二幕目第二場 今戸町お新内の場

二幕目第二場 今戸町お新内の場


本舞台平舞台。薄縁。正面、一間の障子、後ろの棟割との間をぶち抜いた体。上手一間の押入れ戸棚。下手白壁、膳棚の書割り、この前に一つ竈、手桶など台所道具よろしく。上の方、後へ下げて植木鉢に季節の草花を飾り、大きな窯を置き、隅田川の片遠見。いつものところ門口、その外に井戸。下の方に路地口、この向こう裏長屋の片遠見。上手に鏡台など化粧道具よろしくある。すべて浅草今戸町、髪結お新内の体。こゝに以前の勝奴、箱火鉢へ薬缶をかけ、火を起こしいる見得、四つ竹節にて道具止まる。路地口より相長屋伝兵衛、着流しにて出て、門口まで来る。


伝兵衛「勝さん、姉御は留守かえ」

勝奴「あい、今は湯へ行っておりますが、もうじき帰ってくるかと」

伝兵衛「夕べ、九つ頃まではこっちのうちで女の泣き声が聞こえてたが、今朝隣で聞いたらば、廓から娘を引っさらってきたそうだの」

勝奴「引っさらったなんて伝兵衛さんも口が悪い。とうから姉御とよい仲で、身請けされそうだから連れて逃げてくれと言うので、夕べ連れてきたんでございますよ。今は疲れ果てたのか奥で寝ていやすが、夜のうちは心細くでもなったのか、ぐずぐず泣いて困りました。さぞおやかましうござりましたろう」

伝兵衛「なに夜通しじゃねえのなら構わねえよ。泣き声が耳についたところで、所詮は寄る年波には勝てねえからすぐにぐっすりさあ」

勝奴「そりゃあ、なによりでござります」

伝兵衛「しかし、女郎なら、さぞ見世で案じていよう○いや、あそこならそういうこともあるまいか」

勝奴「あのような輩のいる場所よりは、まだこちらのほうが心地ようございましょう」

伝兵衛「違えねえ」


ト時鳥笛になる。


伝兵衛「だいぶ時鳥の声を聞くが、まだ鰹の声は聞かねえようだ」


ト揚幕より、


お菊「鰹、鰹」

勝奴「噂をすりゃあ影とは言うが」

伝兵衛「どうやら、普段とは違う趣向だ」


トさつまさの唄になり、花道より以前のお新、簪を挿し、手拭い、好みの湯上がりの拵えにて出で来たり。後より長屋の娘お菊、派手なる鬘、町娘の拵えにて、丸鉢に頭のない鰹の片身と刺身を入れたのを持ってやってくる。


お菊「お新さん、お新さん」

お新「○なんだい、お菊さんじゃあねえか。(ト髪を指し)素敵に似合っているなあ」

お菊「あい、お陰さまで○して、こちらはその礼にと思いまして」

お新「初鰹かえ。じゃあ、れことはうまくいったのだな」

お菊「○あい。それで安う譲ってもらいました」

お新「いくらになったんだい」

お菊「三分一朱のところが二分になりました」

お新「うまくやったねえ○しかもわざわざ捌いてくれるとは、お前はやっぱりいゝ女だあ」

お菊「片身は腹皮を大ばなしに、芝作りにしたので、後の半身はお好みで」


ト両人、本舞台に来たり。お新、鰹の入った鉢を受け取り、内に入る。


お新「勝、お菊どんが先日の礼にと鰹をもってきてくれたぞ」

勝奴「こりゃ、おゝきに○おゝ、こいつは滅法新めえだ」

お新「夕べの祝いだ。一杯やるには持って来いさ」


トお新、鉢を勝奴に渡すと、上手によろしく住まい鏡台を前に、顔を直すこなしよろしくある。伝兵衛、この様子をうらやましく見て、


伝兵衛「新さん、鰹はいくらだったね」

お新「貰い物だから、いくらもなにもありゃしねえよ○でも、初の字がつくものだからせめて一両でも出さなきゃありつけまい」

伝兵衛「貰い物なら、ちいとばかしお裾分けしてくんねえか」

お新「何を言ってやがる。てめえにはてめえの稼ぎがあるだろうよ」

伝兵衛「そうは言うても、わしなどは一両あったら歌舞伎座の一等席に座りたくなるものだからなあ。

お菊「近頃は、お前さんのような人ばかりだから魚売りは上がったりだと魚吉うおきちさんも申してましたぞえ。みんな三分でも一両でも高い金を出して買うのは、初というところを買いなさるのじゃ」

伝兵衛「お前も言うようになったなあ。昔はあんなに小さくてかわいかったのに」

お菊「余計な口を聞くんじゃねえ。あたり近所に聞こえちまうだろうが○えゝ、そこまでおっしゃりますのなら、あたまはうちで汁にするつもりだから、それをお貰いなせえ」

伝兵衛「その申し出はありがてえ。これで初鰹にありつける」

お菊「○それならお新さん」

お新「おう。またいつでも来ねえ」


ト二人が挨拶する隙に、伝兵衛は有り合う茶碗を盗んで懐中する。合方になり、両人は下手路地口に入る。


勝奴「しみったれな親父だ」

お新「ありゃあ、生まれつきだ○」

勝奴「○時に姉御、朝から鰹とは豪気だね」

お新「夕べに加え、今に白木屋から金を持って人が来るから、前祝いに一杯やるのよ」

勝奴「お前が玉を引き上げたを、あの才三の野郎が知っているから、もう何とか言ってきそうなものですね」

お新「どうだ。おれが湯に行っている間、なんか言やあしなかったか」

勝奴「いやあ、うんとすんとも言わなかったぜ。それでも昨晩はあれだったから、隣近所の旦那衆に覗かれるのであっちは困りやしたよ」

お新「ご禁令のことでもしやしめえし、相対ずくで連れて来たのだ○てめえらの手が届かないからと言ってすけべえ根性を出すんじゃねえ」


トわざと隣へ聞こえるように大きく言う。


勝奴「でも、言いつけられるでもすると面倒だ」

お新「そんなことでもしてみやがれ○一緒に抱いて行ってやるぞ」


ト再び大きく言う。


勝奴「○これさ○大きな声はしねえがいゝ。大屋の丹兵衛さんに聞かれるとまた面倒ですぜ」

お新「構いやしねえよ。あいつは大きな図体のわりに人のよさが隠しきれねえ腰抜けだ○それよりはその女房のお熊だ。太えことには抜け目のねえ、あいつこそおれにとっての大敵薬だ」

勝奴「違えねえ」


ト木遣り崩しの端唄になり、花道より前幕の助七、羽織、着流し、雪駄、弥兵衛と共に出で来たり。よきところにて、


助七「山猫。新三の家は向こうかえ」

弥兵衛「今、大屋のところで聞いて来たから違えねえ」

助七「家にいりゃあいゝのだが」

弥兵衛「○庭の窯から煙が出てるから、きっと内にいるのだろう」

助七「間抜けめが。ありゃあ焼き物の窯だから、滅多に火は消さねえものだ」

弥兵衛「○親分の火もつかなきゃよいが」


ト両人、門口まで来て。


助七「おう、ごめんよ。お新はいるかい」

勝奴「おう、誰だい」

助七「おれだよ」


ト助七、門口を開ける。


勝奴「姉御、花川戸の親分がおいでになりやした」

お新「親分が○こりゃあ親分、よくおいでなさいました。さあ、どうぞお入りになすってくんねえ。何を思ってわたくしどもへ、まあひとまずこちらへお上がりなされませ○これ、早く茣蓙を○いや座布団を敷いてやってくんね」


トお新、変わらず顔を直しつゝ言う。


勝奴「あいあい。(ト中央やゝ下手寄りに座布団を敷き、)親分、これへおいでなされませ」

助七「なに、敷物には及ばねえよ」

お新「いえいえ、決して蛆は湧きゃしませんが、花も咲きませんから。どうぞ遠慮しねえで」

助七「それじゃあ、ごめんなさえまし」


ト座布団に住まう。


弥兵衛「あの、わっちは」

勝奴「てめえはたしか子分の山猫弥兵衛か。山猫とつくのなら地べたぐらいが相応だ」

弥兵衛「なんだと、てめえ」

助七「○弥兵衛。人様の家だ。静かにしやがれ」

弥兵衛「へい」


ト弥兵衛、仕方なく勝奴と共に下手に住まう。


お新「して親分、今日は橋場の桜川関にでも会いにいらしたのですか」

助七「いや、おめえにちっと用があって、それでわざわざやってきたのだ」

お新「わっちに御用なら、ちょっと人をよこしておくんなさりゃ、こっちから参りますものを○こんなきたねえところへおいでなすって、誠に面目次第もござりませぬ○して御用とおっしゃりますは」

助七「用と言うのは他でもねえ。白木屋のことでやってきたのだ」

勝奴「それじゃあ、親分はあの白木屋のことでおいでなすったんでござりますか」

弥兵衛「おう。先様が引手茶屋の善六さんを通して、あえて親分に頼んできたのだ」

お新「大方、この荷は親分のところへ降りるだろうと、実は勝と話しておりましたが、どうぞ親分、このことばかりは口を利かずにいてくださいまし。いえね、お前さんに口を利かれると、わっちはどんなことでも顔負けで、うんと言わなくちゃなりませんから。ね、どうぞ口を利かないでおくんなさいまし」

助七「いくら口を利くなと言っても、おれも男と見掛けられ、よんどころなく頼まれて、こうして出掛けてきたのだから、そんならそうかとこのまゝに、帰られるわけがねえだろうよ○どうせお前も金目当て、そこはさっさと了見してくんねえ」


トこれを聞き、お新は癇に障る思入れ。


お新「親分、それはちょっと読みが違いますよ。あちらが何を言ってきたかはわっちにはわかりませんがね、なかから連れてきた女郎、名は花駒とおっしゃいますが、何もかどわかしてきたんじゃあございませんよ○普段仕事に行く白木屋だが、話を聞いたが縁となり、辛い勤めの慰みと、ふとじゃれあったが互いの因果。軽い遊びですませるつもりが、拙いなりの手練手管に、わけて一途な心だから、ついにはこちらも情が湧き、惚れた腫れたの仲となり、今度身請けされるにつけて、是非連れて逃げてくれと身と心で口説くから、わっちも大きな帳場を捨てる覚悟したその上で、夕べ家へ連れて来たのさ○もし、これが金目当てなら逃げられないようにふん縛り、戸棚にでも放り込もうが、こゝは苦界じゃございませんから、折檻や仕置きなどはしやしません○ほれ、奥にいますから、親分も話を聞いてみてくだせえ。きっと拐かしなんぞじゃないと、あのおちょぼ口で物語ってくれますよ」

助七「仔細はすでに一通り他のやつから聞いているから、てめえの言い分なぞ知ったことか。くどく言っても落ちるところは、やっぱり同じ谷川だから、水掛け論をするだけ無駄だ。男の髪結なら腕さえありゃ、どこへ行っても困りやしねえが、娘なら廓以外は御法度ゆえ、帳場を捨てたとまで言い切るからは、よほどの覚悟があってした仕事。なんぼ頼まれたからといって、たゞで連れて行こうとは言やしねえ。いずれは揚巻ぐらいにはなりそうな、白木屋の女郎のことだから、おめえの腹じゃあ一本も取る気だろうが、そんな大金を渡したことが世間に知れちゃあ、あちらの暖簾に傷がつく。(ト懐より十両包みを出して)不承だろうが、お新さん、こゝは助七の名とは逆さまながら、一つ負けてくんねえか」


ト助七、包みをお新の前に置く。お新、化粧を終え、これを取り上げ見て思入れ。


お新「それじゃあ親分、あんたの名前で、連れて逃げたあの花駒を、返してくれとおっしゃいますんで」

助七「定めて気にもいるめえが、それで不承してくんな」

お新「その花川戸助七の名前でかえ」

助七「知れたことだ」

お新「えゝ、てえげえにしやがれ」


トお新、助七へ金を叩き返す。


助七「何をしやがる」

お新「何をするものか。叩き返したのだ」


ト助七、立ちかゝろうとするので、弥兵衛慌てゝ止める。


助七「十両が不承というか」

お新「てめえは何もわかっちゃあいねえなあ」

助七「どうしたと○」

弥兵衛「あゝ、これ親分。こゝは辛抱してくださいませ」

お新「何度言ってもわからねえようだが、手足足切れを貰おうと思って、娘を連れて逃げやしねえ。急に身請けが決まったから連れて逃げてくれなけりゃ身を投げて死ぬと言うから、殺した日にゃあ見世の損だから連れて逃げたやったのだ。不理屈を言やあ命の親だが、たかが女の髪結ゆえ、そちらが筋を通してくれりゃあ返してやるめえものでもねえが、貰いにきたその人が聖天町から駒形かけ、陰間茶屋や芸者屋を年中籠めて幅利かす、名高い花川戸助七さん、その親分風が気に食わねえ。これが茶屋の番頭が訳を言ってもらいにくりゃあ、同じ囲いの馴染みだから、たゞでも娘は返してやるが、強い人だから返されねえ。大きな川こそ隔やしないが、山谷やまたに越えたこゝをどこだと思っていやがるか。決して立派じゃなけれども、外堀も内堀もちゃんとある弾左衛門様の城下町でい。観音様の御門前ならいざ知らず、のこのこ、こっちに出向いてきたからにゃ、一寸でも後へ引いちゃあ仲間に顔向けができなくなる。人をコケだと思いやがって、花川戸助七だから負けてくれ、その名前だから負けられねえ。こんなことは言いたかねぇが、言わにゃあドジにゃあわからねぇから、仮名書きで言って聞かせてやろう○生まれは上総の木更津だが、若え時分から旅役者として六十余州を渡って歩き、美人局やらゆすりやらで、とうとうしまいは喰らい込み、左腕へ二本線が入った入墨お新だ。おめえ達に脅されて、拐さらった娘を返すような、そんな小娘だと思いやがるか○おい、勝。見てみろよ、これで親分だとよ」

勝奴「ほんに好かねえおじさんさあねえ」

助七「うぬめ、おめおめと言わせておけば」


ト再び立ち掛かるのを、弥兵衛止める。


お新「なんでい、切るつもりか。やってみやがれ。こっちは髪結だ。刃物なんて怖かあねえぞ」


ト体を差し寄せ、刀がないことに気付いて思入れ。


お新「なんだ。犬脅しもないのかえ。わっちにはいらねえってか○けっ、つくづく舐めた野郎だぜ」

弥兵衛「親分、いけねえ。どうかこゝは堪忍してくれ」


ト助七堪える思入れ。この以前、花道より前幕の善六やってきて、中をそっと覗いて、このまゝではいかぬというこなし。そこに下手路地口より、丹兵衛、家主の拵え、羽織、着流し、駒下駄にて出てきて、善六に何か囁くことあって、両人路地口に入る。


助七「放しねえ」

弥兵衛「そうは言っても」

助七「もう頭が冷えたから放しねえ」


ト弥兵衛が恐る恐る放すと、助七はどっかと座る。


助七「なるほど、てめえの言った通り、得物を持ってきていたらば、迷わずすっぱりいっていた。年を取ったつもりでも、あと二つは干支が回らねえと、どうもこのかんの虫は治らなそうだ○やいお新。よくも恥をかゝせてくれたな。御大層なことを言うようだが、品川から千住まで誰知らねえものもねえ、花川戸のこの助七、てめえと違って両腕の傷は喧嘩で受けた傷だから、命のやり取りしてやるも満更馬鹿馬鹿しいとも思わねえが、今日は人様の喧嘩を買っただけで無法なこともできねえから、後先を考えてこのまゝ帰ってやるが○いや、これ以上は言うまいぞ」

お新「なに、恩に着せて帰らずとも、すぐにでも掛かってきやがれ。四十しゞゅうを越えたばっかりで、膝が悪いとも人に聞いたが、まだまだ先が長えのに、もう隠居面づらなのが気に食わねえ。器の狭い子分どもの話なぞうっちゃって、もう少し好きにやったらどうだい」

勝奴「いや、どうで今のまゝ、自分の城に閉じこもり、ちやほやされるがお似合いだ」

お新「近頃の世間では忰たちのほうが人気だともっぱらの評判だ」

両人「ハヽヽ」


ト嘲笑う。助七、腹の立つ思入れあって、


助七「取るに足らねえてめえたちにこんなことを言われても、同じ贔屓の目の前ゆえ、事の大きくなるを嫌って、じっと我慢はしてやるが、持って生まれた癇癪に、」


トキッとなるので、弥兵衛慌てゝ抱き止める。


弥兵衛「もし親分、こゝでお前が短気を出しちまうと、内緒のことも表沙汰。加えて女相手に言い込められたが世間に知れゝば○今日のところはこのまゝに、どうぞ一緒に帰りましょう。白木屋さんも善六さんも訳さえ話せば、きっときっと了見してくれらあ」

助七「○どんなに恥をかこうとも今日は無事に帰るから、おめえが案じるには及ばねえよ」

弥兵衛「それでおいらは安堵した」

お新「喧嘩は止め手があるのが花とはいえ、今日に限ったことじゃねえから、いつでも仕返しに来るがいゝさ」

助七「この一件がすんだなら、今日の礼をしにくるから、心配しねえで待っていろ」


ト助七、弥兵衛は門口の外に出る。


お新「わざわざ来るにゃあ及ばねえ。こっちのほうから出掛けていくから、居留守を使ってくださんすな」

助七「たかの知れたるてめえたちに、なんでおれが逃げるものか」

お新「その捨て台詞を忘れなさんな」

助七「そんならお新、」

勝奴「たがの緩んだおあにいさん、」

お新「これ、冠のつく親分様だ。失礼なことを言いなさんな」

勝奴「そうでしたっけ」

助七「どれ、指をくわえて(ト門口を閉める)帰ろうか」

勝奴「一昨日きやがれ」


ト助七、思入れあって、


助七「あれだけ短気を出すめえと誓ったはずが、お前のおかげで危ういところを助かった」

弥兵衛「わっちもだいぶ冷や冷やしたが、怪我人が出なくて何よりだ○しかし、お新のやつめ。親分、意趣返しならいつでもお供いたしましょう」

助七「馬鹿を抜かすな。相手がいくら性悪でも女に手を出してしまったら、世間の鼻つまみになるのは知れたこと」

弥兵衛「それじゃあ、親分はこのまゝ○」

助七「なに、そんな顔をするんじゃねえ○して、山猫、少し使いを頼まれてくれねえか」

弥兵衛「へえ、なんでございましょう」

助七「話が治まらなかったからには、こいつはおれにはもう無用の長物だが(ト懐中より最前の金を出し)、このまゝ廓に戻るのも面目ねえから、お前さん、これを大屋さんに預けてきてくれねえか」

弥兵衛「大屋さんにでございますか」

助七「この騒ぎを聞いたなら、いずれ善六さんがやってきて、したら向かうはそこだから、二度手間にならぬよう先に手を回しておくのさ」

弥兵衛「それなら親分が直々に」

助七「大手を振って観音参りする一本差しがどの顔して、女髪結との話がまとまりませんでしたので、どうぞ大屋さんお願いします、と頭を下げられようか○面倒をかけて悪いけど、どうか一人で行ってくんねえ」

弥兵衛「そうまで言われましたら○されど、いずれお新を討つならば○」

助七「はて○こゝは往来。さっさときゃれ」

弥兵衛「へい」


ト合方になり弥兵衛、路地口に入る。助七はよきところに来ると、振り返ってキッとなり、今に見ていろというこなしあって花道に入る。勝奴、門口を開けて、向こうを見つゝ、塩花を振って、


勝奴「姉御、あいつ尻尾を巻いて逃げていきやしたぜ」

お新「金を横っ面へ叩きつけ、もし手出しでもしやがったら、こっちも剃刀で応えてやろうと固唾を飲んで待っていたが、手出しもせずにすごすご帰って行ったのは意気地がねえが、実はこっちも仕合わせだ」

勝奴「喧嘩になったら、わっちも加勢してやろうと構えておりましたが、口ほどにもねえ弱えやつですね。花川戸と名がつくからは、もう少し尻腰がありそうなものだと思っておりましたが」

お新「おれがあいつと喧嘩をして、かすり傷一つでもつけたなら、お新も豪気なことをしたとこっちの体に箔がつくから、向こうもそこに心がついて、手出しをせずに帰るのだ」

勝奴「そこへ心がつくというからには、あいつもついに焼きが回ってきやしたかね」

お新「その焼きよりは日差しが回った。早く鰹を食おうじゃねえか」

勝奴「とんだやつの来訪で、さっぱり忘れていた。やっぱ冷やがようござんすかね」

お新「おう、たしか昨日、伝兵衛さんにもらった灘の生一本が」


ト勝奴、台所を見て、


勝奴「ありやした、ありやした○こいつは滅法上等そうな」

お新「伝兵衛さんはこういうのに目がねえからなあ○おう勝、さっさと支度をしようかえ」


ト合方になり、両人、捨て台詞にて膳の上に以前の刺身を載せ、徳利などを用意する。


お新「勝、ついでくんねえ」

勝奴「へい」


ト勝奴、酒を注ぐ。お新、これを呑み、美味いという思入れ。


お新「くう、こいつは下戸にはわからねえ味だなあ○ほれ、思い差しだ」

勝奴「エ」


トお新、酒を注ぐ。


勝奴「いたゞきやす○いや、こりゃあいゝ酒だ」

お新「鰹も食おうか○これも、うめえ。水揚げ祝いだ○勝、お前も食え」

勝奴「いゝんでげすか」

お新「おれがアラしか食わせねえとでも思ったか」

勝奴「へゝ、それじゃあいたゞきやす○いや、羊羹みたいな味のする鰹だ」

お新「何を言ってやがる」


ト両人、捨て台詞にて酒盛りとなる。


勝奴「いや、しかし昨日はあんなにたやすくいくとは思わなんだ」

お新「いつも裏で客を笑っている廓の衆が、あんなふうに化かされるとはおりゃたいそう胸がすいたぜ○勝、お前あれやってみろ。あの医者の真似だよ」

勝奴「へい○はて、これは異なこと。この花駒なる女郎は、たゞいま欠盆に触れたれば、脈拍正常でなく、息も荒う見えまする。は陰血が変化し、衝脈、任脈と通ずるゆえ、これ一時いっときの病にならず、遠からぬうちやがて身罷るであろう○ヤヽ、慌てるでない、慌てるでない。そもそも元を辿れば、こゝが北国ほっこくゆえ陰の気が互いにぶつかり合い、脈が乱れたものと見ゆる。愚僧が宅は深川富吉町ゆえ、辰巳にて陽の気なればそこへ参り、花菱の紋を描きし着類を身につけ、白光のもとで椋鳥の生き血を服用すれば、必ず本復間違いなし。サヽ、一刻を争うゆえ、我が乗ってきた駕籠に早う早う。おゝ、そこの歌舞伎役者の坂東新悟に似た若い衆どの、夜道は心細いゆえ同道お願う。サヽ、早う早う○とこういう具合でございました」


ト新内の合方になり、路地口より以前の丹兵衛、弥兵衛、善六出る。


弥兵衛「それでは大屋さん、」

善六「どうぞよろしく、」

両人「お頼み申します」

丹兵衛「おう、この丹兵衛に任せておけ。すぐに娘を取り返してあげましょう○サヽ、お二人は駕籠の用意でもして待っていてくだせい」


ト両人、捨て台詞にて路地口に入る。丹兵衛、思入れあって、内に入り、


丹兵衛「ごめんよ。お新どのは内にかい○お、なんだい。今日は休みか」

お新「○ちっと風邪をひきましたから、手間を入れて休みました」

丹兵衛「なに風邪を引いた。それはいけねえな。近頃は悪い風邪が流行るそうだ」

勝奴「わっちどもの姉御は、流行り物は逃しはしやせん」

丹兵衛「ちげえねえ。流行り物は早えに越したことはねえやなあ(ト真ん中よきところに住まい)お、二人で風邪薬をやっているな。風邪にはこれが一番だ○膳の上は鰹の刺身か。皮作りは気が悪いなあ」

お新「大屋さん、片身がありますから、あげましょうか」

丹兵衛「なんだおめえ、わしに片身くれるのか。いや、そりゃありがてえや。わしゃあ今年は初鰹だよ」

勝奴「それじゃあわっちが届けやしょうか」

丹兵衛「なに、帰りに持って行くから届けるには及ばねえや○だが、なんだな。おめえに片身貰うも気の毒だが○まあ、いゝや。松屋の淳兵衛や竹屋の敏之進と違って、貴様の銭は悪銭だから、遠慮なく貰っておこう」

お新「大屋さん、大屋さん、汗水垂らして稼ぐ髪結の銭金が、なんで悪銭なことがありましょう」

丹兵衛「そんなことはよそへ行って言え。わしに言うだけ無駄なことだ」

お新「もし大屋さん、今日おいでなすったのは店賃の催促でございましょうか。もうしばらくお待ちなすっておくんなさいまし。そのうち廓のほうから払いがありますから」

丹兵衛「いや、今日やってきたのは店賃の催促じゃあねえ。おめえにちっと話があってやって来たのだ」

お新「大屋さん、そのお話とおっしゃいますのは、金儲けの話でございましょうか」

丹兵衛「そうよ。おめえ、金儲けの話よ」

勝奴「それじゃあ、金儲けの話で。大屋さん、よくおいでなさいましたねえ」

丹兵衛「現金なやつだなあ。金儲けと聞くとすぐに胡麻をすりやがる」

お新「金儲けの話と聞いちゃあ大屋さん、前祝いに一つやってくださいませ」

丹兵衛「そりゃすまねえ。そうと聞くなら一杯貰おうか」


トお新、丹兵衛に酒を注ぐ。


丹兵衛「こりゃ、極上だ。なんだい、伝兵衛にもらったのか」

勝奴「そうでございます。どうやら新川にツテがあるそうで、灘の生一本でございます」

丹兵衛「うちにも一本届けてくれたよ。あいつはあいつで碌でもねえが、つい愛嬌があるもんだから、こっちもコロっといっちまう」

お新「大屋さん、鰹のほうも○ほれ、口をお開けなさい」

丹兵衛「あーん」


トお新、丹兵衛の口に鰹を入れる。


丹兵衛「うめえうめえ。羊羹みたいな味のする鰹だな」

お新「何を言ってやがる」

丹兵衛「エ」

お新「あゝ、いや。して大屋さん、その金儲けの話を早く聞かせてくださいまし」

丹兵衛「おゝ、違えねえ。食い気にはまってすっかり忘れていた」

お新「勝、ひとまず膳を下げてくれ」

勝奴「へい。そうしましょう」


ト勝奴、膳を下手に下げる。


お新「して、儲け話とやらは」

丹兵衛「○わしがやってきたのは夕べおめえが連れて来た、あの白木屋の娘のことだ」

お新「大屋さん、白木屋の娘なら、もう起請まで交わした仲ですから、どうぞ構わずに捨て置いてくださいまし」

丹兵衛「交わしたか破ったかは知らねえが、夕べからのあらましはたいがいすでに知っている。なんだって向こうからあの一本差しで口利きの花川戸助七が来たそうだが、おめえよく鼻を弾いてやった。わしゃ今、善六さんから聞いてな、陰ながら喜んでいたんだよ。なんでもな、人間売り出す時には名高いやつの鼻っ柱を一本いかにゃあ世間には認めてもらえねえ。てめえ、豪気なことをしたなあ。それにまた扱いも苦労人らしくねえ。十両持ってきたそうだが、十両ってのはしみったれてるなあ。向こうがいくらで請け合ったか知らねえが、それじゃあ、あまりに助七が儲けすぎるようだ」

お新「大屋さんのおっしゃる通り。嫌なやつでもあの土地で肩書きのある助七だから、それ相応の扱いなら顔を立てゝもやりますが、こっちをたゞの小娘と見くびりやがったその上に、名前だけで言いくるめ、コケにしようとしやがるから、金を横っ面へ叩きつけ、鼻を明かして返してやりやしたよ」

丹兵衛「おめえ、よく叩き返してやった。それでなくっちゃ売り出せねえ。近頃にねえ大手柄だ。この家主まで鼻が高えや。わしは世間の人と違って店子は太えやつが大好きなんだ。堅気なやつは話せねえからなあ」

お新「大屋さんのようなお方は八丁堀にもいねえと、いつも勝と話をしておりますよ。普段、友達のとこへ行ってもおめえさんのことじゃあ惚気っぱなしさあ」

勝奴「それだから、わっちは大屋さんのことが気に入らねえのだ」

丹兵衛「エ」

勝奴「○いや、だから気に入っているのでございますよ」

丹兵衛「そう言ってくれるのはありがたいが、それについてお新、お前に改めて頼みがあるのよ」

お新「その頼みとおっしゃいますは、今言った白木屋の娘のことでございましょうが、最前申しました通り、どうかこれは口を利かずにうっちゃっておいてくださいまし」

丹兵衛「いやいや、こればかりはうっちゃってはおかれねえ。おめえの筋がいゝことなら長く引っ張るもいゝけれど、連れて逃げたというものゝ、種を明かせば拐かし。表沙汰にされてみろ、三文にもなりゃあしねえ。内緒で早く済ませてえと向こうで言うがこっちの付け目だ。悪いようにはしねえから、わしに任して娘っ子を早く向こうへ返してやれ○それで、いくら欲しいんだい。正直に言ってみろ」

お新「大屋さん、そこがお前はわかっちゃいねえ。あの花駒とはもう深く契った仲だから、金を取る取らねえの話じゃあないんだよ。女房にくれねえ暁には、このまゝ随徳寺のつもりだから、どうかこゝは諦めてくださいまし」

丹兵衛「回りくどいことを言うやつだなあ。どうで、お定まりの手切れと見込み、金にするつもりでした仕事。扱い次第なのは承知したから、長え短えは言わねえで、この家主に任してくれ。わしが口を利くからは、助七のように十両と下から刻んだ相場は立てねえ。向こうのほうで出してよし、またおめえのほうで取ってよしという間を取って三十両。三十両てめえに金を取ってやるから、それで黙って返してやんな」

お新「普段、ご厄介になりますから、他のことならどんなことでも聞きますが、こればっかりは大屋さん、どうぞ了見してくださいませ」

丹兵衛「ムヽ。それじゃあ、なにかい。おめえはわしが言うことを、聞かれねえと、そう言うのだな」

お新「どうぞ勘弁しておくんなせえ」

丹兵衛「そうかえ。わしの言うことが聞かれないのか○聞かれざあよしにしろ。わしが言うことを聞かなけりゃあ、どうなるか知っていような。この趣きを言い立てゝ、召し連れ訴えをしてやるからそう思え。御勘定から寺社奉行、両御番所は言うに及ばず、火付盗賊改の加役へ出ても、今戸町の丹兵衛と言やあ、腰掛けでも誰知らねえ者もねえ金箔付きの家主だ。この丹兵衛の舌先で五尺に足らねえてめえの体へ、縄をかけるは造作もねえが、店子といえば我が子も同然、親が掛けてえわけがねえ。悪いことは言わねえから今のうちに三十両を取っておけ」

お新「そりゃあ悪いこともおっしゃるまいが、これが堅気の髪結ならお礼を申してお貰い申すが、気障なようだが牢にも入り、物相飯も食ってきた、上総無宿の入墨お新だ。今おめえさんに突き出され、再び行っても羽目通りで、干物の頭をばっちょろがって食うような、そんなたわけだと思うてかい」


トお新に凄まれ、丹兵衛焦る思入れ。


丹兵衛「こ、これ。大屋に向かってなんだ、その言い草は○それにてめえ、今なんと言った。上総無宿のなんと言ったい」


トお新、腕を捲って二本線の墨を見せ、キッとなり、


お新「上総無宿の入墨お新だ」

丹兵衛「これ、そんなことを大きな声で言うやつがあるものか。てめえ、入墨というものをなんと心得る。人交わりのできねえ印だ。たとえてめえに墨があろうがなかろうが、知らねえ振りでたなを貸す、太いが自慢のこの丹兵衛だが、表向きに聞いた日にゃあ、もう一日でも店は貸しちゃあおかれねえ。なりだけ見りゃ洒落てるが、お新、てめえもよっぽど間抜けな女郎めろうだなあ」


ト勝ち誇ったように言う。お新、せゝら笑い、


お新「間抜けとはどの口が言いやがる。ほんの間抜けはてめえだろうが」

丹兵衛「ヤ」

お新「自分のことを太いと思っていなさるようだが、こっちから見りゃ太いのは図体ばかり。わっちの筋金入りは言うに及ばず、隣の伝兵衛は大泥棒、その右のお菊は美人局。押し借り挟んでその裏は夫婦揃って強請ゆすりにたかり、左角の新入りはまだ巾着切りの小粒だが、いずれいつかは矢尻切り。他にも野天博打に板の間稼ぎ、いずれも様もまだ鈴ヶ森や千住のほうに顔見世とまではいかねえが、伝馬町のお屋敷に一度や二度は世話になった玄人ばかり。墨が入ったを知らないと、よくもいけしゃあしゃあと抜かしやがる。夕べ、てめえが晩酌に、呑んだ酒に合わせた肴、今も纏う羽織さえ、どうで店子からのお裾分け。その出所を重々知ったその上で、立派な宅にある四つ引き出し、その桐箪笥の中身をば、おかみに晒せるというならば、わっちも堂々と引かれていこうが、そうでねえとのたまうなら、おりゃあ決して出ていかねえよ」

丹兵衛「大屋に向かってうぬは、」

お新「どうしたと、」

丹兵衛「大岡様へ突き出そうか、」

お新「やれるものなら、やってみろ。そん時にはこの長屋ごと、一緒に抱えていくつもりだから、腹を決めてから仕出かしやがれ」

丹兵衛「おのれ、」


ト気を替えてがっくりとなり、


丹兵衛「やっぱわしには役違いだ」

勝奴「やはり太いのは図体だけでございますね」


ト丹兵衛、しおれる思入れ。この以前より家主女房お熊、黄八丈、頭に手拭いを被り、好みの拵えにて出てきて、路地口から様子をうかゞっている。お熊、思入れにて内に入り、


お熊「お前さん、まだ埒が明かないのかね」

丹兵衛「かゝあ」


トお新、勝奴は両人うへえとなる。


勝奴「げえ、お熊さん」

お新「や、お上さん。わざわざ、こんなところまでお越し下すってありがとうごぜえやす。サヽ、どうぞこちらへ」


トお新、慌てて上手を開け、


お新「おめえはあっちに行きやがれ」


ト言うと丹兵衛はすごすごと下手に下がる。お熊は上手、お新は中央によろしく住まう。この時、お熊、懐中より簪を落とす。お新、これに気付き、


お新「おや、お上さん簪を落としましたよ」

お熊「いや、こりゃしくじった。すまねえが、お前さん拾って、また挿してくんねえか」

お新「お上さんのためならなんなりと○被りの上からでもようございますか」

お熊「構わねえよ」


トお新、簪を挿してやる。お熊、思入れ。


お熊「ありがとよ」

お新「○して、お熊さん、今日は何用でいらっしゃいましたか」

お熊「一度や二度なら仕方はねえが、三度繰り返すのはもう癪だから、お新、さっさとわしの言う通りにしなせえな」

勝奴「お上さん、それはもうこっちも三度目になりますが、花駒さんはもう姉御とできていますから、そこはもう」

お熊「○ぺえぺえはすっこんでいやがれ」

勝奴「へい」

丹兵衛「勝さん、悪いことは言わねえから、あいつに楯突くのは百年ほど早えよ。こっちでわしと仲良く縮こまっておりましょう」

勝奴「そうすることにいたしましょう」

お新「○口の利き方はたしかに悪うございましたが、そこにつきましては勝の申す通りでございますから、お上さんと言えどこゝは一つお引き取りを願います」

お熊「○ハテ、お前はなにか了見違いをしていないかね」

お新「へえ○と申しますと」

勝奴「お上さんが今日来たのは花魁を返してくれ、という話ではないでげすか」

お熊「最前からてめえらが何の話をしているのかさっぱり知らねえが、わしが今日来たのは店賃の催促だよ」

お新「エ」

お熊「お前さんが都合よく居留守を使いやがるから、先月の貸しが二両もあり、加えて、いつの間にやらか、後ろが空き店なのをいゝことに、大きな穴をぶち開けて、勝手次第に繋げるから、倍で四両の勘定だ」


トお新、ホッとして、


お新「お上さん、そんなことでございますか。それならいつでも払いますから、お案じなさらんでくださいませ」

お熊「それなら今、払っておくれ」

お新「今はちっと手持ちがござりませんで」

お熊「なに、てめえ初鰹を買っておいて、金がねえは通るまい」

お新「いや、これは、つい先日お菊の髪を結ってやったお礼に○いや、つい先日、神頼みの代参に暇だからと参りましたら、お礼にもらったんでございますよ」


トお熊、思入れ、


お熊「そりゃあ、てえしてだったんだろうなあ、お新どん」

お新「へえ。そりゃあもう豪勢な。あ、いやご立派な神さまでございましたよ、えゝ」

お熊「それはどこの神様だったんだい」

お新「○天神様でございますよ。湯島のね、つい目と鼻の先でございますから」

勝奴「姉御、なにを言ってるんでごぜえやす。信心なぞ阿呆のすることと常から笑っているじゃあございやせんか」

丹兵衛「この内には仏壇はおろか神棚の一つもねえのになあ」

勝奴「そうでございますよねえ、大屋さん」

丹兵衛「おゝ、その通りじゃ」

お新「うるせえ、てめえらは黙っていやがれ○お上さん、わっちはね、たしかに信心とは縁遠ございますが、よその人の願掛けを無碍にするほど愚かじゃあございやせんよ」

お熊「そうかい、そうかい。して、その天神とやらには輪っかはあったのかえ」

お新「え、輪っかでございますか」

丹兵衛「お前、何を言っているんだ。夏越の祓えの茅の輪くゞりはまだ一月ひとつき二月ふたつきも先の話だ」

勝奴「そうでございますよ。お上さんは気が早うございますねえ。でもなにも大祓えを待たなくても、湯島はいつもたいそう賑わっておりますよ。先日も宮地芝居に出かけましたら、姉さんが髪を結ってやった本郷のお栗さんがいらしてましてね、あの大きな声で○おゝい、勝三郎さん。今度も大芝居に行く時は、また姉御に髪を結ってもらうから、よろしくお願いするよ、と申しましてね、いや、もうわっちは恥かしくて、恥ずかしくて」

お新「おい、勝」


トお新、まずいという思入れ。


お熊「へえ。なに、お新、お前、普段から人の髪を結っているのかね」

お新「○いや、ほんのたまに、よんどころなく、手慰み程度に、ちょろっとだけでございますよ。なにも銭は取りませんからね」

お熊「銭は取らねえか。そうかい○じゃあ、てめえはご禁令ということをわかった上でやっていやがるのだな」

お新「ヤ」


ト両人、キッとなる。


お熊「おめえさんもよっく知っての通り、天保のご趣意以来、ご老中水野様は女髪結に対してきついお取り決め。廓の外での髪結渡世が知れた日にゃ、百のたゝきに同じ日数ひかずの牢舎入り、結った相手も三十日の手鎖と、世間に顔向けできねえご法度を、てめえが栄耀栄華のたゞために、江戸中回って犯しているは、こっちにゃすでに知れている。もし、てめえが白木屋の娘を返さねえと言うならば、いずれはお奉行の世話になるから、大屋としてお白洲に並んだその日には、さっきのことを一つ残らず喋るから、今のうちに腹を据えて待っていろ」

お新「○そのご禁令を知っていやがるというならば、その家主にも三貫文の罰金があることも知っていよう。けちのてめえに、その金が払えるものか」

お熊「おう、払ってやるよ、払ってやるとも○おい、お新。貴様はひとつ取り違えていやがるな。なるほど、旦那はしみったれだが、こっちは算盤そろばんずくで世渡りするから、たとえ九十九両失せたとて、濡れ手で安房の百両と総へ合うと知れたらば、下総でもどこへでも向かうつもりの太え気立て。下手人ばかりに店を貸し、白浪どもと瀬戸際で、言葉で切り取りする商いも、実入りがいゝからすることだ。稼ぎや貢ぎが足りねえなら、すぐにでも突き出すつもりのこの腹を、知らなかったとは言わせねえぞ」

お新「どうで口だけ」

お熊「これでも呑み込めねえと言うならば、とっておきを見せてやろう。(ト先ほどの簪を取り)ほれ、その薄目を開いてこいつをとっくり見やがれ。いゝか、これを先ほど差したからにはおれもおめえの立派な客だ」

勝奴「いや、その簪は最前の、」

丹兵衛「そんなら、お前は手鎖まで、」

お熊「手鎖どころじゃねえ決心を、今こゝでご披露せん○天保以来女髪結は廓を除きご法度なれど、お上の目を掻い潜り、破り抜ける奴らが絶たぬゆえ、近頃は禁令一層厳しくなり、露見した暁には髪結も、結われた者も坊主とのお達し、」

お新「そんならお前はまさか、」

お熊「この熊の頭をとくとご覧あれ」


トお熊、手拭いを脱ぎ去り、坊主頭を晒して見得。一同ビックリして、


三人「ヒエヽヽヽヽ」

丹兵衛「お前、いつの間に」

お熊「善六どんが来なすって、続いて山猫とやらも来なさるから、こうでもしなきゃかたがつくめえと、とっくり心を定めたから、お前が出かけたその隙に、剃刀手に取りばっさりと、きれいさっぱり下ろしたのさ○さあ、お新。こっちの覚悟は見せたつもりだ。娘を出すか出さねえか、曲げた旋毛つむじをまっすぐに結った上で答えやがれ」

お新「サア、それは、」

お熊「召し連れ訴えようか、」

お新「サア、」

お熊「もしくは、その髪ばっさりいくか、」

お新「サア、」

お熊「サア、」

両人「サアサアサア、」

お熊「きりきり、返事をしやがらねえか」

お新「おれもよっぽど太い気だが○お上さんには敵わねえや」

勝奴「そんなら、姉御、」

丹兵衛「得心して娘を返すか」

お新「口惜しいったらありゃしねえが、こればっかりは結上げだ」

お熊「おれが太えのを今知ったか。早く言えばいゝことを、余計な苦労をさせやがって○おーい、善六さん、事はすんだよお」


トこの以前より、善六は路地口より出て、門口で様子をうかゞっていて、


善六「お内儀さま、どうもありがとうございました」

丹兵衛「おゝ、善六どのか。わしには勝ち目のない相手だったが、あのお新めも、うちのかゝあには歯が立たなかったよ」

善六「いやもう、お上さんの勢いは豪気なものでござります。名に負う花川戸助七さんが、恐れて帰ったお新さんも、熊にあった狐のよう、」

お新「えゝ、無駄な胡麻をすりやがるな」

善六「お上さんには敵わぬくせに」

勝奴「どうしたと」


ト勝奴立ちかゝる。


お熊「これこれ、余計な口は利かねえで、駕籠を早く持ってこい」

善六「駕籠はもう参っております○おーい、駕籠屋さん、駕籠屋さん」


ト手招きをすると、四つ竹節にて下手より駕籠舁き、四つ手駕籠を担ぎ出てくる。


駕籠舁き「はい、参りましてござりまする」

お熊「さあ、話はついたのだから、娘を早くこゝへ出せ」

お新「すぐに出しますとも、出しますとも○おい、勝」

勝奴「へい○花駒さん、迎えの駕籠が参ったよ」


ト勝奴が一間の障子を開けると以前の花駒、襦袢にて出る。花駒、お新に向けて思入れをするも、お新はそっぽを向く。


お熊「あゝ、これしどけない。お前さん、羽織を」

丹兵衛「おう。合点だ」


ト丹兵衛、自分の羽織を花駒に着せる。


丹兵衛「やれやれかわいそうに。お前さんも、さぞ切なかったろう。悪いやつに引っかゝって、とんだ目にあいなすった」

善六「もし、花駒さん、あなたのお陰でお前さんが見世へ帰られるようになりました。よくお礼をおっしゃりませ」

花駒「なにかの様子は奥の部屋にて承りんす。このまゝ無事に帰られまするも、みんなあなたのおかげゆえ、なんとお礼を申しましょうか、ありがとうござりんす」

お熊「なに、かまいやしないよ。白木屋ではさぞ案じていなるだろうから、早く帰っておあげなさい」

善六「いえもう、お案じなされたどころではござりませぬ。夕べから旦那夫婦はまんじりともなされませぬ」

丹兵衛「さあさあ、余計なことは言わねえで、早く連れて帰ってあげなさいませ」

善六「いずれ、また白木屋から、改めてお礼にあがります」

丹兵衛「決してお礼には及びませぬよ」

勝奴「及び腰がよく言うよ」

丹兵衛「何を○さあさあ、早くお出でなさい」

花駒「ごめんなされませ」


ト花駒、思入れあって駕籠に乗る。


善六「大屋さんもそのうち見世に、」

お熊「エ」

善六「や○今日はよいものを見せてもらいました○サヽ、参りましょう、参りましょう」

駕籠舁き「かしこまりました」


ト善六、捨て台詞にて駕籠に付き添い、四つ竹節にて花道に入る。


勝奴「大屋さん、羽織はようござんしたか」

丹兵衛「なに、明日にでも礼に来るだろうから、その時で構わねえよ」

お熊「○なに、お新や。そんなにしょげることもなかろうよ」

勝奴「えゝ。また女だろうが男だろうが、姉御の気にいるのがありましたら一人や二人、いつでも引っさらってきますから」

お熊「てめえ、何を言ってやがる○まあ、それにおれも無体ばっかりは言わねえよ。店子が子というならば、情けをかけるのも親の勤め。これ、お前さん、懐のあれを出しな」

丹兵衛「エ。でも、せっかくいたゞいたのに」

お熊「そんなことを言ってるから、お前はしみったれと言われるのだよ。ほれ、早く出しな」


ト丹兵衛、詮方なく懐中より金包みを出す。


お熊「お新、こゝには助七さんから○あ、いや善六さんからいたゞいた、金がちょうど一本ある」

お新「エ」


トそっぽを向いていたがお熊を見る。


お熊「これをてめえに半分やろうから、どうか機嫌を直してくれ」

勝奴「五十両もくださいますか○」

丹兵衛「かゝあ、こゝは三十が相場じゃねえのか」

お熊「お前はなんにもわかっていやしないねえ。いゝかい、この金がそもそも手にったのはお新が、わざわざ拐かしをしてくれたからじゃねえか。それで娘だけ返して、いかいご苦労様でございました、とはいくめえよ。同じ穴のなんとやら、普段から片棒を担ぎ担がれ、持ちつ持たれつの仲だから、盗人ぬすっとらしく筋を通して、仲良く山分けしようじゃねえか」

お新「お上さんのほうから、そう言ってくださるのなら、こちらとしてはお断りする理由もございません」

丹兵衛「そうはいっても○五十両」


ト定九郎の振りをする。


勝奴「大屋さん、その図体じゃあ定九郎は難しうござりますよ」

丹兵衛「うるせえやい」

お新「くだらねえことはよしにして、お上さん。話が決まったらば、さっさとその金を、」

お熊「せわしねえ、今やるわ○それ、金は小判で百両だ○いちいち数えるのも癪だから、こう半分に割って、これで五十両ずつ。ほれ、てめえの取り分だ」

お新「ありがたく頂戴いたしましょう」

お熊「○あ、いや待った待った」

勝奴「なんでございましょう」

お熊「おら、すっかり忘れてた。店賃の滞りがあったのだ」

お新「五十両と言いながら、お上さん、それは殺生な」

お熊「いや、親子の仲でも金は他人のたとえの通り、こればっかりは承知してくんねえ。ほれ、ひい、ふう、みい、よう(ト金を取る)、これで〆て十六両、嵩はちょいと減ったれど、片身と思って受け取ってくんねえ」


トこれを聞き丹兵衛、思入れあって、


丹兵衛「あ、いや待った待った。お前、金を渡すのをちょっと待ってくれ」

勝奴「今度はなんでございますか」

丹兵衛「勝、お新はたしかに鰹を片身くれると言ったよなあ」

勝奴「へえ、たしかにそうおっしゃいましたが、それがなにか」

丹兵衛「そうだな。鰹は半分くれるのだな」

勝奴「へえ」

丹兵衛「たしかに、半分くれると、そう言ったな」

勝奴「へえ。だからなんだというんでございますか」

丹兵衛「よし、それじゃあ」


ト丹兵衛、分けられた金をさらに半分に分けて、片方を懐中しようとするので、お新は止める。


お新「おいおい、大屋さん、何をやってがるんでい」

丹兵衛「いや、てめえはたしかに半分くれると言ったじゃないか。だから半分もらうんだよ」

お新「それは鰹の話だろうよ。もう耄碌したのか」

勝奴「そうでげすよ。誰も金の半分をくれるとは言ってねえじゃありませんか」

丹兵衛「いや、てめえはたしかに半分くれると言っただろう」

お新「だから、それは鰹の話だと言ってるだろうよ」

勝奴「姉御の言う通り。元は五十両の話のはずが、これじゃあたったの二十三両。あまりにも不理屈でございましょう」

丹兵衛「それでも、骨折り賃として半分はもらっていかないと、大屋としての示しがつかねえ」

お新「調子に乗りやがって、一発喰らわそうか」


トお新、立ちかゝるので丹兵衛は怯える。お熊、思入れあって、


お熊「そうじゃ、こちの人よ、それではさすがに筋が通るまい」

丹兵衛「そんな、かゝあまで」

お新「ほれ、あのお上さんでさえ、こっちの味方だよ」

勝奴「大屋として示しがつかねえのは、なによりこの熊の尻に敷かれているからでございますよ」

お熊「はて、もう忙しない。お前さん、いゝから、その金は一旦戻しねえ」

丹兵衛「あい」


トしおしおにて戻す。お熊、最前の四両も戻し、


お熊「じゃあ改めて分けるとしようか」

お新「あい」

勝奴「大屋さん、こんどこそ余計な茶々を入れちゃあいけませんよ」


ト勝奴、丹兵衛を遮るようにして言う。


お熊「それじゃあ、重ねて○これが、お新の取り分の五十両(トこれを分け)、その半分が二十五両、」

新・勝「エ」

お熊「そして店賃を、ひい、ふう、みい、よう、と引いて二十一両。これで文句はねえだろう」

新・勝「いやいやいや」

丹兵衛「さすがだ、かゝあ。それでこそ自慢の女房」

お新「せめて五十両と思いの外、」

勝奴「片身を取られるどころか二十一両、」

お新「すっかり骨抜きにされちまい、」

勝奴「姉御、骨折り損のくたびれもうけとはまさにこのことだ」

お新「えゝい、そう気落ちしていられるものか○やい、さっきから指を咥えて見ていりゃ、てめえが長屋一の大悪党。大屋だか親だか知らねえが、もう堪忍袋の緒が切れた。そんなよわいで黄八丈、材木屋の娘でもないくせして、とっくに潮時な乙女気取り、虎縞ながら名前はお熊、畜生の化けの皮を剥いだその上で、着物が織られた名の島へ流してやるから覚悟しろ」

お熊「よくも言っちゃあいけないことを、面と向かって言いやがったな。もう六十を越したこの顔に浮かぶ皺は苦労の証、両腕には傷も墨も入っちゃいねえが、渡り歩いた修羅場の数は誰に負けねえものでもねえ。てめえのような阿婆擦あばずれ風情が、引導渡せると思うなら、つべこべ言わずにかゝってきやがれ」


ト両人、見得にて激しく睨み合う。合方になり、バタバタにて路地口より弥兵衛、猿轡をかまされ、両手と両足を縛られた体で跳ねながら出てくる。


丹兵衛「こりゃ、弥兵衛どん、そのなりは一体どうした」


ト弥兵衛、何かを言おうとする。


丹兵衛「おう、いま外してやるからな」


ト丹兵衛と勝奴は一緒になって猿轡などを外してやる。


弥兵衛「もし大屋さん、大変でござります」

丹兵衛「どうしたどうした、金儲けの話か」

弥兵衛「金儲けどころか、今お前さんのところに泥棒が入りましたよ」

お熊「○ど、泥棒が入った」

丹兵衛「なにか置いていったかい」

弥兵衛「なに置いていくものか。昼日中ひるひなかにかゝわらず、入ってきた一味の者は、わっちのことをふん縛ったその上で、箪笥のものをありったけ、四つ引き出し諸共に、そっくりそのまゝ持って行きやした」

丹兵衛「うむゝゝゝゝ」


ト丹兵衛、驚いて目を回す。


お熊「いやはや、太えやつがあるものだ」

勝奴「お上さん、五十両じゃあ埋まりませんねえ」

お熊「どうしてどうして、あの引き出しの中身が五十両で埋まってたまるか。こりゃ、こうしちゃいられねえ」


トお熊、門口に出る。


弥兵衛「もし、旦那どのが目を回して」

お熊「そんな爺いに構っていられるものか」

勝奴「それに内はあっちではございませんか」

お熊「そんなことは百も承知、二百も合点。四つ引き出しの大荷物、どうで遠くまでは行かれまい。すぐに追っ駆け、取っ捕まえ、目にもの見せてやるのだよ」


トお熊、最前の手拭いを鉢巻にし、頭に巻いてキッとなる。


お新「お上さん、これを使いなさいまし」


ト鰹の半身を放ってやる。


お熊「熊というなら鮭なれど、こゝは一つ恩に着て、ありがたく使わせてもらうよ」


ト花道にかゝり、鰹を掲げて極まると、合方にて一散に花道に入る。


弥兵衛「勝さんとやら、この爺さんはどうしましょうか」

勝奴「どうもこうもあるものか、おめえが泥棒の話をして目を回した爺さんだ。おぶって内へ連れてゆけ」

弥兵衛「じゃといっても、これをおぶるのは」

勝奴「おぶれねえと言うならば、引き摺りでもしたらいゝ」

弥兵衛「はて、今日はほんに厄日だなあ」

勝奴「それはこっちの台詞だ」


ト弥兵衛、丹兵衛を引き摺って門口に出る。


弥兵衛「こんな親父も嫌ではあるが、(ト花道を見て)あんな親父のほうがもっと嫌だなあ」


ト弥兵衛、丹兵衛を引き摺って路地口に入る。


お新「業突く張りのお熊めが、人を籠めて拵え溜めた、箪笥の内のあれこれを、残らず持って行かれたからは、」

勝奴「一引き出しを二十両と、安く踏んでも八十両、」

お新「五十両を差っ引いても、合わせて損は三十両、」

勝奴「それに姉御、見てくださいよ」

お新「エ」


ト勝奴、忘れ去れられた小判の山を指す。お新、嬉しき思入れあって、


お新「慌てたあまり、こちらの得は四十六両、」

勝奴「店賃までも取り上げられ、」

お新「忌々しいと思ったが、」

勝奴「これで姉御、お前の胸も、」

お新「少しは溜飲が下がったわ○ほれ、勝、手を出しな(ト金をはじいてやるを柝の頭)、飲み直しと行こうかえ」


ト両人よろしく思入れ。時の鐘、佃節にて、

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