一幕目第二場 白木屋、花琴部屋の場
一幕目第二場 白木屋、花琴部屋の場
本舞台一面の平舞台。正面、床の間、脇に違い棚、黒塗りの箪笥。上手に夜具棚。下手に障子、この外、廊下の片遠見。こゝに鬢盥、煙草盆を置き、白木屋の花魁である花琴、女郎、部屋着の拵えにてよろしく住まい、煙草を吸っている。この後ろに前幕のお新、花琴の髪を結っている。この様子、端唄にて幕開く。
お新「花魁、痛くないかい」
花琴「どうせ、痛くても止めやしないだろう」
お新「そう言われちゃあ返しにくい○まあすぐ終わるから、もうちっと辛抱してくだせえ」
ト合方になり、下手より白木屋の新造である花駒、振袖新造、胴抜きの拵えにて出て、部屋の前に座る。
花駒「花魁、お呼びに」
お新「おう、花駒さんじゃねえか」
花駒「これはお新さま、一昨日ぶりでござんす」
花琴「ちょうどいゝとこに来やしゃんした。わっちが終わったら、お前さんも結ってもらんせえ」
花駒「エ。でも、それでは旦那に悪うござんす」
花琴「わっちの妹女郎だ。構いやしないよ」
お新「それにあの旦那のことだ。そんなことに、いちいち腹を立てまい」
花駒「それなら、失礼して」
ト花駒、部屋に入りよろしく住まう。
お新「○花琴さん、また一段と器量がよくなったんじゃごぜえやせんか」
花駒「はて、一昨日ぶりでなんの転合を」
花琴「どうせ、わっちはもう枯れるばかりでありんすよ」
お新「花魁は言葉がきつうござります○いやいや、世間には男おのこは三日会わざればという言葉がございますが、
花駒「いえいえ、わたしなぞはまだ花蔵さんや花太郎さんと比べますと、まだまだでありんす」
花琴「○お新が言うからでも、妹分だから言うわけでもねえが、お前さんはその二人には決して器量じゃあ負けてござんせんよ」
花駒「常日頃から仰ぎ見る花琴花魁にそう言っていたゞけると、まことに嬉しうございます」
花琴「そう言ってくれるは嬉しいが、女郎というのはなにも手練手管の上っ面だけで客を取るんじゃあござんせん。わっちみたいになりたい気持ちがちっとでもありんすなら、もうちっとしゃんとしなせえ」
花駒「さりながら、わっちは何も太夫になりたいわけではございません○あゝ、いや花魁を悪く言うわけではござりませんが、お二人もご存知の通り、わっちは幼い時分に廓に売られ、白木屋夫婦に育てられ、心にある願いといえば仮の二親へのご恩返し。世間ではこゝを闇とも苦界とも申しますが、わっちにとっては三千世界で一つとない家でありんす。されば、家の娘として願いますは一つに父母ちゝはゝの身の上で、二つにはお家の行く末。これらが叶いますならば、望むものは他になに一つござんせん」
トこれを聞いて、両人思入れ。
花琴「はて、殊勝というか、」
お新「
花琴「ほんに廓には、」
お新「稀なるお人で、」
両人「ござんすなあ」
ト合方になり、下手より前幕の才三郎出て、障子を開ける。
才三郎「花魁、旦那がおよびでございます」
花駒「才三さん」
才三郎「いや、花駒さん」
ト両人、思入れ。
花琴「新さん終わったかえ」
お新「とっくにね」
花琴「それなら、ちと行って参りましょう○花琴さん、しっかり結ってもらんなせえ」
ト合方になり、花琴は下手に入る。才三郎も花駒に思入れあって、慌てゝ後を追って入る。
花駒「はて、なにか言いたげな才三さん、もしや二人のことが○」
お新「花駒さん、よいかえ」
花駒「○あい」
トお新、花駒の髪を結う。花駒、思入れ。
花駒「お新さん、最前の才三さんのご様子、なにか妙ではござんせんでしたか」
お新「なにか思案ごとかと思ったら、そんなことかい。恋しい人に会おうものなら、あのように照れるが男の性さが。なに、女冥利に尽きるじゃございやせんか」
花駒「○あゝ、これ。誰が聞くとも」
お新「誰も聞きやしませんよ。そもそも打ち明け話はお前さんのほうからだったじゃあございませんか」
花駒「あい、その説はお世話に」
ト花駒、思い出して照れる思入れ。
お新「女郎の一生なんて儚いものでございますから、いゝ人の一人でも二人でも作りゃいゝんでございますよ○はて、花琴さんをごらんなさいな。身請け金と年ばかりが嵩を増し、太夫といえど、あんなのじゃ貰い手はおりませんよ。それであんなに煙草を吸うんでございましょうよ」
花駒「そんなことはござんせん」
お新「いや、これは皆が承知のこと。誰だって吉原一の太夫なぞになるよりは、好いた人の
花駒「それでも近頃は逢瀬を重ねる度、所詮は若い者と女郎の身の上、いずれ行き着く先は、と思うてしまい、夜は枕を濡らすばかりでありんす」
お新「はて、しおらしい○それに、そう思ってるのは花駒さんだけかもしれませんぜ」
花駒「エ」
お新「先ほどの才三さん、どうもなにか言い掛けがありそうなご様子」
花駒「○お新さん、お前なんか知っていやしゃんすか」
お新「いや、そりゃあその」
花駒「もしなんか知っていなさんすなら、お前とわしの仲じゃあないか。後生だから教えてくださんせ」
お新「いやあ、そうまで言われちゃあ、仕方ねえ○ありゃあ、四五日前のことだったでございましょうか、白木屋に呼ばれた帰り際、ふと通りがゝった旦那の部屋、障子が開いてるのが気になりまして、野暮だとはわかっていやしたが、どうも根がよくない生まれゆえ、つい覗き見たところ、中には旦那と才三さん。それで、悪いとは思いつゝ、ちっとばかしそこにおりましたら、聞こえてきたのは婿入りのお言葉。どうやら、あの慈悲深い旦那のこと、若い才三さんのことを考えて、どっかの町家に婿入りの算段を整えているようでございました」
ト花駒、これをじっと聞いていて思入れ。
花駒「そんなら才三さんは、わっちを見捨てゝ。えゝ、口惜しい」
お新「世間は女郎をつれないだ、金に転ぶだと申しやすが、こっちに言わせりゃあ、男のほうがよっぽど邪険でございますよ○花駒さんのようないゝ女を見捨てるなぞ実にひどいやつじゃあございませんか。
トお新、顔を寄せ、花駒の頬を撫でながら言う。
花駒「あゝ、いや。そうとは思いませぬ○近頃、わっちが身の上を儚み、二人の行く末を案じるから、自ら身を引こうとしたんでありんす。きっとそうでござんす。えゝ、どこまでも憎いお人じゃ」
お新「惚れた弱みとはこのことか(ト小声で言う)」
花駒「お新さん、どうにかならないかね」
お新「どうと言われても、二人の間の話じゃあねえか。おれは知らないよ」
花駒「そうと申しても○苦界の身の上、明け暮れても行く場所なく、楽しみといえば恋しい人との逢瀬だけ、それさえなければ、いっそのこと」
ト花駒、鬢盥より剃刀を出すのでお新は慌てゝ止める。
お新「あゝ、これ早まりなさんな」
花駒「そうと言っても」
お新「あの世もこの世も所詮は苦界、どこへ行っても同じこと○それが嫌なら抜けるしかございませんよ」
花駒「そりゃ、抜けるとは何を」
お新「わかっていなさるだろう○廓を、だよお」
花駒「エヽ。しかし、それでは旦那に申し訳が」
お新「いや、なにも寝首を掻けって申してるんじゃあございません。そこはお前さんの了見一つさ。一度、才三さんと抜けた上で、しばらくどっかに身を伏せて、そこで
花駒「さりながら、身を伏せるといってもどこに」
お新「そりゃあ、お案じなさんすな。わしの家うちへおいでなさい」
花駒「して、そなたの家は」
お新「橋をすぐ越えた先の浅草今戸町でございます。なに裏店じゃあございますが、棟割の後ろをぶち抜いておりますから、駆け落ち者が隠れているにはお誂え向きの静かな長屋。
花駒「それでも才三さんに迷惑が」
お新「はて、あちらもほんにお前さんと添うお心があるなら、これぐらいはたやすく得心してくれましょう。それで反りが合わぬのならそれまでで、見世に戻るのは難しかろうが、そうしたら旦那の勧め通り町家に婿入りなされば、才三さんの道も立ちましょう○いずれにせよ、善は急げだ、花駒さん。そういうお心積りならさっさとこゝで覚悟を決めなせえ」
ト花駒、廓抜けを決心する思入れあって、
花駒「これまで幼い頃より育てゝくださった白木屋夫婦へのご恩返しをと思って過ごしてきましたが、夫婦は一世との謂れなら、たとえ地獄に落ちるとも悔いはなし○お新さん、何分、お頼み申します」
お新「その言葉を待っていやした」
花駒「して、抜ける手立ては」
お新「それなら、耳を貸しなせえ」
トお新、耳打ちする。
花駒「○アヽ、これくすぐったわいのう○なに、勝さんが医者に扮して、わしは駕籠に」
お新「承知なさいましたか」
花駒「あい。どうぞお世話になります」
ト花駒、俯いて恥ずかしがるを、お新ニッタリ見る思入れ。
花駒「さりながら、ひとつの心配が」
お新「○エ」
花駒「まだ髪は結い終わりませぬかえ」
お新「違えねえ。つい話に実がいって、思ったより手間がかゝりました。ほれ、これで(ト簪を差すを柝の頭)手筈は万事整いやした」
トお新、うまくいったと思入れ。
拍子幕
佃の合方にてつなぎ、道具出来次第に引き返す。
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