第36話 千佳
いままで父親の名前さえ知らずに生きてきたことをべつに不思議とは思わない。ママは語ろうとしなかったし私も聞こうとしなかった。お父さんのことを知りたいと思わなかったわけではないが適当にはぐらかすママを追及するほどの執着もなかった。それだけ私とママの生活はふたりで完結していたんだと思う。
だからおっさんが父の名を告げたところでいまさらたいして心は動かされなかったというのが正直なところだ――実のお父さんには申し訳ないけれど。それよりおっさんが私のお父さんではないんだということが決定的事実として確定してしまったことに、私はショックを受けているようだ。そしてショックを受けているということにまた私はショックを受けている。いまだ私はかすかな希望を抱いていたらしい。
窓のそとでセミの鳴く声がうるさい。人を焼くほどの太陽光が道路のすみずみまであまねく満ちている。クーラーの効きのわるい部屋でじっとりにじんだ汗を拭いながらそういえばもう夏休みだな、とぼんやり思う。
不用意に私が会いに出かけることで石積会の連中に見つかってしまう可能性もあるし、そうなればあの子たちをも危険にさらしてしまいかねない。ちょっと拗ねたみたいなメッセージが届くのにも心を鬼にしてそっけなく返す。おとなしく家のなかにかくれてろ、とおっさんにも釘を刺されているし。
ところがさっきまた千佳から「助けて」って悲鳴の連絡が来たのだ。
助けてったって命のかかった話ではなく、勉強がまったくわからーんとヘルプを求めるメッセージだ。エビちゃんの助けがなかったら私死ぬなんて書いてある。のんきなもんだと私はにがわらいする。
目を上げるとおっさんはちょうどシャツを脱いでいたところで、部屋のすみっこに行って背中を向けているのがいちおう私に気をつかっているらしいのだが、だったらバスルームで着替えろよって話だ。この点についてはそのうちみっちり説教してやらなきゃいけないだろう。
「またお出かけ?」
と訊くと、おっさんはうなずき、
「なにかリクエストがあれば買ってきてやる」
と言う。やはり私は外に出てはならない前提だ。このしゅんかん私は、ちょいと出てって千佳のためひと肌脱いでやろうという気になった。
家から出るな、というおっさんの指示はたぶん正しいのだろうし私を守るため骨折ってくれていることも理解している。それがママへの借りだか義務だかのためだってのにはちょっと引っかかりがないわけではないけどそこを差し引いてもおっさんに感謝しなきゃ嘘だろう。もちろん私は感謝してる、いやむしろ感謝なんて素っ気ない言葉では言い足りない。
だからおっさんがおとなしく家にこもってろと言うのに反発するのが不当だってことは頭ではわかっているのだ。勝手に家を出てったらおっさんが困るに決まっている。かといって事前に相談したらまず確実に反対されるだろうから、行くならやっぱり黙って行くしかない。
おっさんが出かけたあとさんざん悩んだすえに、置手紙をテーブルに置いてやっぱり私は外に出ることにした。千佳と待ち合わせたのは家からも学校からも遠いショッピングモールの一階だ。千佳の顔を見ると久しぶりに日常の世界に戻ったような気がする。
わりと大きめのマクドナルドでポテトとコーラを頼んでさっそく勉強道具をひろげたものの、千佳の関心はもっぱら私の近況報告だ。私としてもおっさん以外との会話に飢えていたから勉強そっちのけだって気にしない。
「いままで音信不通だった親戚って、それなんだか怪しくない?」
「まあね」
急に学校に出られなくなった事情をでっち上げているうち、私はいま親戚に引きとられるかどうかの話し合いをしている最中だってことになってしまった。
「……それでいま思い出した、そういや妙な電話がかかってきてさ、エビちゃんのこといろいろ聞くのよ。エビちゃんに気のある
「会ったの、その相手と?」
びっくりして私はつんのめり気味に訊く。千佳は私の動揺には気づかずのほほんと答える。
「会わないよぉ、電話だけ。あったりまえじゃん。ま、気になるんならつぎ電話あったらもうすこしこちらからも情報引き出してあげ――」
「やめて」
千佳が言い終えるのを待てずに言ってしまって、あわてて口をつぐんだ。千佳を見ると、千佳は口をあけたまんま固まっている。
「…………ほら、親戚ったってどんなのだかまだわかんないからさ、千佳に迷惑かけたくないし」
てきとうに言葉を濁しながら私の頭のなかでは、石積会の追跡が思ってたより念入りで本気だ、あたりまえだけど子供の遊びとはちがうんだ、やっぱり千佳たちとは離れてなくちゃ、とかいろんな考えが警告になってぐるぐるまわった。
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