第31話 入会


 つぎに目覚めたのは、ガーリックの香ばしい匂いに鼻が刺激されたせいだ。

 私のうつぶせた顔のしたで、ノートによだれが垂れていた。あわてて私は小指の腹で拭いとってノートをとじる。

 おっさんは私が目覚めたのに気づいて、鍋の火をとめた。

「こんなになっても勉強するってのは感心だ。生きるためには学びつづけなきゃならねえ」

 おっと、見られてしまったか。よだれもろとも。

「そりゃ受験生だから」

「よけーなお世話だろうが、」

 とちょうど焼きあがったパンを取り出しながら、おっさんは言った。

「三問めな。答えは合っているが、解き方がスマートじゃない。角度を変えてもっと考えてみろ」

 強烈な既視感が私を襲う。やっぱりママと同類だ。このおっさん、ママとおなじく私の勉強を邪魔してたのしいらしい。だいたいいま大事なのは今朝がたの襲撃と反撃と逃走であって勉強なんかじゃ断じてない。当の勉強ノートをひろげていた私が言うかよって話ではあるのだが私のは現実から目をそらすための逃避行動だからまあ勘弁していただこう。

 と考えたところで、そうか私の現実逃避におっさんも付き合ってくれているんだと気がついた。やっぱりこのおっさん、心根はやさしい? いったいおっさんの真意はどこにあるんだろう――私は目を覗きこんで占う。そこへおっさんは真顔で言い足した。

「風呂覗くのでも、角度を変えると美味しいとこが見えることってあるだろ?」

 だめだこいつ。つか覗かねーよ。


 気をとりなおして……ともかく逃げずに現実を直視しよう。うちに来た連中は、躊躇なく私の寝室に弾丸たまをばらまいた。石積会いしづみかいとはそういう連中なのだ。おっさんだって容赦なく敵の足を撃ちぬいた、認めたくないけどやっぱりおっさんもその同類なのだ。

 ママもそうだったんだろうか?

「ちがう」

 とおっさんは否定する。

「おれもかなでも、自ら会に飛びこんだわけじゃねえ。やむにやまれぬ事情があった、いや、奏のやつに限っては……別の生き方もできたはずなんだがな。MITから声がかかって、渡米が決まっていたってのにやつはそれをフイにしやがったんだ」

 マサチューセッツ工科大学 M・I・T ? 名門中の名門、超トップじゃないか。やってくれるぜ、ママ。いったいこのさきまたどんな隠しだまを出してくるのか、もう想像もつかない。

 あともうひとつ問題なのは、娘の私がまったく知らないのにおっさんはやたらとママの情報に詳しいってことだ。

「MITとか、東大首席とか、どうしてそんなこと知ってるの? やっぱり吾妻サンはママの――」

「おれが知っているのは当然だ」

 私の言葉をおっさんはとちゅうでぶった切って、口惜しさを噛みつぶすようにつづけた。

「なぜならおれが次席卒業だからだ。四年間ずっとやつのケツを拝みっぱなしだったおれが、奏を忘れるわけがない」

 あやうく口のなかのアヒージョをぜんぶぶちまけるとこだった――おっさんのつくったタコとエビのアヒージョ、ガーリックのパンチが効いた絶品アヒージョを。


「奏が石積会に入ったのは、おれの巻き添えみたいなもんだ。これが奏に対する借りのひとつだ」

 パンをアヒージョに浸しながらおっさんが言う。

「巻き添え?」

 私が高い声で問い直すと、おっさんは答えずふいっと背を向けごそごそ棚の奥を探し、そこから焼酎の紙パックを引きずり出してきた。どうやらすでに封は切られているようだ、いつのことかはわからないけど。やすっぽいグラスに氷をがさっと入れると焼酎もそこへとぷとぷ注ぎこむ。

 ぐいっと飲んで、グラスを床に置いて、おっさんが語りはじめる。


 ……おれの家は笑っちまうほど貧乏でな。ほんとうなら大学なんざ行けたもんじゃなかった。それを拾って高校・大学の学費から東京での下宿代まで出してくれたのが石積会だ。もちろんそのときはそんなやべぇ会だとは思っちゃいない。

 学部をえたら研究室の連中はほぼ全員が院へ進むんだがおれだけは一日もはやく稼ごうってんで卒業だ。就職もしたがそれだけじゃ飽き足らずにベンチャーを立ち上げた。金のねえのがどんだけつれえか身に沁みていたからな、とにかく貧乏に復讐するみてえにやっきになって働いた。

 ところがそのころたいていの会社は副業ってやつに理解がなくてな。一年でバレて会社はクビだ。ベンチャーもまだよちよち歩きのチンコも立たねえときだ、たちまち金策に行き詰まっちまった。

 そのときまた手を差し伸べてくれたのが石積会だった。

 ただし条件がある、やつらの仕事をちょっと手伝ってほしいと言うのさ。なにしろ大学を卒業できたのも石積会のおかげだ、これまでの山盛りの恩義に加えてベンチャーへの資金提供までされちゃ人として断る道はねえ。会社を馘んなって時間はあったしおれはもちろん二つ返事だ。

 さいしょは法に触れない、表の仕事ばかりだった。そのうち際どい仕事が増えていって、気づいたときにはどっぷり非合法の世界に首まで浸かっていたよ。

 もともとその道の素質があったんだろう、会頭にも気に入られ、すこしずつおれは会の中核メンバーと目される立場になっていった。


 そんなおれを奏は心配して、深入りしないよういつも注意していた。おれは聞かなかった、あのころやつとはケンカがつづいていたからたぶん反発もあったんだろな、それに研究では勝てない代わりにおれの方が世間をいくらか知ってるぜって自負もある。

 とうとうどうしてもおれを説得できないと悟るとやつは、なんと石積会に入会しやがったのさ。院での研究が認められて、MITに招聘されて渡米しようって矢先にだ。おれなんかのためにやつは輝く未来を棒に振りやがった。この十字架をおれは一生背負っていかなきゃならねえ。


「それってやっぱり吾妻あづまサンがママの恋人だったから?」

 私が言うと、おっさんは露骨にいやそうな顔をした。アヒージョはすっかり冷めている。


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