第29話 逃走
五分と言われたがそんなかんたんに荷造りできるもんじゃない。最低限の着替えと旅行セットとお金とパッドに銀行カードに、身分証やら身の廻り品やらまとめて旅行かばんにつっこんで、さいごに勉強道具を一式ひっつかんでリビングに出る。服装もジャージは脱いでちょっとはましなものに着替えてきた。
リビングには縄で縛られた賊がみんなまとめて転がっている。おっさんは転がっている連中などはじめから存在していないかのように無視して、なにが入ってるんだかやたらでっかいかばんを担ぐと、外に出るよう私をうながす。
「あのひとたちは?」
このまま放っといたら助からないんじゃないかと心配だ。なにしろひとりは足の腿あたりから血を流しているし、ふたりはまだ意識をうしなったままらしい。
「119番してあげ――」
「だめだ」
即却下だよ。おっさんはじれったそうに私のかばんを奪って、かるがる担いで先に先にと歩いてく。
「じゃ、110番」
おっさんが黙って振りかえる。
「……なにが起こるか教えてやろう。おれたちは参考人としてしょっぴかれる。おれは殺人未遂か、よくて過剰防衛および危険物取締法違反でしばらく勾留される。おまえはだれも守る者のない状態で放り出される。女刑事のねちねちした責めでおれがイカされてるあいだにおまえは鉛玉をくわえこんで昇天する。めでてえハッピーエンドだろ」
ごくっと私はつばを飲みこむ。
「ところがこれが一番マシなシナリオだ。やつらの出方次第で、もっとひでえことにもなり得る」
「でも」
あのひとたちがもし死んじゃったら私は死ぬほど後悔する。ってのももちろんあるけどそれよりもっと、おっさんに人殺しになんかなってほしくないんだよ。
「生き残るためにはな、」
とおっさんは自分の頭を人さし指でとんとんたたいて、
「ちゃんと頭を使って考えろ」
「な、」
人が親身に心配してるってのになんて言いぐさだ。つい血がのぼって、
「頭ならひとよりよっぽど使ってるわ。自慢じゃないけど成績は学年トップよ、東大だって合格圏内だし」
ふだんならぜったい言わないことまで口走ってしまった。アツくなってる私をおっさんはつめたく見おろしている。それからおもむろに、つまらなさそうに言った。
「あたりまえだ。その程度、自慢にもならん。おまえの母親は、東大理学部を首席卒業だ」
あたりまえって、それがどれほどのことだかおっさんあんた知らないくせに、その程度とは言ってくれるじゃ……ない、か、と……あれ? なんかいますごいこと聞いた気がする。
首席卒業って、ママが?
私はすっかり毒気を抜かれてしまって、おっさんに手を引かれるまま人形みたいにただ廊下をついていく。
それにしてもこれだけの騒ぎで警察がやってこないってどういうことなんだろう。
「警察はあてにならねぇってことだ」
とうぜん、って顔でおっさんが言う。深夜三時のエレベーターにはだれもいない。地下一階の駐車場も人けがない。
かつん、かつーんと靴の音が反響するなか黒い四駆っぽい自動車のまえで止まると、ドアを開け、私の分もまとめて荷物を後部座席に放りこむ。
「知らなかった、車あったんだね」
私が言うと、おっさんは平然と答える。
「いや、他人のだ」
絶句する私のよこで、おっさんがエンジンを始動させる。
「あとで返しにくるからいいだろう」
深夜の町を走りだした車は意外なほどに安全運転だ。がらがらの道路で制限速度を守り、赤信号には律儀に止まる。まあ当たり前といえば当たり前なのだが、派手なカーチェイスでもはじまるのかと身構えていた私はちょっと肩すかしにあった気分だ。
「どこ向かってんの?」
車はどんどん町から離れているようで、高いビルやらネオンサインやらはいつの間にかまわりから消えている。そのうちまっくろいおおきな塊が見えてきたと思ったらどこかの山だ。そのまま車は山に入ってってやたら曲がりくねった道を行く。
さっきまで目が冴えていたのがさすがに眠りが足りなかったのかまぶたが重い。
「いまのうち眠っとけ」
とおっさんが言う。こんなとき寝てられるか、って胸のうちでつっこんだのを最後に記憶がとぎれてしまった。
目覚めたときにはまた町のなかに戻ってきていた。空が紫色になって、日の出がちかいことを知らせている。
「次の角で降ろす。十分もすれば地下鉄が動きだすから池袋まで移動して、ここで待て」
といつの間にやらメモに書いた地図を握らせ、
「グレーのマツダで迎えに来る」
とつけ加えた。同時に車が止まり、降りるよう促される。でっかい旅行かばんは置いてっていいと言うから学校のかばんだけを掴んで歩道に降りると、熱帯夜を吹きぬける朝の風が心地いい。ドアをしめるまえ、
「いいか、現金で切符を買え。カードも携帯もつかうな」
とおっさんが念を押した。
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