《密話休憩》燻る熱
「料理長、お茶です」
「ありがとう」
朝の厨房で、オルガが差し出したカップを、料理長が受け取った。
普段通りの遣り取りだ。
領主館の厨房では、毎日朝食を出し終えるとすぐ、片付けや次の昼食の仕込みが始まる。
料理人達はその間に、それぞれのタイミングで小休憩を取ることになっていた。
大体の者は、カップ入れたスープとパンで手早く朝食を摂る。
通いで働く者は、早い朝食を食べてから出勤してくることが多いので、お茶だけ飲んでいたり、焼き直した古いパンを一欠片食べたりしていた。
料理長の場合は、決まって厨房で立ったままお茶を飲む。
役職上、作られた料理が盛り付けられる前に必ず味見をするのだが、その数が多ければ、ただの一口ずつと言えども、それなりに腹は膨れるもの。
満腹ではないが空腹でもない、という中途半端さである為に、この休憩はお茶だけを飲むのだった。
「オルガ」
「はい」
お茶を渡してそのまま去ろうとするオルガを、料理長は咄嗟に呼び止めた。
呼ばれて振り返る彼女は、小柄な身体に、清潔な調理服をきっちりと着込み、赤茶色の髪は乱れなくまとめられ、爪は短い。
オルガがこの厨房に入って既に十年を過ぎているが、どんな朝にも、オルガの周りに気怠く億劫な空気はない。
朝から仕事終わりまで、常に真面目に仕事に取り組み、その作業はとても丁寧だ。
口数は決して多くなく、自分から話を振る方ではないが、取っ付き難さはなく、話し掛ければ気さくに会話する。
さり気ない気配りも出来て、飲みたい者が自由にお茶を入れるこの時間に、サッと料理長にお茶を入れてくれるのも、彼女であることが多かった。
「あの、料理長、なにか……?」
呼ばれて振り返ったのに、料理長が何も言わないので、オルガは軽く首を傾げた。
「……いや、ありがとう」
「さっきも言ったのに」
感謝の言葉を二度言われて、オルガは思わず小さく笑う。
その顔を見て、料理長の目元が僅かに柔らかくなった。
オルガが奥のベーカリー担当台の方へ戻って行く後ろ姿を見送り、料理長はコクリと一口お茶を飲む。
甘さの加減が、好み通りだ。
普段は何も入れないで飲むのだが、朝のこの時間だけは、自分で入れるなら蜂蜜を垂らす。
料理長は、特にそれを誰にも話したことはない。
それなのに、オルガだけは必ず、この時間に入れるお茶に蜂蜜を垂らして出してくれるのだった。
視線を炉の前の窓に向ける。
窓の上、三分の一ほどに取り付けられているシェードは、今は巻き上げて止めてあった。
午前の今は、西向きの窓に明るさはあっても、日差しは直接入らない。
しかし、夕食を作る頃になると、季節によっては傾いた陽光が当たる。
多くの者にとってはそれ程眩しいものでもないが、光過敏症の気がある料理長には、時に険しい顔になる程度には鬱陶しいものだった。
それが、数年前、いつの間にかこのシェードが取り付けられていた。
聞けば、オルガの発案で、下男が工夫して取り付けたのだという。
オルガに確認すると、「ここで仕事をする皆が眩しそうだったから」だと言う。
皆、とは?
夕食の
休みの日は別の料理人が立つが、その料理人達を指すほどには、休んでいないはず……。
気になり始めれば、自ずとオルガを目で追った。
丁寧に仕事をするのは知っていたが、見れば見るほどに、細やかな手仕事をする。
他をよく見ていて、時にはさり気なく他の料理人の補助にも入る。
力強くパン生地を捏ねるのに、仕事を離れて一息つく時の仕草は柔らかい。
何気ない瞬間に見せる控えめな笑顔が、なぜか印象に残り、何かの拍子に頭に浮かぶ……。
いつしか、料理長はオルガに惹かれている自分に気付いた。
そして、オルガが見せる気遣いが、自分には特別に向けられているのではないかという、小さな期待も生まれた。
料理長は、カップに残る琥珀色の茶を見つめる。
あの日穀物倉庫で、オルガに不意に触れられて、衝動的に抱きしめた。
彼女は想いを受け入れてはくれたが、この先はどうすれば良いのか、迷っている。
既に若いとは言えない歳の上、彼女とは十近く離れている。
……いや、そうではない。
このお茶を手渡した時のように、あの日以降も変わらない様子で仕事をしているオルガに、手を伸ばすことを躊躇っている。
この燻る熱のまま、彼女を奪ってしまいたい。
しかしそれが、彼女が仕事に向ける熱意を邪魔することになってしまわないのだろうかと、それだけが気掛かりなのだ。
「阿呆は、俺か……」
料理長は顔をしかめ、微温くなったお茶を一息に飲み干す。
燻る気持ちを表に出せないのはオルガも同じだったのだと、彼が気付くのはもう少し先のことだ。
《 密話休憩/終 》
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