二幕目第一場 花川戸助七内の場

二幕目第一場 花川戸助七内の場


本舞台三間の間、常足の二重。正面、一間の障子。上手、地袋戸棚のある床の間に助六の絵のある一軸を掛ける。下手、鼠壁、立派な神棚、神酒徳利などを飾る。上手折り回して一間の障子屋体。いつものところ門口、「助七」と書きし腰障子。室内、よきところに一本差しを立てかけ、羽織も飾ってある。すべて花川戸にある助七内、前幕の翌日の体。こゝに弥兵衛、着流しにて煙草を呑みながら湯呑み茶碗を横に、眠そうに帳面を繰っている。この様子、稽古唄にて幕開く。合方になり、花道より引手茶屋の番頭、善六、やつし形にて出てくる。善六、門口に来て、


善六「ごめんください、助七どのはご在宅でいらっしゃるか○はて、返事がないのはご不在か。(ト大きな声で)ごめんください」


トこれにて内で寝ていた弥兵衛、ビックリして飛び起き、はずみに煙草で火傷をする。


弥兵衛「アチヽヽヽヽ」

善六「ごめんください」

弥兵衛「○いま参りますよ」


ト弥兵衛、門口を開け、


弥兵衛「これは加賀屋の番頭、善六さん。久方ぶりでございます」

善六「いるなら早く出ればいゝのに」

弥兵衛「エ」

善六「あゝ、いえ。これは弥兵衛さん、だいぶ無沙汰をしておりました。時に今日は親分さんはいらっしゃいますか」

弥兵衛「旦那なら奥にいるが、なにか用かい」

善六「実は廓なかからの頼まれごとがございまして」

弥兵衛「それなら、さっさと入っておくんなせえ。すぐに旦那を呼びましょう」


ト善六、内に入りよろしく住まう。弥兵衛、その後ろで火傷を冷やそうと、湯呑み茶碗に指を入れる。


善六「仕事の邪魔でござりましたか」

弥兵衛「昨日は帰りが遅いゆえ、決してはかどっていたわけじゃねえから案じることはございません。

善六「昨晩はたいそう降られましたでございましょう」

弥兵衛「そりゃ、もう濡れ猫で。その雨が今ありゃよかったが」

善六「○はて、弥兵衛さんは変わっていらっしゃる。して、昨日の遅いは親分さんのご用向きで」

弥兵衛「あい。内済ですましたいことがあるからと、親分一人が仲之町に呼ばれて行き、これは一つ辰巳へでも、繰り出そうかと思ったところ、四つごろに知らせが来て、どうも空模様が悪いから、迎えに来てくんねえとのお言葉に、よんどころなく番傘持って出かけたら、降るわ降るわ俄の大雨、ぬかるむ土手に真の闇、川に落ちるか冷や冷やと、どうにか大門に着いたらば、旦那はすでにお帰りですと、憎いお言葉。今から帰るも難儀なことと、腕組み思案をしていたら、河岸かしより呼ぶは馴染みの声、無下にするのも不憫と思い、月が出ないその代わり、三日月でしっぽり過ごしやした」

善六「なんだか乙うなことでござんしたようで○して、お前さんはなんで茶に指を入れておりますか」

弥兵衛「いや、これは○そろそろ旦那を呼んで参りましょう」

助七「その必要はあるめえよ」


ト合方になり、奥より前幕の助七、着流しにて出る。


善六「これは親分様。だいぶ無沙汰でございました」

助七「いつもと違う塩梅だから、こたびは出ねえかと思ったよ」

善六「わたしもそのつもりでございましたが、どうも回らぬという先方の頼みゆえ、遅ればせながら参りました」

弥兵衛「やはり善の字さんがいねえと、舞台が締まらねえよ」

助七「おめえは軽口を叩いていねえで、さっさと茶でも出しやがれ」

弥兵衛「へい」


ト弥兵衛、最前の茶を出す。


助七「そんな茶が飲めるものか。すぐ新しく淹れてこい」

弥兵衛「へい」


ト弥兵衛、奥に入る。


助七「とんだ不調法で失礼しやした○して、最前より奥で話を聞いておりましたが、こたびは廓から用があって来たとのことで」

善六「お頼み申すも恥ずかしながら、花川戸の助七さんと思し召し、ひとつ聞いてくださいませ○ご存知の通りわたくしめは引手茶屋の番頭だが、つい今朝方、旦那もよく知る白木屋から新造の花駒が若い者の才三郎と駆け落ちしたとの知らせがあり、それだけなら連れ戻せばいゝ話だが、手引きに頼んだお新という髪結が、女郎のほうを駕籠に乗せて引っさらい、家へ連れて帰ったと、お新の隣長屋の行事から内々知らしてくれたけど、これが人に知られゝば、白木屋の名折れになるからと、世間の目をかすめるその内に内証で取り返してくれとの頼み事。所詮は出来の悪い番頭風情、突っぱねることもできないから、つい請け合いはしたものの、思案の種はさっぱりだから、膝と談合するよりは、その手の人に頼むがいゝと、こゝまでやってきたのでさあ○親分、なにかいゝ手立てはないですかねえ」

助七「その駆け落ちの話は今朝から人の噂に聞いてたが、たかが知れた女髪結、所詮はおれが差し出る幕じゃあるまいから、善六さん○お気の毒だが今回は堪忍してくださりませ」

善六「そうおっしゃると思いましたが、なにぶん相手は太えやつ、わしらごときでは歯が立ちませぬ○まさか親分もあのお新めが恐ろしいのでござりますか」

助七「なんのあんな小娘風情、相手にするのが嫌なだけさ」

善六「そりゃ、なにゆえ」

助七「向こうが何の何某と、顔を売り出す野郎なら、たとえ小皿のかすり取り、言うに足らねえごろつきでも、親分さんと人に呼ばれる生業なりわいゆえ、泥を被ると知れてでも、人の喧嘩を買う日もあるが、なんといっても相手は女。刀を抜かずにいたとして、ひとつ睨みでもした挙句、相手がぴいぴい泣き出した日にゃ、明日から卑怯の看板を背負わにゃならねえ。ましてや、それを無体と思い、すごすご帰る羽目になったらば、女にすら勝てない一本差しと表通りでも言われる始末。どう転んでも勝ち目が出ねえ賭場だから、おれは最初から降りるのさ」

善六「白木屋の旦那が申すには、向こうが太いお新だから、こっちも太い助七さんに、お頼み申せと言われたゆえ参りましたが○」

助七「こっちも太い助七さんとは、御念の入ったご挨拶だ」

善六「○あゝいや、そういう意味では。お気に障ったら、ごめんなされてくださりませ。どうぞ今のは聞かなかった振りをして、後生でございますから、花駒さんを取り返しに行ってくださりませ」

助七「折角のお頼みだが、今の通りだ。お生憎様と思いもするが、この件ばかりは勘弁してくれ」


ト合方になり、上手屋体より才三郎、着流しにて出る。


善六「ヤ、お前は才三さん。どうしてこゝに」

才三郎「○このような一大事になったからは、どうも善六さんに合わせる顔がなく、出て来ないつもりでございましたが、助七さん、命をお助け申していたゞいた上に、このようなことを申し上げるなぞ厚かましいとも思うでしょうが、どうかあのお新めをこらしめてやってくださりませ」

助七「話を聞いていたのなら、おれの理屈も聞いたであろう。こればっかりは何度言われても、首を縦には振れねえよ」

才三郎「なるほど、人目を気にする活計たつきゆえ、その思し召しも尤もですが、花駒さんが戻れぬのなら、どうでこの命をまた捨てねばなりませぬ」

助七「ヤ」

才三郎「村雨の降る吉原土手で、お新に騙され打擲され、女も奪われ手負いとなり、どの道、生きてはいられぬと、身投げを覚悟したその折に、ふと通りがゝったあなた様。不憫と思し召されたゆえ、助けてくださったとおっしゃりますが、たゞでさえ狭きこの身の上、大門はもう潜られぬと腹こそくゝっておりますが、この上に花駒さんも取り返せぬと決まったらば、所詮は元の木阿弥で、やはり死なねばなりませぬ。土手では死ぬる定めでないと、言った言葉に得心したが、もし善六さんのお頼みが不承知ならば、この才三、今度こそ仕損じず、深き大川へ身を沈める覚悟でありますぞえ」

善六「訳は碌々知らねども、断りなすなら死ぬとの才三さんのご了見。花川戸一の親分があたら若者に命を捨てさせると申しますか」

助七「サア、それは」

才三郎「それとも彼奴きゃつめを打ち負かしてくださいますか」

助七「サア」

両人「サア」

三人「サアサアサア」


ト両人詰め寄り、善六、床の間の掛け軸を指し示し、


善六「助六さんが見ていますぞえ」

助七「ムヽ、」


ト助七、そちらに目をやって思入れ。


助七「そこまで言われちゃあ是非もない。あちら様に比べりゃ、数は一つ増えたれど、腕は一本も二本も劣るこの助七。それでもお頼み申すと言うならば、四の五の言ってはいられめえ○善六さん、どうぞこの話、おれに預けてくださりませ」

才三郎「助七さん」

善六「その言葉を待っていやした」

助七「たゞいずれにせよ、相手が悪いに変わりはねえ。金にする気でしたことゆえ、手切れを取るつもりでいようから、睨みを効かせたところでも、二、三十両は覚悟してもらうが、そこのところはよかろうね」


ト善六、懐中より財布を取り出して助七に渡す。


善六「白木屋からは、金に糸目はつけぬから、いかようにもしてくれと、ひとまず一本いたゞきましたが、不足とならばいくらでも」

助七「まず十両と思っているが、うんと言わにゃあ嵩が増えるは仕様がないさ○善六さん、どうでお前さんが行くこともあるめえから、ひとまず才三さんを連れて今日は廓へ帰ってくんな」

善六「承知しました」

才三郎「そのお心はありがたいですが、最前申した通り、わしはもう○」

善六「はて、あのご夫婦のこと、花駒さんについても気を揉んでおりましたが、同じくらいに行方ゆきがた知れずのあなたのことも大層案じておられました」

才三郎「じゃと申しても、」

助七「おめえの気掛かりもわかりはするが、親代わりと申すなら、たとえ苦労をかけた息子でもたまには顔を見せるが孝行、決して邪険にはするまいよ」

善六「親方の申す通り。きっと悪いようにはせまいから、この善六に任せてくださりませ」

才三郎「そこまで言うてくださるなら、お断りするのも却って無礼。助七どのと同様にこゝは一つお頼み申します」

助七「そうと決まったら善は急げだ。すぐに出立なされませ」

才三郎「○短い間ながらお世話になりました。この御恩は決して忘れませぬ」

善六「白木屋のほうからも追々お礼に参ります」


ト合方になり、両人門口に出る。


才三郎「そんなら助七さん」

助七「達者で暮らせよ」


ト両人、花道に入る。奥より弥兵衛出る。


弥兵衛「親分、さすがのお捌きでございました」

助七「茶の一つも出せねえわりに、茶々を入れるのは上手だなあ」

弥兵衛「○して、本当にお新のところに行きやすか」

助七「一度うんと言ったからには、いまさら戻れねえのがこの商売のつらいところだ○なに、あゝは言ったものの、結局はたかが小娘。ちょいと手を捻ってやったらば、すぐにしりぞく算段だから、決して心配することはあるめえよ」

弥兵衛「そうは言っても、血の気の多い親分のこと。女狐相手に刀でも抜いたその日には、風より早く噂が広まり、旦那もわっちも立つ瀬がありやせん」

助七「だから、そんなことにはならねえと言ってるじゃねえか。余計な口を挟むんじゃねえ」

弥兵衛「そうは言っても○」

助七「えゝい、黙っていやがれ○おりゃあさっさと今戸へ行くから、弥兵衛、てめえはこゝで待っていろ」

弥兵衛「いや、着いていきやす」

助七「待っていろと言うじゃねえか」


トこの内、助七、立てかけてある一本差しを手に取る。


弥兵衛「○いや、行かねばなりませぬ」

助七「どうして、そうねちねちするのだ。上方生まれじゃあるめえし」

弥兵衛「行かねばならぬそのわけは、癇癪持ちの親分ゆえ、知らずに手に取るその刀、」

助七「ヤ」


ト助七、驚いて一本差しから手を放す。


弥兵衛「長脇差を持ってお新と相対したその日には、下手人になるに違えねえから、代わりに懐刀ふところがたなのこのわっちが、お供をいたすのでございます」


ト助七、どっかと座って思入れ。


助七「そうまで言われちゃあ仕方ねえ。山猫、」

弥兵衛「あい」

助七「羽織を取ってくんねえ」

弥兵衛「へい」


ト合方になり、弥兵衛、掛けてあった羽織を助七の肩にかけるを柝の頭。この見得にて道具廻る。

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