第30話 避難所
指定された待ち合わせ場所では五分と待たなかった。あらわれたネズミ色の車にさくっと乗せられ、また走りだす。どこで着替えたんだか、おっさんは服を換えていた。それに顔じゅうひげだらけで、あちらから声をかけられなければぜったい吾妻サンとは気づかなかった。
「また車盗んだの?」
そこが気になってしまうのだ。いくら切羽詰まってるからって、ひとさまのモノを盗んで迷惑かけるなんてのは寝覚めがわるい。盗まれたひとにはなんの落ち度もないんだし、朝起きてきて、あるべきところに愛車がないっ……て茫然となってる姿を想像するだけで泣けてくる。
「これは自前だ」
まっすぐ前を見たままおっさんは答えて、私の頭にカウボーイみたいな鍔のついた帽子をかぶせる。帽子の下から私は問う。
「目的地はどこ?」
じっさい、これだけ時間をかけて動いていながら、けっきょく東京から離れていない。真夜中からずっと田んぼのあいだを走ったり山に入ったり、まるで寄り道が目的で夜じゅうドライブしていたようなもんだ。
けっきょくさほど走らないで、ふるくさいマンションの地下に車を入れると、私たちはそれぞれ荷物をかついでエレベーターに乗った。
五階で降り、おっさんの先導にしたがっていちばん端まで歩くと、となりのマンションが手のとどきそうなくらいに近い。おっさんはやすっぽい鍵を取り出しドアに挿す。ぎいぃっと音を立ててドアが開く。むわっと汗っぽい空気があふれて酸っぱく匂った。
おっさんは私に声をかけることもなくさっさと中に入ってしまう。私はつづいて入っていいものか迷ってドアのところに立ちつくす。礼儀とか遠慮とかそんな行儀のいい迷いというより、言ってみりゃ何が潜んでるものかも知れないどぶ川に足を突っこむのを躊躇するような、モノノケのうごめく夜の森を前にして怖れをなすような、そんな迷いだ。
数歩あるいたところでおっさんは気づいて、けげんな顔でうしろを振りかえる。私はしかたなく、ってな感じで愛想わらいを見せる。
「……ここ、どこ?」
私の問いにおっさんは、さて、どこだろう? とでも言うかのように、部屋をぐるりと見まわす。それから、
「避難所だ」
とひとこと言って、つきあたりのカーテンをがばあっとあける。とたんに、早朝とはいえもうずいぶん高くなった夏の太陽の光が部屋に満ちる。
「このあたりは監視カメラがほとんどない。カメラに映らず車で移動できる数すくないルート上にある、安全なねぐらだ」
それって犯罪者にとっての安全だよね――ここに住むひとたちを想像して私は、なるべくご近所づきあいは避けておこうと思う。
なかに入ってみると、ゴミやら残飯やらそれにカビだかホコリだかにまみれたアレコレだとか、よほどカオスな部屋を想像して覚悟していたのが拍子抜けするほどさっぱりしている。つまりはなにもない部屋ってわけだが、とにもかくにもたいして汚れてないというのはほっとした。
ワンルームってこんなのを言うんだ、と感心してしまうほどのちっちゃな部屋だがぜいたくは言うまい。
いま私の家に戻るのは危険だってのは私にもわかる。ぼやぼやしてたらつぎの追っ手がくるかもしれない。来るのが警察だとしても同じで、良い方向へは向かわない。とさっきおっさんが言ってたことを全面的には信じないにしても、否定もしきれないところだ。
たしかに部屋には瀕死の男たちが四人も転がっている。警察が見たら私たちはまちがいなく重要参考人で、問答無用で警察に連れてかれてしまう。
そうなったら最悪だ、とおっさんは言う。
「おれは勾留され、おまえだけが解放される。おまえを素っ裸にして放り出すようなもんだ」
わかるけど、その比喩はアウトだおっさん。言葉のうえだけだろうと私を勝手に裸にすんじゃねえ。
けっきょくのところ、あとを尾けられないよう何重にも警戒してたどり着いたこの部屋以上に安全な場所はないってことはよくわかった。
冷蔵庫から出したペットボトルの水をがぶがぶ飲むとすぐおっさんは寝てしまった。手についた血痕を洗いもしていない。かばんを抱き枕がわりにして、もういびきとよだれがいっしょに口から出ている。
私は車のなかで眠ったおかげかあんまり眠くない。さいしょは物めずらしいから部屋のなかをかってにいじって調べてみたけど、部屋はせまいしなにもないしですぐ飽きた。しかたないから問題集をひらく。まずは英語から。日常生活ではぜったい使う機会のないこねくりまわした日本語を、できるだけすっきりした英語に訳していく。シンプルな、明快で論理的な英文に。ルーティーンに没頭するとそのあいだだけは昨夜の危機一髪なできごとも不安な思いもどっかに消える。
没頭してると時間もわすれるものなのだ。ふっとなんの気なしに顔をあげるともう一時間が過ぎている。おっさんはまたいびきをかいている。
つぎは数学を三問解いて、さすがにつかれたな……とひとやすみだ。
テレビをつけてしばらく見たけど、私ん
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます