第5話 その香りは今も
領主館には、別館に洗濯室がある。
領主一家の洋服をはじめ、入浴や洗顔に使うタオル類や寝具のカバーなど、洗濯するものは全て、侍女や従僕、メイド達によってここに運び込まれる。
領主一家は八人、しかも末の子供が三歳とあっては、毎日の洗濯物の量はなかなかのものだ。
しかし今は、領主の子供達五人の内、上から三人は寄宿学校に入っていて不在の為、八人全員揃っている時に比べれば、その量は少ない。
それで、最近の洗濯室の仕事には余裕があった。
「なんで枕までここにあるんだい?」
洗濯室を仕切る古参のメイドであるハンナが、丸太のように太い両腕を腰に当てて言った。
腕も太ければ、声もなかなかに太い。
側にいた若いメイドが、驚いて一瞬ビクリと身体を揺らした。
「それ、大旦那様のところから運ばれて来たんですよ、室長」
「大旦那様?」
大旦那様とは、前領主である老紳士のことだ。
室長と呼ばれたハンナは、洗濯物の入った籐籠を軽々持ち上げた。
実際は、洗濯室に“室長”という役職は存在していないのだが、ハンナが領主館の洗濯室を仕切って長いので、いつの間にかこの呼び名が定着しているのだった。
ハンナが持ち上げて確認すると、確かに籐籠には、“大旦那様”と札が付いている。
この洗濯室では、洗濯物が混ざって誰のものであるか分からなくならないよう、メイド達が各部屋から運んできた洗濯物を、それぞれの籠に分けて入れるようになっていた。
「なんでまた、枕本体を? 汚れでも付いたのかい?」
ハンナは籠を置いて、大きな枕に汚れがないか、表と裏を何度も返して見た。
洗濯室の若いメイド達も、横から覗き込んで言う。
「汚れって?」
「……ヨダレとか?」
「お年を召したら、口元が緩くなって?」
「あんた、大概失礼よね」
軽口を叩くメイド達を小突いて、ハンナは大きく眉を上げた。
「特に汚れてる風じゃないんだけどねぇ」
羽毛がたっぷり詰められた枕は、そう簡単には洗えない。
通常は三日に一度、外側に付けてあるカバーだけを外して洗うのが決まりだ。
シーツも同様の決まりだが、領主夫妻の寝室からは、ほぼ毎日下ろされてくる。
三歳のエミーリエのシーツも、まだおねしょが治まらないので、度々洗濯して交換だ。
結局のところ、下ろされたものは洗っておけというこということなので、理由は聞かずとも洗えば良い。
ハンナは軽く肩を竦めた。
「よく分からないけど、洗ってくれっていうなら洗うまでさ。すぐには乾かないから、カバーと一緒に客室用の枕をお出ししておいて!」
「は〜い」
メイド達は洗濯に取り掛かる。
羽毛枕は、月に二、三度陰干しと消臭作業を行うが、洗おうと思えば洗えないことはない。
ただ、経験と技術がなければ上手くは洗えない。
ハンナは作業台の上で、枕の端の縫い目を手早く解くと、羽毛専用の幅広い洗濯袋を広げ、そこに羽毛を移し替えていく。
目の細かい網状の洗濯袋は、羽毛を優しく手洗いして、解して広げ、干して乾かすまでを全て中に入れたまま行えるようになっていた。
ハンナの太い指は、長年の働きでとても皮膚が固くなっているが、動きは素早く滑らかだ。
羽毛を洗って干すまでの一連の作業を淀みなく終えると、ハンナは満足気に息を吐いてから、口端を上げる。
これを丸二日よく乾かして詰め直せば、まっさらな新品枕と変わらないはずだ。
よく日の当たる物干し場には、綺麗に洗った洗濯物が、隙間なく並んで干され、微風に揺れる。
「今日もいい仕事したねぇ」
ハンナは一人呟き、腰に手を当てて首を回す。
シミ一つない白いシーツ。
ピシリとアイロンがけされた、皺のないシャツ。
柔らかな肌触りのタオル。
汚れて洗濯室にやって来たものを、そんな風に新品同様に蘇らせ、毎日洗濯室から送り出す。
日々の地道な作業ながら、ハンナはこの仕事に大きなやり甲斐を感じているのだった。
しかし、一週間後。
シーツ類が下りてきた中に、また枕が置かれているのを見て、ハンナは強く眉根を寄せた。
籐籠の札は、またもや大旦那様の物だと教えてくれる。
「一体全体、どういうことだい?」
洗って乾燥した羽毛を詰め直し、寝室へ返したのが四日前だ。
たったの四日で、また洗えというのか。
それとも何か?
この間のは満足な仕上がりでなく、まだ汚れているだろうと言われているのか!?
両腕の袖をグイッと上げ、ハンナは鼻息を荒くする。
周囲に炎が見えるのは幻影か。
「これはアタシに対する挑戦と受け取ったね! はぁ〜ん、やってやろうじゃないの。突き返す余地もない程にピッカピカに仕上げてやろうじゃないかい!」
そんなハンナを遠巻きに見ていたメイド達は、集まって小声でささやき合った。
「ちょっと〜! 室長、なんかものすごいやる気出してるけど!?」
「ただの手違いじゃないの?」
「ちょっと私、ルイサさんに確認してくるっ」
洗濯室のメイドに呼ばれ、老紳士の専属侍女であるルイサが洗濯室に顔を出したのは、ハンナが再び枕から羽毛を取り出している最中のことだった。
彼女は片眉を上げた。
「大旦那様ご自身がこっそり出されたのね。洗う必要はないわ。消臭加工をしてちょうだい」
「消臭加工? どういうことだい?」
「大旦那様が気になさっているのは、加齢臭よ」
「加齢臭!?」
老紳士が加齢臭を気にするようになった経緯を説明され、ハンナは羽毛の付いた手で額を押さえた。
「そりゃ、アンタがとどめ刺したんじゃないか」
「大奥様の思い出を話しただけだわ」
スンと素知らぬ顔で言うルイサを、ハンナは一瞬睨めた。
ルイサは、亡くなった前領主奥方が唯一専属にしていた侍女だ。
遺言で、夫である前領主老紳士の専属となった。
領主館に長く勤めているハンナは、ルイサとも付き合いが長い。
ルイサが老紳士と同じように、今も亡くなった奥方のことを深く想っていることを、よく知っている一人でもあった。
「まったく! 仕方ないねぇ!」
ハンナはそう言い捨てて、ドスドスと足音高く洗濯室の奥へと消える。
そして、暫くしてからか小さな小瓶と匂い袋を持って戻って来た。
ルイサの前で、その小瓶をキュッと開ける。
香るのは、カモミールとオレンジフラワーの爽やかな香り。
「…………これは、大奥様の」
「そうだよ。大奥様はこの香りがお気に入りだっただろ?」
ルイサは大きく息を吸って、目を閉じた。
庭園の花を愛でることが好きだった奥方は、普段は香りを身に着けなかった。
しかし、季節の変わり目などに、よく眠れず体調を崩すと、お気に入りのこの香りを枕元に欲しがった。
「消臭効果もあるし、ちょうど良いよ。大旦那様のことだ、この香りを嗅いだら、きっと加齢臭なんて気にならなくなるさ」
ハンナは笑って香油を含ませた匂い袋を、枕の中に仕込む。
そして、手早く枕の端を縫い止めていく。
「……アンタもいるかい、ルイサ」
黙ってじっと作業を見つめているルイサに尋ねれば、彼女は躊躇いなく首を横に振った。
「要らないわ。大奥様からは、もう大事なものはみんな頂いているから」
「そっか。……そうだよね、大奥様の一番大事な人を、アンタは任されたんだもんね」
言って糸を結び止めれば、ルイサは少しだけ楽しそうに笑んだが、すぐいつものスンとした表情に戻った。
代わりにハンナが「アハハ!」と大声で笑って、枕をルイサの胸に押しやる。
カモミールとオレンジフラワーの香りが、洗濯室に優しく広がっていた。
《 その香りは今も/終 》
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