再び始まる家族との時間

紅夜チャンプル

再び始まる家族との時間

 あの壮絶な治療を終えて5年。

上川優かみかわゆうさん、異常なしです、もう5年経ちましたので外来の間隔も空けて良いでしょう」

 先生にそう言われてホッとした。


 この若さであんな病気になるなんて思ってもいなかった。最初は何が起きたのか分からなかったが、治療方針を説明され慌しく準備している間に入院。

 今までとは全く違った生活が始まった。


 夫のあらたと当時5歳の梨沙りさを残して先にゆくわけにはいかない。

 本当は異常が見つかった時にすぐ新に言いたかったが、私は正式に告知されるまでは平静を装って過ごしていた。


 新と一緒に告知を受けた時、自分よりも新の方が困惑していただろう。

 それでも彼は具体的な治療方針を隣で真剣に聞いてくれた。その後すぐに入院に必要なものを揃えてくれた。


「梨沙のことは心配しないで、先生もああ言ってるから、君なら大丈夫」

 新にそう言われて梨沙の描いた私の似顔絵を手渡された。梨沙……今年度で卒園なのに……一緒にいられないなんて……


 毎日梨沙の写真が新から届く日々。週に一度デイルームで過ごす3人の時間。

 それまでの私は夫や梨沙のことや家のこと、パートで余裕のない日々を送っていたが、こうして自分の体調のことだけを考えて過ごせるのは何年ぶりだろうか。

 こんなにも……時間はゆっくり流れていくのね。気づかなかった、毎日私はあんなに頑張っていたんだ。


 梨沙の運動会やお遊戯会、卒園式には出席できるよう治療スケジュールも決めていただいたため、退院して家にいる時は梨沙のことを一番に考えて新と過ごしていた。


 そして梨沙が小学校に入学した頃、私はメインとなる治療に入った。入院期間も3ヶ月ほど。あの治療の苦しみからは逃れられなかった。本当に明日が来るのだろうか? 不安で怖くて泣いていた毎日。

 それでも私は新と梨沙のことを考えながら、無事退院することができた。


 結局最後に信頼できるのは……家族だ。


 そして私は新や梨沙に支えられ、あの退院の時から5年経ち、ここまで回復できた。

 梨沙はこの春小学6年生。少し思春期に入ったのか、時々意味なく不機嫌になる。けれど、いつだって私のことを見てくれている。

 新も私が病気になっていたことを忘れるぐらい、普通に楽しく話せるようになっていた。


あの時までは。



※※※



 4月になり梨沙が6年生になった頃、新が急に体調を崩すようになった。

 食欲もどんどん落ちてゆく。

「優……僕もう何もしたくないんだ……」

「どうしたのよ新、何か精神的に辛いことでもあった?」

「とにかく苦しい……辛い……」


 新を近所の内科に連れて行き血液検査をしたところ、「あり得ない」と思うような結果が出てしまった。ある項目の数値が桁違いに高かったのだ。


 そして次は大学病院、5年前に私が治療を受けた場所。きっとそこで精密検査をされて告知される。私にはその一連の流れがすぐに分かった。自分も同じように治療してきたのだから。

それと同時に今にも溢れそうな涙を必死でおさえた。こんな見たこともない数値……もう新の命は……いや、まだ分からないけど……新は……


 隣にいる夫を見る。彼はこう言った。

「ああ、そうですか。あの保険入ってて良かったよ。やっと使えるな」

 後から先生に聞いた話だが、ここまで泰然自若な患者は初めてだという。そして私も同様に、入院に向けてやるべきことが分かっているからこそ、取り乱すこともなかった。

 夫婦揃って泰然自若だと先生は感じたそうだ。


 3月まで普通に過ごしていた新がこんなことに……どうして新なの……?


 大学病院で正式に告知を受けた際、やはり心にズンとくるものがあったのか、新も私もどうしようもなく落ち込んで……という場合でもなく、入院準備を始めた。


「優……梨沙を頼んだよ。僕がいなくなっても……」

「何言ってるのよ、まだ治療も始まっていないじゃないの……」


 私はあの時、新に言われたように「大丈夫」とは言えなかった。大丈夫ではないぐらい症状は進行していたのだから。

「新……これからは自分のことだけ考えて。私と梨沙はどうにかなるから。だから……今は自分が一番楽になれるように過ごして。私と梨沙は……ずっと応援している」

「優……優……」

 新の目から涙が溢れ出てきた。新と抱き合いながら2人で泣いていた。


 私は5年前のことを思い出しながら新に話す。

「覚えてる? あの時、新が私をギュッて抱いてくれてさ、『僕だってこれからどうなるかわからないから不安だけど、何とかやってる。だから優も何とかなるんだよ。不安なのは僕も一緒だ』って言ってくれたこと」

「そんなこと……あったか?」

「あの言葉で私は頑張れた、ここにいるのは新のおかげなの……」


 泣きながら私は必死で喋っていた。もう入院してしまえば、彼とは話せなくなるかもしれないから。



※※※



 やはり思った通りだった。

 入院して間もなく新は話すこともできないくらい衰弱していった。私は毎日ベッドにいる新に話しかけながら、洗濯物を片付け、看護師さんと一緒に彼の身体を拭いた。


 梨沙には既に話したが、どこまで理解しているのだろう。

「ふーん、また退院するんでしょ? ママみたいに。パパ大丈夫かな」

 週末に初めて面会に行った梨沙は表情ひとつ変えず、じっと新を見つめていた。酸素吸入されて動かない父親。随分痩せた姿。何も言葉が出なかったのだろう。


 病院を出てから梨沙がやっと口を開いた。

「どうしてパパはあんな戦後みたいな姿になってしまったの?」

「梨沙……これはね、そういう病気なのよ……」

「ママ……怖い……」

「梨沙……あなたの声はパパに届くわ。だから次来た時には……たくさん話してあげて」

「何話したらいいかわからないよ……」

「何でもいいわ、あなたの声をパパは聞きたいの」


 そして梨沙は最初こそ慣れなかったものの、父親に少しずつ話すようになった。

 だが、梨沙も小学校最高学年。忙しさでなかなか病院に行くことはできず、半年以上が経過した。

 私も家計のためにパートの時間を増やして毎日働くようになった。


 あれから新は仮死状態のまま、目覚めることもなく、病院からの連絡もなく……

 ただ私と梨沙は毎日の生活で精一杯で、気づいた時には1年半の時が経過していた。

 梨沙はほぼ新のところには行かずに、中学校生活を送っている。

 私は正社員にならないか、と勤務先で言われ、快諾したところであった。


 いつしか夫への想いに蓋をするようになった。もう夫が元に戻ることは期待できない。それよりも梨沙とのこれからの生活のことを考えなきゃ。


 梨沙は、ますます私に反発するようになった。こういう時、新ならどう言ってくれるのだろう。いや、駄目だ。彼を思い出したら私は……壊れてしまう。現実から目を背けていることは分かっている。

 でも……もう……あの人はいない……そう思うしかない。そう思わないと生きていけない。



※※※



 このままの生活を続けてて良いのだろうか。

「あとはご家族の判断にお任せします」

 そう言われて随分経つ。新はいないと思いながら生きてきたものの、最終的な決断がどうしてもできない。私が新の命を……そんなこと……考えたくない。


 結局最後に信頼できるのは……家族だ。


 私が自身の病気から回復できたのも新と梨沙、家族がいたからこそ……

 新だって……私達をどこかで信頼しているのでしょう? それとも先にゆきたいの?

 わからないわ……もう……


 もうすぐ2年が経つ。梨沙も中学2年生。

 梨沙が受験の時には、全て終わらせて……って私……今何を考えていた?

 新のことを……

 でもこのまま何もできずに生活するのも……


「ママ」

 ハッと気づくとそこに梨沙がいる。

「あたし、この高校に行きたい」

「ここは……パパとママの行ってた高校?」

「うん! ここからも行きやすいし、今の成績なら頑張れば大丈夫そうって先生も言ってくれたの」

 梨沙にはスクールカウンセラーの先生がついてくれている。とても頼りになる先生だ。


「それにね、パパが喜んでくれるでしょ? パパとママが出会った高校にあたしが行って、昔とは違うんだよー! 今はぜーんぶデジタル化されてるのよって話すの。パパ、きっと驚くわ」

「梨沙……」


 私が新のことを諦めようとしていたのに梨沙は……あの時から希望を持ってくれていたの?

 彼女は父親のことを何も話さなかったからてっきり……自分と同じように彼はいないものとして、精一杯頑張っているのだと思っていた。

 でも違った。梨沙は家族を信頼し、希望を捨てずに前を向いていたのだ。


 思わず自分の顔を覆った。

「ママ?」と、不思議そうな顔をする娘。

「梨沙……!」


 その時、私のスマートフォンが鳴る。

「え……病院?」

 さっきまで娘に感心していたところだったのに……とうとう終わりを迎えたのだろうか。


 しかし、電話口からの看護師の声はこう言っていた。

「ご主人、少しですが……目を開いたのです……」



「新が……!」

 私はペタンと床に座り込む。

「ママ、どうしたの?」と梨沙が言う。

「パパが……目を開いたって……」


 すぐに娘を連れて病院へ向かった。

「パパ! パパ!」

 梨沙が必死に呼びかけている。

 すると本当に薄らではあるものの確かに新の目が開いていた。

「新……!」

 私は彼の細くなった手を握っていた。僅かだが握り返されたような気がした。


 私は自身が病気になった時に自分なりに調べて色々と知識を得ていた。だから、新が告知された時に、そして目覚めなくなった時に……状況を考えれば元に戻るなんて難しい、そう勝手に決めつけていた。

 だけど……今ここにいる新は……生きようとしている……奇跡が……起ころうとしている……?


 そこから一晩中、梨沙と私は仮眠を取りながら、新の側で声をかけ続けていた。

 私が決断できずにいたのは、きっとあなたの事をどこかで信じていたから……どうかお願い……新……


 そして翌朝。



「……ゆ…………」



 今「ゆ」って……聞こえたんだけど……これって……



「ゆう……」



「あ……あらた……!」

「パパ……!」



 新が意識を取り戻した。奇跡が起こった。



 もちろん2年近くも眠っていたため、声も小さく話すのも精一杯。けれど、梨沙や私の声は聞こえているようで、時々目を細めた笑顔が見える。


 新が帰ってきてくれた。

 私達家族は……長い眠りから目覚めて再会することができた。

 まだまだ元の生活に戻るのに日数はかかるけれど……再び始まる家族と一緒に過ごす時間。

 今はただただそれが嬉しくて、私は今日も彼に優しい笑顔を向けた。




 終わり

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