一幕目第三場 日本堤の場

一幕目第三場 日本堤の場


本舞台、高二重、棕櫚伏せの土手、下に降りられるようになっている。後ろに猿若町あたりを見せたる灯入りの遠見。柳の釣り枝。舞台前面と花道に波布を敷く。すべて日本堤、夜、雨降りの体。波の音、佃の相方にて幕開く。雨音になり、下手より山猫弥兵衛、一本差し、足駄、尻端折り、番傘、ぶら提灯を持って出る。上手より勝奴、頭巾、十徳、付け髭、医者の拵えにて出て、後ろより駕籠もついて出る。両人、本舞台の真ん中ですれ違い、勝奴、弥兵衛を見て、見られてはまずいという思入れあって、顔を背ける。両人すれ違い、


勝奴「ほら、さっさと○参りましょうぞ」


ト勝奴を先頭に駕籠ついて下手に入る。弥兵衛、思入れあって、


弥兵衛「いまのやつ、わっちを見て顔を背けたということはなんぞ因縁あるやつか、はたまた○おっと、こうしちゃあいられねえ。さっさと花川戸の旦那を迎えにいくとしようかい」


ト弥兵衛、足早に上手に入る。時の鐘、上手よりお新、白張りの「白木屋」の文字が入った番傘を手に出て、少し遅れて才三郎、体の濡れる思入れにて傘の下へ入ろうと追いかけながら出る。よきところにて才三郎、石に躓いて転び、下駄の鼻緒が切れる思入れ。


才三郎「アイタヽヽヽヽヽ」

お新「どうした、どうした」

才三郎「吉原下駄の安物ゆえ、買ったばかりで鼻緒が切れました」

お新「安物買いの銭失いとはこのことだ」


トお新、傘を差して上手へ行きかゝるので、才三郎はその袂を控え、


才三郎「もし、お新さん、ちょっと待ってください」

お新「なんぞ用かえ」

才三郎「鼻緒を立てゝ参りますから、ちょっと待ってください」

お新「立てるなら勝手に立てねぇ、おりゃあ一足先に行ってるよ」


トお新、行きかけるを才三郎止めて、

才三郎「はて、そう言わずとも、ちっとの間」

お新「えゝ、小うるせぇ。離さねえか」


ト袂を振り払って行きかゝるので才三郎また止めて、


才三郎「お新さん、そりゃあ不人情というものですよ」

お新「なんでおれが不人情だ」

才三郎「いくら濡れるのが嫌だと言うても、雨もばらばら降っていながら、鼻緒が切れて困っているを見捨てゝ先に行こうとは、あまりにも不人情でござりませぬか。合わせて、その傘をば用立てたのは何を隠そうこの才三」

お新「なんだ、用立てた傘だ。馬鹿なことを抜かしやがるな。雨に降られて困るというから俺が下駄まで買ってやり、こゝまで一緒に入れてきたは、このお新の達引だ。庇を貸せば母屋を取ると入れてもらったこの傘を、わしが用立てたと屁理屈こねて、取り上げようとは太えやつだ」


ト才三郎、これを聞いてムッとするも、気を替え、


才三郎「もし、お新さん、こりゃあわしが悪かった。今夜からこなたの家で厄介になる癖して、わずか傘の一本ばかりで争ったはこちらが誤り。お前の気には障ったろうが、どうぞ堪忍してくださいませ」

お新「謝るなら了見してやる。次からは気ぃつけやがれ」


トお新、また行きかけるの才三郎止めて、


才三郎「あゝ、もし。ちょっと待ってください」

お新「また止めるか。うるせえやつだ」

才三郎「定めてこなたもうるさかろうが、これが家でも知れていれば、後からなりと行きましょうが、どんなとこやら勝手は知れず、提灯はともせず雨も降る、お前に先へ行かれては巣にも帰れず濡れ鼠、どうぞ後生だから一緒に行ってくださいませ」

お新「○こうこう、才三どん、おめえ、さっきからおれの家へ来るだなんだと言っているが、一体どんな用で来るんでい」

才三郎「どんな用、とはお新さん、お前の勧めで廓を抜けた花駒さんが先へ行っているゆえ、ご迷惑でも今夜から厄介になるとのお約束」

お新「お前さん寝ぼけてでもいやしねぇか。そこの流れで顔でも洗いなせえ。わっちはそんな約束した覚えはねえぞ」


ト才三郎、これにてさては、という思入れあって、


才三郎「はゝあ、よくわかった。そんなら何じゃの、わしらを謀り、花駒さんをこなたは体よく連れ出したのじゃな」

お新「えゝ黙りやがれ。この野郎はとんだことを言いやがる。そんなら言って聞かせるが、あの花駒はおれが色だから引っさらって逃げたのだ。てめえに用があるものか」

才三郎「そんなら、おぬしは最初から○先刻は花駒さんを連れ出したら、わたしの家へ二人とも置いてやろうと言ったゆえ、そでないこととは知りながら、病と称して四つ手を引き込み、騒ぎに乗じて駕籠に乗せ、ひとまず先にやってから、こゝまで二人、相合傘で連れ立ってきたこの才三。それをお前の色なんぞと、いゝ加減なことを言いなさるとは、ても恐ろしいお人じゃのう」

お新「なんだ、おつなことを言うな。あの花駒を連れ出したら一緒に家へ置いてやろうと、このお新が言ったなどとは、とんでもねえ言いがゝりだ○それに色と言ったは本当だ(ト合方になり、)辛い勤めの身の上で、つい話に乗ったがきっかけで、懇ろになって今日で一年ひとゝせ。一生客にはなれねえ身だが、昼から逢瀬を重ねては、しっぽり濡れた洗い髪、ほどけた帯も結い髪も、いたほどは数知れず、どうで表じゃあ添われぬ身だからいっそのことゝ思い立ち、連れて逃げたが、文句があるか」

才三郎「そのような根も葉もないことを○花駒さんの色はわしでござんす」

お新「なに」

才三郎「わしが色に違いないから、色だと言ったがどうしました」

お新「えゝ、うぬぼれたことを抜かしやがるな」


トお新、持ったる傘にて才三郎を打つ。才三郎、キッとなり、


才三郎「こりゃ、からかさで、」

お新「ぶったがどうした、なんとした」

才三郎「こりゃもう、どうも」


ト才三郎、下駄を持ち、両人キッとなる。合方になり、


お新「これよっく聞けよ。普段は廓に出入りの髪結、いわば好きのことだから、うぬがような間抜けにも、それ才三さんとか花魁とか世辞を言って媚び諂うも、所詮は潰しが効かぬ勝山結、道理を曲げにゃあお釈迦蝦蛄になるから、伊達に挿し割り結ぶが活計たつき、どうで御所風にはなれないから、いっそ鴛鴦おしどりめくつもりだが、そこにを挟むと言うならば、せめてこうがい・後悔ないよう捌くゆえ、針金そっくりの才三さん、てめえも切り下げられるその前に、お返しで逃げるが吉さ」


トキッと見得。才三郎、無念の思入れにて、


才三郎「ちえゝ、そういうおのれの心とは今の今まで知らぬゆえ、親切ごかしの言葉に釣られ、安請け合いとは知りながら、恋路の闇に迷う身に、求めて悔やむこの下駄も、歯抜けたどころか目も抜かれ、ぬかった道へむざむざと嵌められたるか口惜しい」

お新「えゝ、しゃらくせえことを抜かしやがるな」


トお新、持ちたる番傘にて才三郎を食らわす。才三郎、その手に縋り、


才三郎「たとえおのれには敵わずとも、やみやみ女を渡そうか」

お新「なにふざけたことを」


ト波の音になり、両人ちょっと立ち廻り、お新は番傘にて才三郎を散々に打ち据える。これにて才三郎、着付け破れてずたずたになり、それでもお新にむしゃぶりつく。お新よろしく突き回し、トゞ才三郎を土手下に蹴落とす。


才三郎「アイタヽヽヽヽ」

お新「ざまあ見やがれ」


トお新、せゝら笑う。波の音、佃になり、お新は下手に入る。才三郎、起き上がり、


才三郎「おのれ、逃すまい○アイタヽヽヽヽ」


ト才三郎、よろぼいながら土手を這い上がろうとするが、全身が痛むゆえできないという思入れにてどうとなる。鐘の音、かすめて波の音となり、


才三郎「えゝ、これ。後を追っかけ行こうにも、所の名さえ浅草と聞いたばかりで先は知れず○ことには宵の大雨にてぬかる道さえ知れ難き、文目もわかぬ真の闇、こりゃどうしたらよかろうなあ」


ト才三郎、じっと思入れ。下座の端唄になり、


〽︎待ち侘びて、寝るともなしにまどろみし、枕に通う鐘の音も、

トこの内、才三郎よろしく思入れあって、


才三郎「上手うわてをおろす風につれ、聞こえてくるは廓の唄。いつかと思い待ち侘びた、身の甲斐もなく降りかゝる、今の難儀も元を辿れば、旦那様の目をかすめ、刹那の恋にまどろんだ、身の程知らずの愚かさゆえ、色に溺れて交わした起請も、今となっては重荷となり、不埒のことをしたばちか、真暗闇にて手ひどく打たれ、心に響くは無常の鐘、家の娘を拐かされ、どうこのまゝに帰らりょう。こりゃもういっそどんぶりと、この淵川へ身を沈め、死んでしまうが身の言い訳○とはいえお家の奥様は、こういうことゝもご存知なく、この才三が花駒さんを連れて逃げたと思し召し、さぞやお憎みなさるであろう。いっそのことよそながら、旦那へお知らせ申した上、命を捨てゝお詫びをしようか○あゝ、夢であったらばよかろうが、」


〽︎夢かうつゝか、現か夢か、覚めて涙の袖袂、

トこの内、才三郎、行きつ戻りつ思入れよろしくあって、トヾ思案を極め、石を拾い、袂へ入れることなどあって、


新悟「いやいや、たといこのことをご夫婦へ知らせたとて、現であることには違いなく、罪が消ゆるでないのなら○いずれは濡れる袖袂、涙も波も変わるまい○それじゃというて心にかゝるは花駒さん、さぞ今頃めは非道な目に逢うてござろうが、行くに行かれぬ仕儀ゆえに、見捨てゝ死ぬる不甲斐なさ、どうぞ許してくださりませ」


〽︎アレ、村雨が降るわいな

トこの内、才三郎は目を閉じて手を合わせ、詫びる思入れ。この以前、上手より、船頭と、編笠を被ってまどろんでいる花川戸助七を乗せ、先頭に提灯を括り付けし一艘の猪牙舟やってくる。船頭、才三郎の様子を怪しみ、助七を揺り起こす。助七、一本差し、粋な羽織、着流し、下駄掛けにて、この様子を窺う。才三郎、これを知らず、


才三郎「南無阿弥陀仏」


ト土手より飛び込もうとする。この時、助七、舟より降り、つかつかと出て、才三郎を後ろより抱き止め、


助七「これ、若えの、待ちなせえ」

才三郎「どなたかは存じませぬが、どうぞ放してくださりませ」

助七「いや、おれの目にかゝったからには、滅多に死なせるわけにはいかねえ」

才三郎「左様でもござりましょうが、助けると思し召して、どうぞ死なせてくださりませ」

助七「馬鹿なことを言いねえ。助けると思って死なすやつがどこの国にあるものか。待てと言ったら、まあ待ちなせえ」


ト助七、無理に舟のほうへ連れてきて、提灯の灯りで才三郎の顔を見て、


助七「お前は白木屋の若い者じゃあねえか」

才三郎「そうおっしゃるのは、どなたでござりましょうか」

助七「なに、花川戸の高が知れた口入れ屋、名は助七というしがないやつさ」

才三郎「そんなら、お前が○して、あなた様はどうしてこゝへ」

助七「仲之町まで用があり、日の暮れ合いから出かけた所、帰り間際に俄雨、こりゃ居続けかとも思うたが、先方が親切ごかしに言うもんだから、誂えられた猪牙に乗り、ゆらり揺られて吉原土手、いゝ気持ちで白河夜船を漕ぐところ、そこの三次に起こされて、目を凝らして打ち見れば、一人たゝずむ若者が、身を投げようとしてるじゃねえか。あらましこそ聞いてはないが、所詮は訳も知れたこと、みすみす見殺すわけにもいかず、後はお前も知っての通り。これもなんぞの因縁ゆえ、まあ死ぬことはよしにしなせえ。


才三郎「お止めなされてくださります、そのご親切はかたじけないが、どうでも生きてはおられませぬ」

助七「ざんぶりいこうというくれえだから、生きておられぬわけもあろうが、おれも花川戸助七だ、一旦こうして抱き止めて、命を助けた上からは、たとえどんなわけがあろうとも、お前を死なせるわけにはいかなくなった。まあ、ひとまず落ち着いているがいゝ」

才三郎「そのお言葉に甘えまして、お話し申す一通りを○」

助七「おっと待ちねえ。詳しいわけは一通り、どの道聞かにゃあならねえが、何を言うにもこゝは往来、まあ花川戸のおれが宅へ、ひとまず一緒に来るがよい」

才三郎「左様なら仰せに従い、ご一緒に参りましょう」


ト時の鐘、助七と才三郎、一緒に舟に乗る。


助七「出してくんねえ」

船頭「へーい」


ト舟、花道へ向かう。


才三郎「○あのお新めに打ち叩かれ、顔も体も泥まみれ、あゝ情けない姿になったなあ」

助七「なに命あっての物種だ。して、お前さんこう聞いちゃあ縁起が悪いが、ほんとに身投げをするつもりだったのかい」

才三郎「ハア、もちろんでございますが。それがなにか」


ト助七、笑う。才三郎、不可解な思入れ。


助七「いや、悪い悪い、笑っちゃあいけねえのはわかっているが、やはりお前さんはこゝで死ぬ定めじゃあないようだ○おい、三公、ちょっと見してやれ」

船頭「へーい」


ト船頭が棹を立てると舟が止まる。


助七「ほれ、見てごらんなせえ。こゝらの深さは精々六七尺ばかり。お前さんほどの背丈なら足がついちまうかもしれねえなあ」

才三郎「ほんに、そうでございましたか。こりゃ、ますます惨めに」

助七「あゝ、なにもそんなにしょげることはあるめえ。一枚下は地獄というが、どんなに深え淵川も底は必ずあるもんだ。どうせ捨てた命なら、拾ったものと思い改め、生きてみるのが浮世の手立てさ」


トこの内、舟は再び進みだし、花道にかゝると幕を引く。幕外になり、


才三郎「はて、親分さん、花川戸へ向かうと言いながら、こちらへ行くは取り違え」

助七「細かいことは気にするめえよ。次の幕が開いたなら、所は今戸かもしれねえから、そしたら行くはこの先さ○まあ、ひとまず流れに身を任せ、(ト才三郎の肩に手を置くを柝の頭、)のんびりするのも悪くはねえさ」


ト波の音、佃の合方にて舟は揚幕に入る。

拍子幕

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