あなたが聴いた色
形霧燈
第1話
青が、響いた。
晴夏の指先が、コバルト・ブルーを奏でる。オクターブの一つ上で、インディゴ・ブルーが重なる。
わたしは、押し寄せる波を描き始めた。
◇
高校二年の秋、キャンバスの前でわたしは濁っていた。
この色でよいのだろうか。確信が持てない。絵の具をまとった穂先を見つめる。
——オリジナリティ。驚き。自分らしさ。予備校講師や美術教師に言われた言葉が去来する。
ためらいがちに下書きに塗り重ねていく。しばらくして、やはり色を間違っていたことに気づく。できあがっていくのは、ありふれた静物画だ。たしかに、果物や花瓶をそれなりに写しとってはいるだろう。だが、それだけだった。芸術である意味がない。
絵筆を置いた。放課後の美術室に、ため息が思ったより響き、部員たちを振り向かせてしまう。顔が熱くなって、うつむいた。
「美穂は絵がほんと上手ね」と頭を撫でる母の手を思い出す。
幼い頃から、絵を褒められることは多かった。特に小学五年生のとき、風景画が県で特選をもらったことは大きな出来事だった。自転車が走る、早朝の田園風景。稲穂を描くための黄金色の選択に、手応えを感じていた。一度だけ行った遠方の親戚の家の秋を想像して描いたものだ。県民ホールの壇上に飾られた絵を見上げて喜ぶ母の顔が、誇らしかった。
「美穂は画家さんになれるよ」
あの頃は、絵を描くのが純粋に楽しかった。
けれど成長するにつれて、褒められることが減り、アドバイスを受けることが増えた。もっとオリジナリティを出したら? 自分らしさを出したら? 真面目、という言葉は褒め言葉じゃないと知った。
高校では美術部に入った。二年から美術予備校に通うようになると、自分にアーティストとして大切なものが欠如していることを痛感した。予備校講師が口を滑らせた「色彩センスが凡庸」という言葉が、忘れられない。
コンクールの受賞作と、自分の落選作を比べるたび、うまく息ができなくなった。
将来を期待していた母の言葉は、呪いになった。
わたしには、「上手に逸脱する」方法が分からない。前衛的な画家たちを研究しても、出来の悪い模倣品が生まれただけだった。どうしてマティスは緑で顔を、どうしてモネは黄色で池を塗れたのか。
現代美術の旗手たちにも、芸大に合格した予備校の先輩たちにも、魅力的な破綻があるように見えた。それがわたしにもあったなら——。
わたしは行き詰まっていた。晴夏と出会ったのは、その秋だった。
描きかけのキャンバスを振り返らず、わたしはそっと立ち上がる。美術室で描くことを諦め、外へスケッチに行くことにした。旧校舎の裏手に、紅葉したもみじの林があったはず。描けなくてもいい。わたしは部員たちと離れ、ひとりになりたかった。
渡り廊下を歩くと、涼やかな秋風が頬を撫でた。遠くで運動部の笑い声がしていた。少し前に使われなくなった旧校舎に入ると、埃が舞う匂いがした。五年前の日付のポスターに止まった時間を感じる。視聴覚室の重い扉や、理科実験室の古びた器具たちを横目に通り過ぎると、音楽室が見えてきた。音楽室の先に、裏手への扉があったはず。
そのとき、ピアノの音が聞こえてきた。どこかで聞いたことがある曲——次の瞬間、わたしは衝撃に打たれた。
頭の中が、色で満たされたからだ。
赤、青、緑、紫。まるで色の洪水。鮮やかな色が脳内で弾けて、思考が飲み込まれる。視覚より直接的な感覚。
ビビッド・グレープが鮮烈に広がる。ハーモニーが乗ると、レディース・ピンクと絡み合う。ピンクが紫を包み込むように溶け合い、一気に転調。パーマネント・グリーンが弧を描き、マゼンタが一方を補って、円環が膨らんでいく。
旋律が、次々に色へ変わる。直に触れられるような生々しさで、頭の中を支配する。
目を閉じると、色彩の奔流で世界が埋まった。まっすぐ歩けない。目眩がする。
旋律が駆け上がっていく。赤から紫から青から緑へ。虹のグラデーションを描きながら、わたしをどこかへ連れ去るようだ。
思わず音楽室の扉に手をついた。すると扉があっさりと開くと同時に、音が止んだ。
色が消えた。世界が静寂に包まれる。
目を開けると、そこには美しい少女がいた。
背中まで伸びた艶やかな髪が、かすかに揺れている。グランドピアノの前に座り、凛とした姿勢でわたしを見つめている。大きな瞳が、不思議そうに瞬いていた。
「いまの色——何?」
彼女は、わたしが言おうとしたセリフを言った。
「え? あなたも?」
聞き返したわたしの声は少し裏返っていた。
「ピアノを弾いてたら、急に音が色になって、頭に流れ込んで。綺麗でやめられなくて」
「そうそう、なんか、絵の具垂れ流し? って感じで」
まだ動揺しているわたしの話し方は下手だ。初対面にふさわしくない。
「そうなの、どばーって感じ!」
彼女は清楚な見た目に似合わず、あはは、と大きな口を開けて笑った。その顔を見て、この人はいい人だと思った。
「でも、めっちゃきれいでした、あ、色もだけど……ピアノの方がもっと」
「ふふ、ありがとう」
「わたし、おかしくなっちゃったかと思った」
彼女につられ、つい気安くなってしまう。
「あなたも頭のなかで色が見えたってことだよね?」
「うん」
「ちょっと試してみていい?」そう言って彼女は、鍵盤の一つをそっと押した。
「「赤」」
わたしたちは、同時に声を上げた。
「「青!」」……「「緑!」」
わたしたちは、顔を見合わせて、いつの間にか笑っていた。
日焼けしたカーテンの隙間から、色づき始めたもみじが見えた。午後の太陽が雲間から顔をのぞかせて、整った横顔を浮かび上がらせた。
彼女は、鍵盤から指を離して、澄んだ瞳でわたしを見た。
「わたし、晴夏。あなたは?」
「わたしは、美穂、野口美穂。二年生」
「わたしも二年だよ」
「晴夏さん、ピアノ、うまいね」
わたしは美人と話すのが下手だけど、と心の中でひとり言う。距離感がバグっているのでは、と不安になる。
「晴夏でいいよ。ありがとう! ——ずっとピアノやってて。美穂は、絵?」
と、晴夏はわたしのスケッチブックを指差して尋ねた。
「わたしは美術部で。裏の林、スケッチしに来たんだ」
「わたし美術も好き!」彼女は目をキラキラとさせた。「見せて」
晴夏が、おそるおそる手渡したスケッチブックをパラパラめくる。なんだか緊張する。
「この絵なら、こんな音楽? あ、こうかな?」
それは、彼女が細い指で、探るようにいくつかの鍵盤を押さえた。
ピアノに合わせて、脳内にチェスナット・ブラウンが舞った。その色は、わたしが描いた、茶虎の飼い猫の色だった。
雲間から太陽が差し込み、二人の影が踊るように揺れた。
わたしたちは夢中になって、音から二人が同時に見える色のことを調べ始めた。
彼女は自分の耳を入念にふさぎ、わたしは言われるままに小さく鍵盤を押した。色が浮かばない。次に、わたしは自分の耳をふさいで、晴夏は鍵盤を鳴らした。色が浮かぶ。
「わたしが聴いた音が、二人が見える色になるってことみたいだね」
晴夏は言った。現象は、何度試しても、再現性があった。
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