第19話 見えない後見
エドワードの自室に侍女長がやって来たのは、寝間着に着替え終え、休もうとした時だった。
側で世話をする従僕や侍女が誰もいなくなった途端にやって来たということは、エドワードが一人きりになるタイミングを見計らって来たということなのだろう。
白髪をキリと結い上げた年嵩の侍女長は、背に棒が入っているのかと思うようにピンと背筋を伸ばし、静かにエドワードの側に立った。
「何の用だ」
上掛けを羽織り、明らかに面倒くさそうにエドワードが言った。
このタイミングで侍女長が部屋に来るのは、十中八九……、いや、確実に小言を言いに来たのだ。
過去に何度も経験したことのあるエドワードは、既に煩わしいという気持ちが顔に表れていたが、その顔を見られないように侍女長からは逸らしていた。
「これを」
侍女長が静かに側に寄り、エドワードに細い竹棒を差し出した。
それは、侍女従僕やメイド達が過ちを犯した際に、侍女長が罰を与える為の物で、肌を
エドワードは横目に見て、更に顔を歪めた。
その棒は今日、彼自身が握り、アントニーの専属侍女に罰を与えるために使った。
おそらく侍女長は、エドワードがその棒を侍女に取りに行かせ、勝手に
本来なら、使用人を罰するのは侍女長、又は女主人である領主奥方の役割で、他の領主一家の誰かが直接罰することはないのだから。
しかし侍女長は、エドワードの予想に反して、その棒を彼に手渡した。
「私にも罰を」
「……なんだと?」
「エドワード様が直々に罰を与えなければならないようなことを侍女が行ったというのなら、それは侍女を管理する私の監督不行き届きです。私にも罰を」
そう言って侍女長は、足首まで隠す黒茶の重々しいスカートを持ち上げる。
年相応のハリツヤのない肌が見えて、エドワードはギョッとして、侍女長の手を取った。
スカートを離した手に、棒を押し付ける。
「必要ない! あの侍女を罰するだけで事は収まった」
「いいえ、収まってはおりません。物事には道理というものがございます。エドワード様が直接手を出される程の事であれば、それは
再び差し出された棒と、少しも様子を変えない侍女長に怯み、エドワードは数歩下がった。
そのまま項垂れるようにして、ベッドに腰掛ける。
「…………もういい。本当は私が罰するべきではなかったと諌めに来たのだろう?」
エドワードはうんざりしたように言った。
今日の顛末は詳しく侍女長の耳に入っていて、その中には、姉であるクラウディアが彼に向けて放った言葉も含まれるはずだ。
つまりは、侍女長も姉と同様に、エドワードが傲慢だと感じているのだろうと思ったのだ。
しかし、侍女長はピンと背筋を伸ばしたまま、表情を変えず首を振った。
「いいえ、エドワード様。クラウディア様が仰ったことも間違いではございません。しかしながら、エドワード様は未成人であっても貴族の令息。使用人よりも身分の高い人間であることも確かなこと。身分の高いものが、身分の低い者を自由にする……この国でそれが許されているのも、間違いないことなのです」
エドワードは、驚いて瞬いた。
侍女長は執事と並ぶ使用人の
だから今回のことでも、使用人達の肩を持つと思ったのに。
「しかしながら」
侍女長は一拍置いて、スと一歩近寄る。
「身分の低い者にも、身分の高い者と同じように感情もあれば矜持もございます。ゆめゆめ、それはお忘れなきように」
「……わけが分からない。結局、私がしたことを認めているのか、それとも咎めたいのか?」
困惑気味に睨んだエドワードを、侍女長は見下ろした。
「さあ、どちらでございましょうか。それもまた、ご自分でよくよくお考えなさいませ」
その言葉を聞いて、エドワードは苦虫を噛み潰したような表情になった。
『ご自分でよくよくお考えなさいませ』
それは、エドワードが幼い頃、よく言われた言葉だ。
侍女長は、エドワードが三歳になって初めて付けられた専属侍女だった。
彼女が侍女長に就く前のことだ。
エドワードは長男である為、幼い頃から、領主の跡継ぎとなるべく教育された。
その生活を滞りなく補佐する為に、領主一族や貴族のことをよく知るベテランの彼女を付けられたのだ。
エドワードは、元々何でも真面目に取り組む子供だった為、その年代らしい遊びもそこそこに、周りからの期待に応えてきた。
その頃、彼が何かに躓いたり、悩んだりする度に、側で見守る
『ご自分でよくよくお考えなさいませ』、と……。
「……お前は相変わらず、そうやって突き放すのだな」
「坊ちゃま」
「その呼び方はやめろ。もう子供じゃない」
固く返す彼の声は低く、確かに、側で仕えた幼い彼は、もういないのだった。
侍女長は、侍女長と執事に与えられている執務部屋へ戻る為に、廊下を歩く。
姿勢よく、衣擦れ以外の音がしない歩き方は、彼女の得意とするものだ。
「冬が寒いから動かなくなるなら、
侍女達の控え室の側を通る時、聞こえてきた会話に、侍女長は廊下で足を止める。
アントニーの専属侍女コリーの声だ。
アントニーは既に就寝したので、こちらに戻って来て、他の侍女達とお喋りしているのだろう。
「え〜? アントニー坊ちゃま、ダンゴムシを館内に連れてきちゃうつもりなの!?」
「うん、だからさ、『見付けた子だけ連れて来たら、仲間や家族が離れ離れになると思いますけど、どうします?』って聞いたの」
「うん、それで?」
「それはかわいそうだがら、家族ごと連れてきてやればいいんじゃないかって言うから、『まとまって一緒にいるとは限らないから、どの子が家族か分かりませんよ』って答えたら、悩んじゃって。それからもう三日も悩んでるわ」
侍女達の笑い声が漏れる。
「コリーったら、坊ちゃまがずーっと悩み続けたらどうする気?」
「その時は、一緒に悩めばいいんじゃない?」
「それでダンゴムシを部屋に持ち込むことに決めたら?」
「手伝うわよ?」
「えー!?」と侍女達が声を上げたので、コリーは笑う。
「だって、一生懸命考えて出した答えなら、まずはそれを受け入れなきゃでしょ」
侍女長はそっとその場を離れて、廊下を進む。
エドワードの専属侍女として側についた時、何かしら躓いて悩むことが多かった彼に、侍女長は常によく考えるよう求めた。
『ご自分でよくよくお考えなさいませ』
自分の頭でよく考えろ、とは、目の前の事柄について、自分の意見を持てということだ。
それは人の上に立つ者として、必ず必要になるであろう
しかし、寄り添ってはいただろうか……。
侍女達の笑い声が、後ろから廊下に響く。
歩く侍女長の脹脛に、痛みはない。
結局、どう言い含めても、エドワードは侍女長の脹脛を叩かなかった。
それは彼が、ただ闇雲に使用人を力で抑えつけようとするわけでも、場当たり的に事を収めようとする人間でもないことを示している。
侍女長は、ほ、と一度だけ柔らかな息を吐いた。
エドワードが使用人に手を上げたのは、今回が初めてだ。
今回のことが発端となり、暴力的な衝動を抑えられなくなるのか、自己を律する
彼は大人になる前の、一番不安定な時期なのだ。
侍女長は軽く首を振り、足下に下がっていた目線をくっと上げた。
侍女長となった今、見守り、補佐するべきはエドワードだけではない。
例えその胸に、幼いエドワードの姿が残っていても……。
彼女はいつものピンとした姿勢で、執務部屋へ入って行った。
《 見えない後見/終 》
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