第40話ベルモンド子爵の思い

皆が王太子に視線を集中させる。




「…もし叶うのなら――私は、ロザリア王女に正妃となってもらいたい…」




王太子殿下の低く響く声が広間に落ちた瞬間、アンナ様が驚愕の表情を浮かべる。




「ク、クリストファー様……!」



声が震え、目には涙が滲んでいる。




「どうしてそんなことをおっしゃるのです! 私は、あなたに愛されているのでしょう?」



「アンナ…愛は確かに重要だ。君と共に生きたいという気持ちは変わらないんだ。しかし、君が王妃となるには、それだけでは足りないのだ。この国を背負う者として、私は冷静に判断しなければならない。勝手ですまない。許してくれ…」




「そ、そんな。辛い妃教育は受けさせたくないと…君は癒してくれるだけでいいと…嘘をついたのですか?」




彼女の声は悲嘆に満ちていた。広間全体が重苦しい沈黙に包まれる中、王太子の表情には苦渋の色が浮かんでいた。




――王太子殿下。確かに、そんな甘い言葉を囁いていたことがありましたね。






その時、広間の扉が静かに開かれ、侍従の声が響いた。





「陛下、ベルモンド子爵が到着いたしました」




アンナ様のお父様?




「陛下並びに皆様にご挨拶いたします。我が娘、アンナに関わる重要なお話があると聞き、参上いたしました」



一礼する子爵は、やつれた様子が、ありありと見て取れた。





「子爵よ。こちらはオセアリス王国、第一王女、ロザリア王女だ。実は、王女に王太子との婚約を打診しておってな。今日はその話なのだ」



あら陛下、今日、お会いしてから初めての発言ですわね。子爵の顔色がどんどん悪くなる。今、頭の中はいろいろな予測で混乱しているに違いない。



ロザリア王女が静かに子爵に向かい、微笑みを浮かべながら話し始めた。




「ベルモンド子爵。実は今、私とアンナ様どちらが正妃かという話をしていたのですわ。あなたはどう思うかしら?」



その言葉に、広間の視線が一斉に子爵に注がれる。彼の顔は蒼白となり、額には汗が滲んでいる。




「我が娘が正妃など…そ、側妃でも恐れ多い。そして、どうかお許しください。娘が、このような大役にふさわしくないにもかかわらず、身の程をわきまえずに、ここにおりますことを」




「お父様! 何を言っているの!?」



意気消沈していたアンナ様の怒りに再び火が付き、立ち上がりかけるが、子爵は彼女を制する。



「お前は何もわかっていない!!」



突然の怒声に、広間がざわつく。子爵は深呼吸し、再び口を開いた。




「大きな声を…申し訳ありません。アンナ…なりたいからなれるものではないのだ、王妃というものは。 我が家はあまりに力が弱く、持参金すら満足に用意できぬ。我々がこのような場にいること自体、身の程知らずなのだ」




「そんな……!」




「お前がそちらの前婚約者様たちにしでかしたこと――その影響が、我が子爵家になかったとでも思っているのか? 慰謝料のために多くを手放し、各方面への謝罪に奔走しているが、まだ十分な額を用意しきれていない。爵位返上や取り潰しを免れたのは奇跡に過ぎない。お前が王宮にいる限り、私は、生きた心地がせぬのだ」



子爵の言葉にアンナ様の顔は青ざめ、肩が震え始めた。子爵家にも慰謝料の請求が…そう言われれば、確かにそうですわよね。



「何度も、帰って来いという手紙をなぜ無視する。王太子に愛されていると…王宮にいてもいいと言われたからと…息子もお前も、なぜそんなに暢気なのだ。愛だけで何とかなる地位ではないのだ。なぜわからん」



アンナ様の顔が蒼白になる。



その様子を見たロザリア王女の柔らかな声が広間に響く。




「あら、子爵。人生には愛も必要ですわ。もし二人が本当に愛し合っているのなら、側妃として王太子殿下のお傍にいらっしゃるという選択肢まで、アンナ様から取り上げるのは可哀想ですわ」




その言葉に、アンナ様の頬に僅かな赤みが戻る。しかし、広間に漂う緊張は解けず、むしろその提案が暗黙の圧力として場を支配している。




「アンナ様、よくお聞きになって。妃になるということは、ご実家にとっても栄誉となることでしょう。ですが、その地位を保つには、それ相応の振る舞いと責任が求められます。それをお忘れなく。無理をせず、妾という道も視野に入れた方が、より現実的かもしれませんわ」



ロザリア王女の声色には、一切の敵意も非難も感じられない。それゆえに、その提案は鋭利な刃物のようにアンナ様の心に突き刺さる。アンナ様は目を伏せ、苦しげに唇を噛む。



子爵が、代わりに話し始める。



「王女殿下、妾として、離宮の片隅に置いていただけるだけでも喜ばしいことです。妃として、アンナがここで過ごすのにも金がかかりますが、我が子爵家は、援助などもちろんできるわけがない。妃たるもののふさわしい生活には、実家の援助が必要でございましょう? 妾であればその額も下がる。しかし、取引相手とは疎遠になり、様々な集まりで陰口を言われる我が子爵家が、妾の費用すら準備できるか…。後継者である息子は、頼りにならないし…」



ベルモンド子爵は娘を一瞥する。その表情には、哀愁が漂う。彼の声は、溜め込んだ感情を吐き出すかのように重い。



「そうなのですね。貴族社会で生きにくいのであれば、爵位を返上され、平民になられるのも一つの選択肢かもしれません。その方が、心穏やかに生活できるやもしれませんわ」




その言葉を聞き、ベルモンド子爵は、はっとしたような顔になった。


「…そうだ、今までだって平民に近い生活で慎ましく暮らしてきたんだ。貴族という肩書を捨てた方が楽に…。…アンナ、現実を見なさい。貴族としての肩書を持つだけで精一杯の我が子爵家が、お前のために出せる金額などほとんどない。爵位を返上し、平民として新たな道を歩むことを考えるべきではないか? いや、アンナ。お前は、全てをなかったことにして、もう王家から出て、修道院に入れ。そして、しでかしたことを悔いながら、そこで一生を終えてくれ。頼む!」



「ひどいお父様! 私を見放すのですか?」


怒り、悲しみ、そして絶望の入り混じった感情が渦巻き、彼女の中で制御不能となっている。

アンナ様の震える声が広間に響いたが、子爵は冷静さを保ちながらさらに続ける。



「見放してなどいない。私はお前を守りたいのだ。ただし、この場ではなく、より安定した場所でだ」




ロザリア王女は、そのやり取りを穏やかな表情で見守っていた。そして、冷静に、こう言葉を添えた。




「妾か、平民か――どちらがご自身にとって望ましいか。アンナ様、じっくりお考えになればよろしいですわ」



広間の時が止まったような気がした。





…先ほどまで、正妃か側妃かの選択肢だったのに



側妃か妾かの選択肢となり



そして、妾か平民かの選択肢に流れるように変わっていった…。違和感なく。






アンナ様は、呆然とし、言葉を失っている。その震える肩が、彼女の全ての感情を物語っていた。




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