第6話
観客席が、静まっている。晴夏が鍵盤に指を落とすと、最初の音が会場に響き渡った。
わたしはピアノの隣で巨大なキャンバスと向き合っている。音に合わせて、最初の一筆をモンドリアン・レッドの色をのせて走らせた。
晴夏が奏でる音が、キャンバスへと導かれていく。メロディーが真紅のうねりと変わる。アルペジオが、ホワイトの彩りを加える。
「ライブペイントライブ」。そう銘打たれたイベントは、音楽と視覚が一体となる特別なパフォーマンスだ。ライブペイントと音楽ライブを組み合わせた造語。晴夏が即興を絡めながら自作曲を演奏し、わたしがリアルタイムに絵を描いていく。共作したMVが好評だったため、広告代理店からオファーが来たのだ。
32分音符が駆け上がる。情熱的な紅が跳ねる。歓声のパリ・ゴールドを、わたしはドリッピングして散らす。
赤と黄金が、グランドピアノの筐体にプロジェクションされた。描く色が、打鍵に合わせて、ピアノを次々に染める。スクリャーピンの改造ピアノの発想をヒントに提案した演出。音と色のシンクロニシティが、観客を魅了する。
そのとき、わたしのこめかみに痛みが走った。集中のし過ぎだろうか。こちらを見た晴夏が、微かに眉をひそめる。指が迷うように鍵盤を滑り、リズムが一瞬揺れる。色が滲む。かすかな違和感。観客にはわからないだろう。すぐに立て直したわたしたちは、再び音と色に没入していく。
フォルテッシモの旋律が会場を包む。最後のフレーズを、バーン・レッドの流線型に変えて、パフォーマンスは幕を閉じた。立ち上がって拍手と声を送る観客の反応が、成功を物語っていた。
どちらからともなくハイタッチをする。
「美穂と音楽作れるようになって、ほんとによかった」
ステージの上に、本日演奏した曲数分、6枚のキャンバスがそれぞれの魅力を湛えて並べられていた。
ステージを降りると、広告会社の営業が満足そうに「最高でした! 次のプロジェクトもぜひお願いしたいですね」と話しかけてきた。
歓声は、まだ黄金色に響いている。
◇
わたしと晴夏は、リビングで次のイベントの企画を練っていた。
窓の外は薄暗く、街灯が灯り始めている。晴夏はピアノの前に、わたしはフローリングに座っている。それぞれに楽譜とタブレットを広げ、音楽と絵をどう組み合わせるかを話し合っていた。
「もう少し柔らかい世界観がいいと思うんだよね」
わたしは提案する。次は、有名な歌い手を起用することになっている。彼の中性的な声の魅力を引き出したい。
「淡いピンクとブルーでおとぎ話の世界みたいな……」
晴夏は鍵盤を鳴らし、少し間をおいてから、柔らかな笑顔を浮かべた。
「うん、方向見えた気がする」
彼女はわたしの提案にぴったりのフレーズを鳴らした。いつだって最短距離で、わたしたちはインピーションを与え合うことができる。
嬉しくなり、彼女の肩にもたれかかる。
「ね、新曲はつくらないの? もちろん前の曲も最高なんだけど」
「……ちょっと待っててね! すごいのつくるよ」
「楽しみ!」
晴夏は、じっとわたしの顔を見つめた。「あのさ」
「ごめん、一瞬」
わたしは、唐突にインスピレーションが湧きタブレットに落としこむ。
「――そろそろ夕飯にしようか。頑張りすぎもよくないからね」
晴夏の声はやさしい。もうそんな時間か。過剰に集中しがちなわたしをよく見て、バランスを取ってくれるのも好きなところだ。
「久しぶりにシチューでも作ろうか。晴夏が好きな、野菜いっぱいのやつ」
「一緒につくろう」
晴夏はにっこりと笑って、キッチンへ立ち上がる。わたしたちの日常はこんな風に、創作と生活が溶け合うリズムでできていて、心地よかった。
包丁の音と野菜を切るリズムが、幸せなトイ・イエローを描く。この色のイメージ、新しいMVに使えるかも――そんなワクワク感を感じていた。そうだ、そろそろ二人をユニットにして名前をつけてもよいかも。あの広告会社の営業に相談してみようか。
彼女の横顔は穏やかだ。シチューが煮込まれるぐつぐつという音が、おいしそうなリヨン・ベージュになり部屋を満たしていく。
◇
晴夏が救急車で運ばれたと連絡を受けたとき、何かの間違いだと思った。
わたしは大学で講義を受けていた。それは久しぶりに、一人の時間が長い日だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます