第6話 閉じたまぶた
領主館の厨房は、いつだって一日中忙しい。
領主一家は、引退した先代を合わせて八人だが、厨房は、その八人が食事をする量を朝昼晩料理するだけではない。
この館で働く多くの人々の腹を満たす為に、それよりも更に大量の料理を作らなければならない。
それに加えて、来客の予定があれば、特別なメニューが必要になることもある。
さらに、午前と午後のお茶の時間には、子供には子供の。
大人には大人の茶菓子も必要であったりして、とにかく厨房はいつだってフル回転なのだった。
「…………また寝てる」
穀物倉庫の入口を開けた料理人のオルガは、倉庫の隅で眠っている男性に目を留めた。
木箱を立てて座り、白い調理服の首元を
オルガはカリカリと額を掻いて、そっと溜め息をつく。
領主一家の昼食、その後側近として働く文官達の昼食を出し終えて、今は厨房の隣の広間で、使用人達が順番に賄いを口にしているところだ。
ほんの僅かな休憩を挟めば、料理人達は夕食の下拵えをしながら、軽食や茶菓子の用意もしなければならない。
ベーカリー担当のオルガは、明日用の生地を仕込む為、小麦粉を取りに来た。
酵母発酵の生地には時間が掛かる。
今から仕込まなければ間に合わないのだ。
―――それなのに。
「料理長、またここで寝てるの?」
オルガの後ろから小声で言ったのは、製菓担当の料理人ハイスだ。
長身の彼は、小柄なオルガの頭の上から倉庫の中を覗き込み、苦笑いした。
「そうなの。もう、粉が取れなくて困るわ」
「まあ、この時間に眠くなるのは分かるけどね……」
料理長は、毎朝、誰よりも早く厨房に入る。
下働きの下女や下男が来た時には、既に炉に火が入って温まっているというから、相当の早さだ。
それは昼も過ぎ、賄いで腹も膨れたらまぶたも重くなるというものだろう。
以前からこの時間に、様々な場所でうたた寝の現場を目撃されてきた料理長だが、ここ最近はこの穀物倉庫が気に入ったらしい。
まあ、確かに、誰でも出入りする場所ではないし、どこか郷愁を誘う小麦の香りが充満した薄暗い空間は、スウと眠りに入るにはうってつけなのかもしれない。
「ハイスが起こしてよ」
「嫌だよ。料理長、寝起き悪いもん。オルガくらいでしょ、睨まれずに起こせるの」
じゃあ、これよろしく、と空の粉袋を渡されて、オルガは唇を歪ませた。
この時間にあちこちで寝顔を披露する料理長を、厨房の誰もが一度は起こしたことがある。
そして、その起き抜けの目付きの悪さに、次から起こすのを
私だけ睨まれないわけじゃない、と思いながら、オルガは倉庫に入る。
厨房では長年の付き合いで、料理長が光過敏症の
起こす時に、目の辺りが影になるように何かで遮っておけば、睨まれなくて済むのだ。
……けれど、それを誰かに教えたことはない。
料理長に近付いて、ああ、そうかと気付いた。
最近
別に必ずここに来る人に起こして欲しいからではないのだ。
その気付きは、オルガの胸にどことなく残念さを滲ませた。
眠る料理長の前で、オルガは立ち尽くす。
そんな風に感じては駄目。
彼は仕事仲間で、尊敬する上司。
特別に何かを感じてはいけないのだから。
不意に胸が痛んで、オルガは唇を噛んだ。
いっそ明るい光を顔に当てて、キツく睨まれてみようか。
そうすれば、こんな曖昧に期待してしまうような気分は……。
オルガの手が、無意識に料理長の顔に伸びていた。
年相応にシワのある彼の目元に、細い指先が微かに触れる。
「……阿呆。触るなんて、反則だろうが」
気がつけば、大きな身体に抱き
「起こして欲しくて待ってるのに」と低い声が耳に響いて、小さく息を呑む。
一気に思考はパンク状態だ。
夢なら覚めないで欲しいと強く閉じたまぶたは、いつ開けば良いのだろう……。
震える手から粉袋が滑り落ちた時、オルガが考えたのはそんなことだった。
《 閉じたまぶた/終 》
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます