大詰(三幕目) 今戸橋の場

大詰 今戸橋の場


本舞台三間の間、正面に真向きの橋を見せ、左右欄干。上の方、柳の立木。下の方、高き山の張物、石垣の蹴込にて見切る。後ろ一面、上手に大川、中央は山谷堀を隔てゝ向う河岸を見たる夜の遠見。すべて前幕より数週間経った待乳山下、今戸橋、夜の体。時の鐘、雨車にて幕開く。下手より以前の才三郎、夜蕎麦売りの拵えにて荷を担いで出て来たり。舞台真ん中にて、


才三郎「善六さんの親切の甲斐もあって白木屋に戻れたものの過ごすうち、旦那夫婦はもちろんながら、花駒さんに会うたとて面目次第もないゆえに、見交わす顔さえついそむけ、また朋輩衆になんぞ言われまいかと案じるうち、気苦労祟ってとこに伏したを幸いに、育った場所にいとまを告げ、ようようどうにか伝手を頼り、今はしがない夜蕎麦売り。栄耀栄華とはいかねども食う飯には困らなかった活計たつきから、今や一文二文の銭さえも、かき集めて過ごすその日暮らし。羅生門や西河岸を小馬鹿にしてた、この才三がなんの因果か夜鷹蕎麦。苦界苦界とは言うけれど、出てみたところでやっぱり浮世、いずれへ逃げても三界の火宅にこそは変わらぬが○まだ、自らの手足で稼いだほうが、きなきなせずにすむわいなあ○あゝ、いつの間にか今戸橋、こゝらはもう人通りも少ないが、夜参り帰りと一つ見込んで仮住まいといたそうか」


ト才三郎が用意をするうち、佃の合方になり花道より前幕の助七、尻端折り、一本差し、下駄がけにて出て来たり。よきところにて、


助七「この通りも雨が降り、待乳山への夜参りも廓帰りのよいどれも、途切れた今が物怪の幸い○ヤ、向こうに見ゆるは夜鷹蕎麦。首尾よく去ってくれるとよいが」


ト助七、本舞台に来て、


助七「おい蕎麦屋さん、いっぺいくんな」

才三郎「はいはい、畏まりました」


ト二人は互いに気付かず、才三郎は蕎麦を拵えにかゝる。


助七「時に蕎麦屋さん、お前は毎晩こゝら近所を回っているのかい」

才三郎「いえいえ、つい先日から始めた渡世ゆえ、まだ居所が決まっておりませぬ」

助七「なに新参か。声からして若い者とお見受けするが、この商売は難儀も多いであろう」

才三郎「あい。定まらぬ流れの身、人通りが多いところに参りましたら年嵩にこゝはこちらの縄張と、けんもほろゝに追い返され、また往来が少ないところでは銭の足しになりませぬ」

助七「なに心配しなさるな。浅草に限ってなら、このおれの名前を出しゃあ、あっちも折れてくれるに違えねえよ」

才三郎「して、あなたのお名前と申しますは」

助七「おう、おれの名は助七○いや、助六だ」

才三郎「おほゝゝゝ。これは世に名高き曽我五郎時致さまでございましたか。闇夜でわからず失礼いたしました。かたきの詮議のほうはいかゞでございましょう」

助七「○ありかはすでに知れてるから、あとは切るだけ、」

才三郎「エ」

助七「いや、ありかはすでに知れているが、狩場の切手がないのでございますよ」

才三郎「それはいかい苦労でございますね○はい、お待ち遠」


ト蕎麦を出し、両人は顔を見合わせ互いに気付く。


才三郎「ヤ、あたなは助七どの、」

助七「そういうお前は才三さん、」

才三郎「これは異なところで、」

両人「出会ったなあ/出会いましたなあ」


ト両人思入れあって、


助七「ところで、そのなりを見れば、お前は廓を○」

才三郎「善六さんのお力添えで、一度は見世に戻りましたが詰まるところは居心地悪く、今はご覧の通り夜鷹蕎麦の身の上でございます。大層お世話になった助七さんに便りも出さず、だいぶ無沙汰をしてしまいまして、合わせる顔がございません」


トこの内、助七は蕎麦を食う。


助七「いや、合わせる顔がないのはこちらとて同じこと。世間の噂は早いもので、あのお新めにやりこめられたとことがすぐに広まり、あいつはあの年でもう焼きが回ったのかと、昨日まで近付きだったやつにさえ、裏でこそこそ言われるしだら」

才三郎「その噂はこちらにも届きましたが、元を辿れば、この才三めが死のうとするところを抱き止めていたゞいたゆえ。そう思えば、なんと詫びればよいものか」

助七「なに詫びには及ばねえよ。所詮は一本差しなぞこの程度、風向きさえよければ肩肘張って歩けるが、流れが変われば柳に受ける世の中だから、厄介者になるのは知れたこと○それと知って、人に褒められると気分がよいからこの生業なりわいを選んだはこちらが因果。丁が出るか、半が出るかは盆の上ならなんともなろうが、天網恢恢てんもうかいかいにして漏らさず、危険な橋を渡るなら、いずれはお天道様に翼を焼かれて、落っこちるのが必定さ」

才三郎「そうは申しましても、これまで売った恩を返さぬうちに、むざむざ仇で返すとは、誠に浮世は○それにしても、今宵はどういうわけで、このような外れまで」

助七「エ○いや、川向こうに桜関という贔屓の相撲取りがいなさるから、ちょいと顔を見にでも行こうかと」

才三郎「こんな夜分に、でございますか」

助七「あちらはおっかあの具合が悪いゆえ、遊びに出るわけにもいくまいから、気散じがてらこんな夜分に、わざわざ見舞いに行くのだよ」


ト才三郎、思入れ。助七、この内、蕎麦を食い終えて懐より財布を出し、思入れあって財布を丸ごと渡す。


助七「今日の勘定だ」


ト才三郎、これを受け取り、驚いて、


才三郎「いえ、このようなものは受け取れませぬ」

助七「なに、宵越しの金は持たねえのが江戸根生いの作法とやら。加えて駆け出しの夜蕎麦売り、銭金に苦しんで深いところに飛びこまれちゃあ、こちらの寝覚めが悪いから○なに、構わずに貰っておくれ」

才三郎「さりながら、恩を返さぬそのうちに、また恩を売られては、こちらの長い顔が立ちませぬ」

助七「貰ってくれるも一つの恩の返し方。くどくど言わずに受けてくれ」


ト才三郎、思入れ。


才三郎「たってと申すならお貰いもしましょうが、せめて帰りの駕籠代に、六文銭をばお返ししましょう」

助七「ヤ、そんならお前は○」

才三郎「そのさまでは、いくら無粋と言われるこの才三でもたやすく見抜けましょう○されど、最前申しました通り、ことの起こりはわしゆえに、長い異見はつぐみますが、お帰りをお待ち申しておりますから、この財布はそれまで預かっておくことにいたしましょう」

助七「恩に着るぞ」

才三郎「もし、ことがすんだらば、必ず訪ねてきてくださいませ」

助七「おう。決して気を揉むことはあるめえよ」


ト才三郎、内を聞かぬのだなという思入れあって、


才三郎「もし、内は日本橋の乗物町にございますから。必ず必ず、お待ち申しておりますよ」

助七「おう」

才三郎「左様なら助七さん、」

助七「降らねえうちに行きなせえ」

才三郎「これが別れと○」

助七「エ」

才三郎「いや、これまで若い者にことさらのご厚情、かたじけのうござりました」


ト両人、思入れあって、唄入りの合方になり、才三郎は荷を担いで花道にかゝる。よきところにて才三郎、振り返り、やはり止めるべきかという思入れあるも、トヾ花道に入る。助七、これを見送り、思入れあって、


助七「まだ青二才のその癖して、まこと殊勝なやつだなあ○それに比べて、このおれは。顔に泥を塗られるを知った上での男伊達。後ろ指を指さりょうと、何事も商売のうちと腹に納めるつもりだったが、さっき子分の弥兵衛が来て、お新が下働きの勝やらと盆の上でのやり取りから、喧嘩になったその時に、うぬの親分の助七はお新にケチをつけられても仕返しせずに指くわえ、引っ込み思案でいるゆえに、そんなやつの手下では相手にするは不足だと、満座の中で恥をかゝされ、家に帰ってきやがった。我慢強い弥兵衛だが涙をこぼして悔しがり、仕返しをしに出て行くと言うのを止めて二階へ寝かし、雨を幸い大川へ夜網を打ちに行くと言って、こっそり内を抜け出したも、これからあいつがいずくへと商いに行くと聞いたから、幸いそれを待ち伏せて、日頃の遺恨を○」


トこの時、奥より人音がするゆえ、助七、橋の方を見て、


助七「ムヽ、橋の向こうからやってくる人影は、たしかに姿形は似ているが○何にしろ、木陰に忍んで、」


ト助七、下手に忍ぶ。奥より前幕のお新、簪をつけ、下駄掛け、蛇の目傘をすぼめて持ち、同じく前幕の勝奴、尻端折り、下駄掛け、鬢盥を持ち、小田原提灯を提げて先に出る。


勝奴「姉御、これから出かけようとするその時に、雨が止むとはなんだかついている気がしましょうね」

お新「しかし、雲切れがちっともねえから、また今に降るかもしれねえなあ」

勝奴「ちげえねえ。そんならわっちは一足先に先方へ向かいましょう」

お新「おう。あちらも身持ちが堅いお女中さん、決して見られちゃあいけねえよ」

勝奴「いつも通り裏木戸から○しかし、姉御も夜道ゆえ、決して油断をしちゃあいけねえよ」

お新「なに乞食だろうが犬だろうが、(ト匕首が入っている辺りを叩き)案じることはあるめえよ」

勝奴「いや、わっちが案じるは畜生より劣る、あの野郎」

お新「なんだい、助七かえ。つらに金を叩きつけたから仕返しにでもくるかと思いきや、今日が日までぐずぐずと手出しもしねえ意気地なし、藪をつゝいたわけでもなし、なに恐れることがあるものか」

勝奴「いや、そうでもありましょうが、短慮で馳せたやつでございますから」

お新「こう、つまらねえことを言いやるな。これ以上、遅れちゃあ先様に迷惑をかけるから、だらだらしてる暇があるなら、さっさと先へ行ってくれ」

勝奴「それじゃあ姉御、行ってきますから、提灯をあげやしょう」

お新「どうで行き先は同じだ。無提灯じゃみっともねえから、てめえが持って行け」

勝奴「○それじゃあ、姉御行って参ります。どうぞご用心を」


ト唄入りの合方になり、勝奴は花道にかゝる。よきところにて勝奴、振り返り、心配する思入れあるも、トヾ花道に入る。お新、後を見送り、


お新「はて、あの様子じゃなにか粗相でもしやがったか。憎まれゝば憎まれるほど、世間に名が売れるとはいえ、同時に恨みも買うのが習いだから、足元を掬われぬよう気をつけよう。(トこの時、雨車になり、)またばらばらばら降ってきやがった。大降りにならねえ内、どれ、ちっとも早く出かけようか」


ト下手へ行きかける。この時、下手より以前の助七、出てきて、すれ違い、お新だなという思入れ。お新、花道へ行きかゝるを、助七キッとなり、


助七「おい、お新。ちょっと待てもれえてえ」

お新「そういう声は、」

助七「花川戸助七だ」

お新「なに助七だ」


ト時の鐘、凄き合方になり、


助七「今夜てめえがこの先でひと仕事あると聞いたゆえ、出かけて行くのをさっきから橋の袂で待っていた」

お新「わざわざ待っていなすったとは嬉しいね。帰りに一声かけてくれゝばいゝものの、先回りしなさるほどに、わっちに会いたかったとは女冥利に尽きるじゃねえか」

助七「なんぼ焼きが回ったとて、てめえに好き好んで会いに行くほど初心うぶじゃねえつもりだが、そう思いたいのなら思うがいゝさ」

お新「そんなら、なんでこのお新が、一人になるまで待っていたのだ」

助七「待っていたのはてめえから、貰えてえものがあるからだ」

お新「なに銭でも恵んで欲しいのかえ」

助七「くだらねえ台詞はよしにしろ○おれが貰えてえのはお新、てめえの命だ」

お新「どうしたと」


ト両人見得。合方、きっぱりとなり、


助七「まだ駆け出しの遊び人、世間が見えねえてめえゆえ、礼儀作法を知らねえから、わざわざ言って聞かそうが、いつぞやおれが白木屋からよんどころなく頼まれて、娘を貰いに行った時、扱い金を顔へ打ち付け、恥をかゝせた意趣返し。その時、いっそ一思いにち放そうとも考えたが、幸か不幸か刀はなく、一度家に帰ったら小娘相手に大人気ねえと自然に頭も冷えはしたが、日に日に増える世間の悪口あっこう、意気地がねえのと腰抜けのと人の噂を聞くたびに癪に触ったその上に、てめえの子分の勝とやらが、盆で負けた腹癒せにうちの弥兵衛を足蹴にしたと耳にしたから、ついに堪忍ならねえと、待ち構えたこゝがてめえの墓場だ。会わせてやるは先祖代々のこの刀、名を銀杏いちょう丸というからは、鶴のように首を垂れ、潔く散ってくれ」


ト助七、きっと思入れ。お新もこなしあって、


お新「その仕返しなら今日来るか、明日来るかとあの時から毎日待っていたところ、幾日いくにち経っても来ねえから、尻腰のねえあにさんだとうちで勝に愚痴ってたら、言伝さながら寝耳に聞こえたか。弟子の粗相は詫びるけど、金を突き返したは本心だ。ちょうどところも待乳山、聖天さまの足元で、昇天するのも悪くねえ」

助七「その身も罪も大川に、真っに沈めてやるつもりだから、」

お新「浮かぶ姿は聖観音しょうかんのん、」

助七「悪党風情の猿若真似も、」

お新「今日こんにち限りの今戸橋、」

助七「焼くなら小塚原こつも目鼻の先、」

お新「葬る先は易行院いぎょういん、」

助七「やれるものなら、やってみやがれ」


トこれにてお新、持ったる傘でかゝり、助七も刀を抜いてちょっと立ち廻る。両人きっと見得。早木魚の合方になり、助七、立ち廻り傘を打ち落とす。お新、匕首を抜き、両人立ち廻り、トヾ助七、お新を切る。両人見得。合方を止めると、両人改まり、その場に座して礼をする。


助七「東西東西。もはや勝負は明白なれど、にっくきやつとはいえ実の弟、手ずから切るはあまりに不憫。それゆえ作者の手抜かりと申せども、まず今日こんにちは、」

両人「これ切り」


拍子幕

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仇娘今七情(あだむすめいまにしちじょう) 新林贋阿弥 @shinringanami

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