、一度に十才も歳を取ってしまったように見える。


「アビィがフランスに行くというんだ」

 邦夫は頭を抱えて、ソファに座りこんだ。

「どうして」

 私はグラスに水をいれて、彼にわたした。彼はいっきにそれを飲む。


「あっちの高校にはいるというんだ。もう手続きをして、あさって出発だ。こんな話があるかい」

 アビィはこのところ、少々様子がおかしかった。ぼんやりしているかと思えば、すぐに泣きだしたりする。そうしたら、今夜、夕食には口をつけずに、フランスに行くと言ったのだった。


「まるでかぐや姫だよ」

「それで、行かせるつもり」

「初めはどんなことをしても行かせるまいと思ったけど、あんなに気が違ったように泣く我が子を見たら、 行かせるしかない」

「どうしてなの」

「母親のことが心配だからだというんだ」

「それなら、どうしてフランスから途中で帰って来たりしたの」

「もともとそういう計画で、ぼくにさよならを言いに来たつもりなんだろう」

「どうして今まで黙っていたのかしら」

「反対されるのが目に見えているから、こわくて言えなかったんだと思う。どんなに辛かったかと思うと」

 邦夫が泣いていた。


「サンドラに電話した?」

「いや、どこにもかけていない。今さっき聞いたことだから、気が動転して、気がついたら、セントラルパークが見えた」

「アビィは」

「後はダディとマミィが話し合うから、心配するなと言って、落ち着かせて寝せてきた。今夜はスーザンがいる」

 

 私は時計を見て計算した。パリの時刻には慣れている。

「あちらは、朝の五時だわ。かけるには、早いわね。かけたい時には、どうぞ」

 私は電話を傍に置いた。

「いや、ある」

 彼はポケットから携帯をだした。そして、手の上に取って眺めた。


              *


 空港に着いても、アビィの瞳からは透明の涙が休むことなく流れて、頬が光っている。

 そんなに悲しむのなら、行くことはない。今からだって変更できると邦夫が言った。

「アイ・マスト・ゴー 」

 アビィの鼻が真っ赤だ。

「どうしてマストなんだい」

「ダディのためでもあるの。これしか、ないの」


「ダディのためといのなら、ここに住むことだよ。アビィに行ってほしくない」

 アビィが父親に抱きついた。

「アイラブユー」

 肩越しに、アビィの強い視線が私に突き刺さる。


「大好きなダディ。最後に、約束をしたい。パパからひとつ。私からひとつ。それは絶対に守らなければならないの。いい?」

「わかった。約束しよう」

「じゃ、パパから」

「元気で、困ったことがあったら、すぐにパパに連絡すること」

「はい。守ります、ぜったい」

「アビィのは」

「大学は必ずアメリカに帰って来るから、私がパリにいる間、誰とも結婚しないでほしいの」

「おいおい」

 

 アビィの瞳から涙が流れて、ひくひく言っている。

「わかったよ。約束だ」

「ぜったい?」

「約束だ。さっ、元気で行ってきなさい」

  


 帰りに邦夫が言った。

「あんな約束をさせて。ぼくとサンドラが元のさやに収まることを望んでいるのかな。まだ子供だからね」

 ええ、そうね。

 私は頷きながら、さっきのアビィの瞳を思い出していた。


 私は鏡の女には戻りたくはない。

 そのためには、どうすればよいのだろう。

 私は弱くはない。

 向うがそう出たのなら、私も考えなければならない。

           


   


               了





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鏡の女 九月ソナタ @sepstar

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