第2話

 暗くなるまでこの力を二人で調べた。

 二人きりの音楽室で、色といっしょに心まで混ざり出していくみたいに感じた。

 

 晴夏とは嬉しいことに帰る方向が一緒だった。夕暮れの残滓が残る街を、並んで歩いた。

「これ、共々感覚って呼ぼう」

 晴夏は言った。

「きょうきょう……かんかく?」

「共感覚って知ってる?」

「うん……確か、文字が色になったり、匂いが音になったりする感覚でしょ」

「そう」

「でも共感覚って、一人の中での話だよね」

「うん。わたしたちの場合、共感覚がテレパシーになる。わたしが聴いた音が色になって二人に見える。だから、共有する共感覚、共々感覚」

「共々感覚。なるほど」

 わたしは、耳慣れない言葉の響きを確かめるように口にした。


「ググっても全然情報ないね」

 晴夏はスマホの上で手をすべらせている。「共感覚/テレパシー/音/色……色々組み合わせて検索しても出てこないね」


 私の方は、共感覚というワードに絞って検索してみた。

「へー、宮沢賢治、ダ・ヴィンチ、カディンスキー……って、共感覚持ってたんだ」

「だね、共感覚はずいぶん研究されてるみたい」

 晴夏は、難しそうな大学のサイトを熱心にスクロールしている。「ただ、人にテレパシーで伝わったりはしてないね」


「この現象ってわたしたちだけ、なのかな」

「そうみたい、大発見かも!」

「気になるけど……誰にも言わないでおく?」

「実験台にされちゃうもんね! ヤバい研究者に!」

 晴夏は、いたずらっぽく笑う。わたしも笑いながら、音楽室での試行錯誤を思い返す。

「もっと二人で……共々感覚? のこと知らなきゃ」

「うん、一緒に調べようね!」

 彼女は、どこかうきうきした様子で言った。


 振り返ると、まだこちらを見ている晴夏と目が合った。

 すれ違う乗用車のヘッドライトが彼女を照らし、シルエットが浮かび上がった。長い髪が夜の街にたなびく。高い腰の位置が、足の長さを強調する。彼女は完璧だ、と思った。彼女は、また大きく手を振った。


 玄関でローファーを脱ぎ捨て、階段を駆け上った。実は、今日頭のなかに湧き上がった色を描きたくて、うずうずしていたのだ。

 しかし、部屋のペンタブレットを前にしても、記憶のなかの色彩は薄れ、うまく再現することができなかった。

 晴夏の隣にいるときは、あれほど鮮明だったのに。


          ◇


 放課後を告げる鐘が鳴ると、わたしは早々に旧校舎の音楽室に向かった。晴夏は、わたしのすぐ後に、弾むような足取りで音楽室へ入ってきた。


「今日も実験しよう!」

 晴夏はピアノの前に座ると、好奇心に満ちた瞳で言った。鍵盤を三つ押さえて、授業開始チャイムの和音を叩く。頭の中に、トリコロールの三色が浮かんだ。

「どのくらい近づいたら色が浮かぶのか、調べてみよう」

 晴夏は用意周到に通学バッグの中から巻き尺を取り出して、微笑んだ。わざわざ家から持ってきたらしい。

「はじっこ持つね」わたしは巻き尺の片側を伸ばし、音楽室の端へと進んだ。


 晴夏がピアノを鳴らす。「色、見えた?」

「うん、黄色。いま三メートル二十センチ」

 音を見ながら、少しずつ下がっていく。廊下の窓際まで下がると、ふっと色が頭から消えた。晴夏を見ると、ぽーんぽーんと鍵盤を叩き続けていた。音が無色で鳴っているのが、妙に空虚に感じた。

「見えなくなった!」

「わたしも!」

「五メートル!」わたしは空白感を打ち消すように、大きな声で言った。


 わたしたちは、共々感覚のルールを理解していった。晴夏が聴いた音が色になって届くのは、五メートル以内。それより離れると、晴夏もわたしも色が見えなくなる。つまり、わたしが五メートル以内にいることが、共々感覚のトリガーになる。


「一緒にいなきゃだね!」

 晴夏は、ピアノから立ち上がり、わたしに端正な笑顔を寄せた。わたしは思わず身を固くする。晴夏は気づくそぶりもなく尋ねた。

「次の実験は……どうしよっか」

「——試したいことがあるの!」

 わたしは晴夏へと被せ気味に、早口でしゃべった。あわててバッグからスケッチブックと、色鉛筆を取り出す。


「描いてみたい」

 晴夏は、一瞬ぽかんとした後、思い至った顔で「だよね!」と笑った。


 晴夏が弾くピアノ曲に合わせて、わたしは色鉛筆を滑らせた。赤が溢れ、すぐ青が追いかけて弾けて、また赤が押し寄せてきて——脳内の色を追いかけるのに必死だった。

「この曲は、『ユーモレスク』って曲だよ。ドヴォルザークが、アメリカから故郷のヨーロッパへ帰るとき見た光景を表現した曲」

 情景が、衝動とともに浮かび上がる。色鉛筆をすばやく持ち変え、次々に色彩を重ねる。おぼろげだった輪郭が、次第に形を成していく。


 わたしがインスピレーションのまま描き上げたのは、蒸気船が煙をあげながら、大海原を航行する絵だった。蒸気船はリッチ・レッドで、煙はロスト・ブルーで、海はフォックス・イエロー。描いているときは疑問に思わなかったが、現実離れした色使いだ。不思議なことに、それが「正解」だとわたしには確信が持てた。


 晴夏は、興味深そうにスケッチブックをのぞきこんだ。

「——めっちゃいい感じ」

「そうかな? ……そうかも」

「センスいい」

「ありがとう。見えた色、っていうかモチーフ? 風景? をあわてて描いたんだけど」

「絵にできるのが、すごいよ」

「共々感覚……って」


「「ヤバい!」」


 わたしと晴夏は顔を見合わせた。



 朝の人混みの中で、晴夏を見つけるのは簡単だ。

 色が聴こえたとき、彼女は近くにいる。晴夏は一人のとき、決まってワイヤレス・イヤホンで音楽を聴いていた。聴こえる色はモルディブ・ブルーのときが多くて、今日もそう。きっと、晴夏のお気に入りの曲の色なのだと思う。


 わたしが小さな力で肩を叩くと、クールビューティな顔が一変して、ぱっと笑顔が弾けた。

「おはよう!」

 晴夏がイヤホンを外すとき、長い髪の間から耳がこぼれた。この小さな耳と、わたしがつながっている。そう思いながら、まじまじと耳を見てしまう。晴夏は不思議そうに首をかしげた。ごまかすようにわたしは朝の挨拶を返した。「おはよう!」


 なんとなく、彼女のちょっと後ろを歩く。平凡な容姿のわたしが、晴夏と並んだら変だと思われてしまうんじゃないか。そんな気がして。

 晴夏は、ふっと歩くテンポをゆるめた。すぐ隣で、彼女はさっきから変わらず好きな動物の話をしている。染まった頬がバレそうで焦る。晴夏の吐く白い息が、熱を帯びたわたしの頬をくすぐったく撫でた。


 教室の前で、じゃあ放課後、と言うと、待ち遠しいね、と返してくれた。

 いつの間にか、わたしには放課後までの時間がとても長く感じられるようになっていた。

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