第14話 小さな勇気を

領主の第四子であるアントニーは、建物の外壁に沿って、抜き足差し足で進む。

別館に向かうメイド達が歩いて来る気配を感じて、サッと低い垣根の側にしゃがんだ。

気付かれずにやり過ごし、ふぅと息を吐いて、またそっと足を踏み出した。


今、アントニーは、たった一人で隠密行動中なのだ。

角を曲がれば厨房の裏口が見えるはずで、そこから厨房の中を覗くつもりだった。

厨房では今頃、夕食のデザートに出されるアップルパイを焼いているはずで、アントニーはそれが見てみたくて、こっそりと出てきたのだ。



アントニーは、厨房という場所が大好きだ。

正確に言えば、厨房だけでなく、洗濯室も、庭師小屋も、石炭小屋だって好きだ。

領主一家自分達が滅多に近寄れない場所で、使用人達が仕事をするのを見るのは楽しい。

そこで行われることや使われる道具は、アントニーが自分から近寄っていかなければ、見ることが叶わないものばかりなのだ。


アントニーは、何でも知りたい。

自分の周りの不思議なことが、知りたくて堪らない。

そして、知りたいと思ったら、じっとしてはいられないたちなのだ。


もっとも、洗濯室は賑やかおしゃべりで目敏いメイド達にすぐ見つかってしまうし、石炭小屋はいつも鍵が掛かっているので、滅多に覗けない。

そういうわけで、アントニーがこっそり覗きに行くことが多いのは、庭師小屋と厨房というわけだった。




厨房の裏には、今は誰もいなかった。

よく下女達が芋の皮剥きをしているが、小さな椅子が折り畳まれて軒下に置いてあるので、今日の分はもう終わったのかもしれない。


アントニーは、そうっと、そうっと、窓際に近付く。


「な〜にしてるんですか、坊ちゃま」

「わぁ…っ、んん……!?」


とつぜん後ろから耳元に囁かれて、文字通り飛び上がりかけたアントニーは、その声の主に口を押さえられて、精一杯視線を後ろに向ける。

侍女のコリーが、「しー!」と人差し指を口の前に立てた。

驚いて目をまん丸にすると、コリーはニヤリと笑う。


「見つかっちゃいますからね、声を出しちゃいけませんよ?」


こくこくと小さく頷けば、コリーは満足そうに手を離す。

そのままアントニーと共に壁際へ進んで、身体を縮こまらせた。



コリーはアントニーの専属侍女だ。


専属侍女は、一日を通して主の側に付いて世話をするが、付きっきりというわけではない。

三回の食事の時間は、給仕が食事の世話をするので、離れて自分達の食事をして休憩するし、他に用がある時や、勿論お手洗いへ行く時だって離れることになる。


今は、ちょうどコリーが洗濯室へ行く用があり、代わりに他の侍女がアントニーに付いていた。

そして、アントニーは侍女の隙を見つけて、姿を消すのが得意なのだった。



誰にも見つかっていないことを確認して、コリーはアントニーに顔を寄せる。


「坊ちゃま、こっそり抜け出して来ましたね? 今頃、側に付いた侍女は真っ青になってますよ」


ククと楽しそうにコリーが笑うので、てっきり叱られると思っていたアントニーは濃い空色の瞳を瞬いた。


「コリーは、僕を探しに来たんじゃないの?」

「違いますよ。用事がが終わってこっそりここに来たら、坊ちゃまがいたんです」


洗濯室での用事はもう終わっている。

本来なら、すぐにでもアントニーの下に戻らなければならないが、コリーは戻らずにここに寄り道しに来たのだ。


要は、サボりだ。


「こっそりって、どうして?」

「あれが欲しくて」

「“あれ”?」

「ええ。昼に食べたんですけど、もう一回食べたくて」


コリーは頭上の窓から、そっと中を覗く。

この窓は、厨房の隣にある広間に位置する。

広間は、使用人達が賄いを食べたり休憩したりする場所だが、昼をだいぶ過ぎた今は、数人の使用人達が遅い昼食を摂っているだけだった。

テーブルの上には、普段は置かれていないバスケットがあり、コリーが指差したのはそれだった。


「あ、ちょうどいいところに、ちょうどいい奴がいる」


企んだようにコリーが呟いて、コンと窓を叩いた。

窓際に座っていた従僕のお仕着せの男が、その音に気付いて振り返り、目から上だけを覗かせているコリーを見つけて苦笑した。

彼はガタと椅子を近付けて、窓を空かす。


コリーお前、ま〜た何やってんの」

「いいから、いいから! カイ、あれ取って!」


コリーがバスケットを指差すと、カイと呼ばれた従僕は童顔の唇を一瞬尖らせたが、言われた通りバスケットを取って渡した。

受け取ったバスケットには、アントニーの小指程の長さの、細い棒状の菓子が入っていた。


「これ何?」

「スティックパイですよ」

「!? アントニー坊ちゃ……っ!」


窓の下にアントニーが一緒にいることに気付き、カイが声を上げそうになると、コリーとアントニーは同時に人差し指を口に当てた。

何とか言葉を飲み込んだカイは、同じポーズの二人を見て眉根を寄せる。

二人はどう見ても、こっそりここへ忍んでやって来たのだ。


「坊ちゃままで連れて来てんのかよ!」


カイが窓枠に身体を付けて小声で聞けば、コリーは悪びれもせずにパイを摘んで言う。


「私が連れて来たわけじゃないも〜ん」

「そうだよ! 僕が勝手に来て、偶然コリーと会ったんだよ」

「そうゆうこと」

「“そうゆうこと”って、どういうことだよ……」


顔をしかめたカイを無視し、コリーはパクリとパイを一本口に咥えた。

そして、アントニーの口元にも一本持って行く。

こんな風に外で食べたことはなく、アントニーはドキドキして口を開いた。


コリーが口に入れてくれたのは、細く捻って香ばしく焼いたパイ生地で、赤いパプリカパウダーが振ってあり、チーズの塩気が程良くて後を引く。

塩辛いパイ菓子は初めてで、アントニーは口を動かしながら目を輝かせた。


「美味しい! 甘くないお菓子もあるんだね」

「でしょう? 円形のパイ皿でパイを焼く時に、決まって切り落とした生地でマルタンが作ってくれるんですよ」


マルタンは、製菓担当料理人の一人だ。

得意気に言ったコリーを睨むカイの口にも、コリーは笑ってパイを一本突っ込んだ。


「はい、これでアンタも共犯ね〜」

「はぁ、なんで!?」

「食べたでしょ」

「お前が突っ込んだの!」


二人の流れるような遣り取りを、ぽかんと見ていたアントニーが言った。


「……兄妹みたい」

「幼馴染なんで、兄妹みたいなもんですね」

「よして下さい、こんなの妹なんかじゃありませんよ」


二人が同時に言って、軽く睨み合う。

アントニーは噴き出した。

そして、ひとしきり笑った後、笑みを薄くしてポツリと呟く。


「……僕も姉様達とそんな風に出来たらいいのに」


その言葉に、コリーとカイは顔を見合わせた。



アントニーには、姉兄がいる。

領主の五人の子供達の内、長女のクラウディア十五歳、長男のエドワード十四歳、次男アルベリヒ十二歳の三人だ。

三人はそれぞれ十一歳から寄宿学校に入っていて、普段は領主館にいない。

夏と冬の長期休暇と、参加するべき行事がある時に帰郷するのみだ。


そして冬の帰郷が、まさに今日のこと。

夕方には到着し、年が明けて新学期が始まるまで、三人は領主館で過ごすことになる。

今夜は、久しぶりに家族八人揃っての夕食だ。



去年入学したアルベリヒに関しては、一緒に過ごした時間を、アントニーは少しだが覚えている。

しかし上の二人は、物心付いた頃には領主館にいなかったので、自分に近しい姉兄という印象は弱いのだった。


「僕、姉様達とどう過ごしたら良いのか分からないんだ。それに、……エドワード兄様は僕を嫌ってるんじゃないかな」


アントニーはしゅんとして、肩を落とした。

特に、歳の離れた兄エドワードは、妹のエミーリエのことは殊更に可愛がっているように見えるが、アントニー自分のことは煙たがっているように思えるのだった。



俯いてしまったアントニーのつむじを見下ろし、カイは小さく溜め息をついた。


「……エドワード様もアルベリヒ様も、別に坊ちゃまを嫌っているわけじゃないと思いますよ。ただ、なんというか、歳が離れていますから、どう接していいか分からないんじゃないですかね」

「エミーリエのことは、可愛がってるよ?」

「それは、エミーリエ様の方から懐いていってるからではないですか?」


エミーリエはほとんど人見知りしない。

末っ子特有の甘え上手で、姉兄に土産話をせがんでみたり、自分の好きなものを見せて褒めてもらったりする。

お人形のような笑顔でそんな風に側に寄るのだから、誰だって可愛がるだろう。


しかしアントニーは、侍女達に「手に負えない」と称される少年だ。

現に今も、一人で勝手に行動して、本館では彼を探して騒ぎになっているのかもしれない。

そういう彼を、ほとんど近しく接したことのない兄はどう見るだろうか……。


アントニーは少し考えてから、コリーを見上げた。


「どうしたら、仲良くなれるかな……」

「仲良くなりたいんですか?」

「…………よく、分からない。でも、姉様や兄様がどんな人達なのかは、知りたいな」


アントニーは、何でも知りたいのだ。


コリーはニコリと笑って、アントニーに目線を合わせた。


「それなら、先入観は捨ててみましょうか」

「先入観って?」

「う〜ん、この場合は嫌われてるかもって、思い込まないこと……ですかね。ほら、菓子も甘くないものだって美味しかったでしょ?」


コリーは言って、もう一本パイをアントニーの口に入れた。




アントニーは、もぐもぐと口を動かす。


兄達だけでなく、侍女達も、アントニーのことを鬱陶しく思っているのではないかと、ずっと思っていた。

「手に負えない」と言われる度、自分らしく在ってはいけないのだと言われているようで悲しかった。


でも今は、コリーがいる。

そしてカイも、今日こうやって話を聞いてくれた……。



固めに捻られたパイ生地は、砂糖を掛けて焼かれたサクサクのリーフパイとも、煮リンゴをたっぷり詰めて焼かれた食べ応えのあるアップルパイとも違う、ザクザクとした軽快な食感が楽しい。


知らないことは、こうやって自分の周りにたくさん、たくさんある。

そしてそれは、知ろうとしなければ、ずっと知らないままであることが多いのだろう。



勇気を出せば、また何か変わるだろうか。



口元に付いたパイくずを拭いてくれる手は優しい。

アントニーは、胸に小さな勇気を温めて、二人に微笑みを返したのだった。




《 小さな勇気を/終 》

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