第24話 トラップ


 やっと十一時を過ぎたばかりだけど昨日の肉をてきとうに炒めて昼ごはんにした。まだはんぶんほど残っているからそいつは夜にどうにかしてやろう。時間はたっぷりある。学校に行かないでいいとなるとこんなに時間が余るのかと愕然としてしまう。

 お昼を食べたばかりのおなかで晩ごはんのこと考えても気分はいまいち盛り上がらないなあってところを踏んばりどうせならいままでつくったことない新メニューに挑戦するかとネットの情報をあさる。適当にページをめくってるとなんとそこらで「フリーメイソン」の文字にぶつかるのだ。ほんとに流行ってるんだ、とおもわず噴き出してしまう。これじゃあ悠斗ゆうとも信じちゃうわけだよ。世間は平和だ。

 外は太陽が絶好調に世界を白くしていて、ごんごん気温が上がってるのが窓をあけなくたってわかる。太陽の猛威は部屋のなかにも容赦なく降りそそぐのだがクーラーが老骨に鞭打ってがんばってくれてるからかろうじてはね返せている。狭いベランダに干した洗濯物はとっくに乾いているだろう。

 窓のそとにひらひら揺れている見慣れない物体は生まれてはじめて洗濯した男モノのパンツだ。三日分の。隠すみたいにゴミ袋にまるめてつっこまれていたのを私が引っぱり出して洗ったのだ。遠慮かなんだか知らないけれど、放っといて悪臭をまき散らされる方がよほど迷惑だからと説教しなければならなかった。もしかして病原菌とか新生物でも生み出したりした日にゃ目も当てられない。

 パンツのよこにはシャツやらズボンやらも干してある。ママと自分のものしか洗ったことない私には未知のサイズだ。パンツやら靴下やらを摘まみ上げたときは麻痺していたけど、いまベランダで揺れている洗濯物を見てるとなんだか大人の階段を上ったような、そのぶん乙女としてだいじなものをうしなったような気がする。

 洗濯物の所有者であるおっさんは、なにやらわからないけどさっきから玄関のところで作業していて、帰ってこない。

「なんか手伝おうか?」

 三度ほどリビングから声をかけても返事は「いらない」の一点張りだ。

 しかたないから紅茶を淹れてみる。べつに麦茶を冷蔵庫から出してくるのでもいいのだがイヤになるほど時間があるぜとなったら優雅にいこうというわけだ。

 作業しているおっさんの横にカップを置いてあげる。おっさんは作業の手をいっしゅん止めて、でもまだ工具を右手につかんだまま左手は手探りでカップを見つける。カップに口をつけたところで

「あちッ」

 とおっさんは声を洩らした。反射的に口を離した拍子に紅茶がこぼれて落ちる。落ちた先はおっさんの膝のうえだ。おっさんは足をぴくりと動かしたが、こんどは声を出さずに堪えた。

「……猫舌?」

 私はわらいを嚙みころした顔を伏せて、キッチンに置いてあったハンドタオルをわたす。おっさんは黙って受けとり、膝を拭った。

仕掛けトラップはほぼ出来上がった。日が暮れるまでに片づける」

 話をそらしやがった。はんぶんほど中身の残ったティーカップは皿のうえに置かれたままだ。


 けっきょく紅茶はぬるくなってから飲みきった。それからしばらくベランダで作業していたと思ったら、私が自分の部屋にこもっているうちまた玄関に戻ってなにかしている。工具をとりにリビングに戻ってきたときのおっさんを見ると、玄関のあたりまではクーラーの力も及ばないおかげで汗だくだ。

 私がパッドを開いているのを見て、おっさんが訊ねる。

「調べものか?」

「夕食」

 と答えて、またページをめくる。

「今日は私がつくるから、吾妻サンは作業をつづけてて。その玄関の、ビーバー、なんだっけ?」

「ブービートラップ」

 と訂正してすぐ、おっさんは顔をしかめる。

「おまえは覚える必要ない――言葉も仕組みも」

 言われなくてもだいじょうぶ、最初はなっから覚える気ないし。それより夕食のメニューだ。またパッドに目を落としてページをめくると、出てきた画面におっさんが目を留めた――ような気がした。つられて私もあらためて画面を見る。そこには種々雑多な料理の候補が並んでいる。

 薄切り肉をつかうことと初挑戦の料理にすることだけ確定で、あとは中華風だかエスニックだかそれともフランス風にするって選択肢もあるな……と、すなわち方向性さえまったく定まっていないわけだが、ここでおっさんの意見を求めるのはアリかもしれない。このひとの料理の腕はあなどれないのだ。

「吾妻サンはどれが――」

 と言いかけたところで、また「フリーメイソン」が表示されているのに気がついた。ちょうど出てきたポップアップにその文字があったのだ。こんなところにまで浸食して、まるでウィルスだなと思う。

 そして気がついた。おっさんの視線もそのポップアップに向いている。その表情をたしかめようとするとおっさんはさりげなく視線をずらした。それはほんとに自然な、ごくごくふつうな視線の移動で、もしかしたら私の気のせいなのかもしれない。でも私の直感が告げている、なにかあると。

「フリーメイソンって」

 おおきく息を吸って私は言った。ここは踏み込まなきゃならない。私はなんにも知らなすぎる。

「さいきんよく聞くよね。このうわさ、ほんとなのかな?」

 ふつうに考えれば、ただのつまんない世間話。まじめに答えるほどもない、なにそれって話ではあるのだ。ところがおっさんは私の問いに、眉をぴくっと動かした。ほんのちょっと、私がじぃっと見つめているからかろうじて気づけただけの、わずかな動きだ。


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