第34話 わがまま


 そのおっさんの横顔がなんだかさみしそうな、なにかを噛みしめ耐えているような風にいっしゅん見えて、私ははっとして追及の言葉を飲みこんでしまった。一枚だけの手紙を返しながら私は訊ねる。

「それで……私たちどうなるの?」

「心配するな」

 とおっさんは答える。さっきの表情は私の勘ちがいだったんじゃないかと思っちゃうほど毅然とした顔だ。そんなおっさんの顔を私はじっと見つめる。


 心配するな、おまえを守るっておっさんはことあるごと言うけど公園では拉致される寸前だったしマンションは襲われちゃうしいま籠っているワンルームのせまい隠れ家周辺ときたらならず者の巣窟らしいし、冷静に考えればもう心配ごとだらけだ。なのにおっさんがそう言うとなぜかだいじょうぶって気になるのがふしぎだ。

かなでの言ったとおりになるだろう、おれが正しい手を打ちつづければ。石積会いしづみかいはこの世から消える。おれがどうなるにせよ、おまえはちゃんと日の当たる道に返してやる……すべて済んだあとにな」

 ママが憎んだフリーメイソン――じゃなかった、『石積会』をつぶす。どんな遺恨があるのか知らないが、そんな十八年もまえの復讐のために実の娘の私を危険にさらそうなんてのは信じられないような…………でもママなら平気でやりかねないような。しかも今朝のようすからすると危険というのがしゃれにならなさ過ぎて、命を落としてもふしぎじゃないってレベルなんだけど。

吾妻あづまサンが石積会をつぶすの?」

 おっさんは玉手箱に目を落としたまま私を見ない。

「しかたねえな。おれしかできねえ、って奏が言いやがるから」

「そのためなら人を殺す?」

 私が独り言みたいなちっちゃな声で言うと、おっさんはまた私の目を見てしばらく黙る。それは肯定してるってことだよね。

「心配するな」

 やっと口をひらいたと思えばまたこれだ。いや心配するよ、否定してよ、と私は思う。

「殺さない?」

 重ねて問う私に、おっさんはそっけなく答える。

「おまえの手は汚させない」

 心配してるのはそこじゃないんだよ、って私の想いをおっさんが理解することはないのかもしれない。でも言うべきことは言わないと。

「私が言いたいのはね、吾妻サンに、人殺しになってほしくないの。私がどうとかじゃない、吾妻サンのことなの。ママのわがままに付き合うことないんだよ、むかしなにがあったのか知らないけどさ……借り、があるんだっけ? それに関しちゃここまで私を助けたことでチャラ、ってことでいいんじゃない? ママがどう言おうと私はゆるす、だからつぶしたり殺したりってのはもう終わりにしていいんだよ。終わりにしようって娘の私がゆるすんだよ。わかった?」

 ぶわっとひといきに言ってしまって私はおっさんを見る。なぜだか心臓がおおあわてで威勢よく動く。

 おっさんの目はあいかわらずつめたく刺すみたいだったけどその奥に笑みみたいなのがいっしゅん浮かんだような気がした。と思ったらすぐふいと目をそむけて、おっさんはグラスを手にとった。グラスのなかみはとっくにからっぽだ。

「奏のわがままはいまに始まったことじゃねえ。使いたおしたエロ本以上になれっこだ」

「だよねえ」

 とつい応じて、あまつさえ笑顔にまでなってしまった。おっさんも目に笑みを浮かべている。ここで笑顔を突き合わせるなんてちょっとどうかと思うけどどうせこのおっさん、いま自分が下ネタを口走ったってことに気づいちゃいない。


 ママのわがままはむかしっからなのかあ。まあそうだろうね。そんなママのわがままにおっさんは付き合ってくれて、私の身まで守ってくれている。

 それがむかしの借りだか義務だかにあくまでこだわるためだとしたら、おっさんには気の毒だけれど私はその侠気おとこぎに甘えておくことにしよう。草原サバイバルに必死な仔ライオンが親ライオンのあとをついてくみたいに。じっさいおっさんが行先を示してくれれば私は親に手をひいてもらう幼な児みたいに安心してついていけるような気がしているのだ。

「パパもたいへんだねえ」

 かるく『吾妻サンも』と言うつもりがついこんな言い違いをしてしまったのはちょっと感傷的な気分になったからというのと、ずっと心のなかではもしかしてそうなのかなって疑念がわだかまっていたからだ。

 言ったしゅんかん自分の言葉にはっとして顔を上げた。視線のさきではおっさんもこちらを見ていて、またしてもふたりが見つめあう形になる。気まずくって私は声を出せない。

 しばらくしておっさんが口をひらく。

「ちがう。おれはおまえの父親じゃねえ」

 おっさんは真顔だ。重い刑罰を職務上しかたなく言いわたす判事のような、感情をおもてに出すことを自ら禁じているような。

 宣告を受けて私の甘い感傷はどっかへ吹っ飛んでってしまった。たぶんおっさんはうそをついていない。なんの根拠もなく私はそうさとった。

 ――おれはおまえの父親じゃねえ。

 無愛想で口がわるくて下ネタだらけ、それにたぶん人を殺したこともあるおっさんのこの言葉は真実だ。

 ――おれはおまえの父親じゃねえ。

 あ、私ショックみたい。思っていたよりずっと。しょげてる私をどう見たのか、柄にもなくおっさんが私を支えるようにとなりにすわった。そのままなにも言わないで、動かずにいる。

「なんか用?」

 私は下を向いたまま言う。おっさんは言葉を探すように一拍おいたあと言う。

「安心しろ。血がつながってなくとも、おまえは守る」

 そおゆうことじゃないんだよ。

 戦いにかけちゃ一流かもしんないけど、おっさんはおっさんだ。どうせ言ってもわからないだろうからなにも言わない。

 ロマンチックでもドラマチックでもないしょぼい夜が更けていく。


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