第4話
予備校の先生が、いかにわたしの色彩構成が斬新かを生徒たちへ語っている。
「美穂さんは、殻を破りましたね」
美大の入試課題を意識した習作。描くとき、わたしは脳内に生まれる色を、素直に出力するだけでよかった。作品は教室の中央に置かれ、予備校生たちの視線を独占した。嫉妬は、受ける側になると、こそばゆく、こっそり嬉しかった。
この話をすると、晴夏も自分のことのように喜んでくれた。
ピアノ椅子に二人で座りながら、今日も、お互いの創作がはかどる。色とりどりのスケッチブックの上に、音符に満ちた楽譜が重なっていく。
季節はすっかり冬になっていた。
わたしたちは旧校舎の音楽室に、こっそり小さなストーブを持ち込んだ。息は白い。
雪は、わたしたちをいっそう二人の世界に閉じ込めた。
掲示板の前に、人だかりができている。
「おめでとう! ダブル受賞! 3年A組 野口美穂さん 3年C組 月城晴夏さん」。太いペンで書かれた模造紙が、掲示板に画鋲で留められていた。となりに、絵画コンクール受賞と、作曲賞受賞の新聞記事の切り抜きが並んでいる。
ドヤ顔に見えないように表情を整えながら記事を見上げる。好奇の視線を感じる。不意に、頭の中に色が飛び込んできた。人だかりの向こうに、イヤホンをした晴夏が見える。彼女は、イヤホンを外し、小走りで駆け寄ってくる。
耳元で、やったね、と晴夏はささやく。♩♪♪。やったよ。二人の頭の中を多幸感あふれるカーマイン・レッドが満ちた。
◇
全校集会で三度目の表彰がされた夏、わたしへのいじめがはじまった。
ショート動画の上で、スケッチブックが乱暴にめくられている。非現実的にデフォルメされた、土色の半獣――人の上半身と牛の下半身――の絵が大写しになり、「キモくない?」という太字ゴシックのキャプションでついていた。晴夏が弾いたドビュッシーからヒントを得た絵だった。
隠される上履き。水浸しになる教科書。調子のってんなよ、と言われながら押される肩の痛み。特に、スケッチブックが奪われて、わたしの絵が動画でいじられたのはきつかった。これからはこの作品を見るたびトラウマが蘇るのだ、という絶望。
目立ちすぎてしまったのだ。キャラクターやスクールカーストに似合わないほどに。
晴夏にしがみついて、胸の中で泣いた。彼女は、何も聞かないで抱きしめていてくれた。ぽつぽつと話し出すと、優しく聴いてくれた。
「学校やめたい」
わたしの弱音は、共々感覚を通して、とげとげしいスチーム・ブラックを滲ませる。
「どうしてもつらかったら、やめてもいいと思う。けど、推薦で美大に行きたいって言ってたよね。美穂に後悔してほしくない。だから、ちょっと休むのはどうかな」
……ぐす。鼻をすする音が恥ずかしい。
「それに、学校やめたら、会える場所減っちゃうじゃん」
そう言って、晴夏はハンカチで涙を拭う。いつの間にか、彼女は黒鍵に指を載せるみたいに、わたしの手にやさしく指を重ねていた。
わたしは、毎日登校した。歯を食いしばり、放課後のことだけを考えて授業に出た。放課後になれば晴夏に会える。一人でいるときも背筋を伸ばした。晴夏の姿勢を思い出しながら。
昼休みは、旧校舎の音楽室で晴夏と弁当を食べるようになった。ますます、わたしは晴夏といるようになった。
「……嫌なことがあったとき、晴夏はどうしてる?」
「わたしだったら、書くかなあ」
「書く?」
「汚い言葉を殴り書きしたらすっきりするじゃん。ばーっと」
「晴夏が汚い言葉考えるとか想像できない」
「えー? わたしも考えるよ、クソとかゴミとか」
そう言って、晴夏は美しい顔で笑った。
このところ、話す時間よりも、黙って絵を描く時間や、曲を奏でる時間が増えた気がする。尊い時間。
灰色の学校生活は、晴夏と分かち合う鮮やかな色が上書きしていった。
その頃のわたしは、推薦入試を受けるために、必死だった。
ひとつには、晴夏と同じ美大にどうしても行きたかったから。
もうひとつには、共々感覚なしで受けることが怖かったから。実技試験がある大学の試験会場5m以内に彼女がいることは、もちろん難しかった。
だから、推薦入試を受けられることになったときは、嬉しかった。高校生後半のコンテスト受賞歴が助けてくれたのだ。けれど同時に、わたしは不安だった。実技試験はなくとも面接がある。もともと話すのは下手だし、最近はますますおどおどするようになってしまった。
「ちゃんと伝わるし、熱意も感じるし、全然問題ない!」
面接の練習に付き合ってくれた晴夏は、断言してくれた。強張ったわたしの拳を包み込む。こういうのにまだ慣れなくて、頬が熱くなる。
「もう一回だけ自己紹介してみていい?」
「心配しすぎ。大丈夫だよ」
彼女がそういうと、大丈夫かも、という気がしてきた。自己紹介の練習はそのあと十回くらいしてしまったのだけれど。
試験前夜、わたしは眠れなかった。
あいつらから投げつけられた、しゃべり方キモいから受かるわけない、という言葉が頭から消えない。
「おやすみ。明日はいつも通りで!」と可愛いスタンプと一緒に送ってくれた晴夏のメッセージを、布団にくるまって何度も見る。
迷惑だろうか、そう逡巡したあとに送った弱音は、すぐに既読になった。
少しあとに突然、いつもの青が頭のなかにゆらめいた。彼女を人混みの中から見つける目印の、モルディブ・ブルー。
急いで窓を開けると、イヤホンに手をかけながら自転車から手を振る晴夏がいた。
青が、応援旗のようにわたしの中ではためいた。
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