第8話

最後の日付の日記は、殴り書きに近かった。


  「10月5日

   あなたは描けなくなればいい 

   私は消える あなたはもう描けない

   私がいないと色が聴こえないと

   信じているから

   暗示を自分にかけてそうなってるから


   あなたはいつかユーモレスクを聴いて

   蒸気船を描いた

   作曲家は汽車をイメージして

   あの曲をつくった 

   鉄道が好きだったから

   けどあなたは、

   アメリカからヨーロッパ、

   という言葉に引っ張られた

   あなたは先入観持ちやすいと分かってた

   かんたんにだませた


   傷跡になれば、

   あなたは永遠に私を忘れない

   絵が描けなくなれば、

   私を、恋しく、痛く、思い続ける

   血が流れつづける」


頬をぬぐいながら、わたしは汽船の絵を思い出す。

いつも具体的にイメージしていたモチーフたちは、共々感覚の恩恵などではなかった。暗示や先入観や思い込みにまみれたものだった。

彼女は、絵を奪うことで記憶させることを望んだ。存在を絶望で刻むことを望んだ。

わたしはずっと、晴夏と同じ色を聴いていると、信じ込んでいた。


          ◇


暗い部屋のなかで、スマートフォンの四角だけが明るい。

もう何十回目かわからない、ふたりのミュージックビデオのリピートがされた。

どれくらい、こうしているだろう。着替えることも、クレンジングシートを手に取ることも億劫だ。

ぼんやりと、色のような何かが頭に浮かんでは消えていくような気がする。

スマホを雑に縦スクロールすると、コメントに目が止まった。それは、小さな猫のキャラクターがアイコンだった。


@asuka2011 ガチでこの曲好き 1000は再生数貢献してる 聴いてるから生きてける 中学クソだしいじる奴タヒねばいいけど 聴きながらがんばって登校してる


わたしは、泣き顔をうずめた晴夏の胸のあたたかさを思い出した。

少しずつ、現実にピントが合ってくる。

再び楽曲の冒頭が流れ出す。このAメロを紡いだとき、晴夏ははしゃいでいたっけ。このBメロに、晴夏は苦労していたな。この大サビ、どのパターンが伝わるか、ずいぶん相談された。ぜんぶ、切実で、あたたかかった。

音楽の中に、晴夏がいた。あの日記のなかに晴夏がいたように。

机の上の、錠剤を見る。乱雑に散らばっている。しばらくのあいだ、じっと見つめていた。

なんとか、立ち上がる。

立ち上がらなければ、ならない。

もう、カーテンの向こうは明るくなりかけている。


          ◇


わたしは、病院のベッド上に横たわったままの晴夏に話しかけた。

「ねえ、晴夏。――本当は、見つけてほしかったんじゃないの。あの日記を。

本当は、気づいてほしかったんじゃないの。

わたしが弱いから、あなたは強くい続けなきゃいけなかった。

わたしが泣くから、あなたは笑っていなきゃいけなかった。

ごめんね。

気づいてあげられなかった」


ベッドの上の晴夏は、静かに呼吸している。

「色なんかより、心を見なきゃいけなかった」


点滴が一滴、したたり落ちた。

「――お医者さんから聞いたよ、睡眠薬、死ぬためにはぎりぎりの量だって。

家にはまだいっぱい転がってたよね。

本当は迷っていたんだよね? 

しがみつくことを。

あなたにしがみついたわたしには、分かるよ。

わたしは、そうだって信じる。信じるのは得意だから」


膝のうえには、スケッチブックと高校時代に使っていた色鉛筆。

彼女のスマホの暗証番号は、わたしの誕生日だった。ごめんね、と目の前で眠る晴夏に小さくつぶやいて録音アプリを開くと、果たしてそれはあった。

最後に晴夏が吹き込んだ曲。

再生ボタンを押す。か細く音程の不安定な声が、ノイズ混じりに聴こえてくる。

自分に「共感覚」があると実感した今、音から色や風景が浮かんできた。

――緑のリノリウムの床。黄色く日に焼けたカーテン。白い壁。灰色のスリッパ。

わたしは、スケッチする。脳内の色の奔流に従う、いつもの方法。深く身体に刻まれた手癖。

あっという間に、ページの上にこの寂しい病室の風景が再現された。



わたしは、ページを破り捨てた。



「晴夏、それでもわたしは」

――描く。


色鉛筆を持ち直す。

わたしは、「共感覚」を抑え込んだ。

音から浮かぶ色を、強引にねじ伏せる。力づくで。ねじ伏せられると暗示をかけるのだ。自分へ。

湧き出す色に頼らないわたしは、荒野に放り出されたようだ。

支えるものがない。どこに行けばいいのかわからない。

けれど進む。晴夏の音楽が鳴っている。

わたしは、あの懐かしい想像力を起動させる。

想像しろ。絵を描く喜びを知ったときのように。


音楽室から見える青空。

古びたグランドピアノ。

かたわらに座る美しい少女。

素敵なことを思いついた表情。

鍵盤を舞う指。

スケッチブックの上に、たどたどしく絵が生まれていく。


わたしは描き続ける。

ぜったいに目覚めるはずの彼女に、まっさきに見せるために。

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あなたが聴いた色 形霧燈 @katagirit

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