第23話 宿題
朝六時前、ジョギングしなければという猛烈な焦燥感に駆られて目が覚めた。昨日の朝はおっさんの体力を考えて中断したが、二日つづけて休むとなるとからだの方が黙っちゃいない。ママの呪縛なのか習慣の力なのか、とにかく走らないと一日が始まる気がしないのだ。
トレーナーに着替えてリビングに出ると、ソファのうえにおっさんがまるまっている。けっきょくママのベッドに寝るのは頑強に固辞したあげく、昨日もソファに寝たのだ。なにを遠慮してるんだって私は思っちゃうけど。
夏とはいえ上にブランケットひとつかけるでもなく、その姿は大型のイヌの寝すがたを思わせた。犬のくせにぶあいそな、毛がふさふさの。とたんに雪山の救助犬の寝ているさまがぱっと像を結ぶ。さしづめ私は遭難者だ。行く先も退く道も見うしなってしまった遭難者、そしておっさんは救助犬というわけだ。
カーテンを通してとどく朝のひかりがおっさんの顔を撫でている。今日も暑くなりそうだ。学校に行かない平日、それがどんな一日になるのか想像つかないけれど。
冷蔵庫をあけると昨日出番のなかったお肉が一段占領している。その奥からヨーグルトを引っぱり出して、ついでにジュースを取りあげる。ジョギング前にはなにかかるくおなかに入れておくのがいつもの習慣だ。オレンジジュースに浮かべたふたつの氷がグラスのなかで涼しい音をたてる。
その音が聞こえたのか、ソファからおっさんがむくりと起きあがった。まるきり犬だ。大型の、粗野な。
「この期に及んでまたジョギングだと? 勘弁してくれ」
とおっさんはしかめっ面で言う。かわいくねー犬だ。
それでも最終的にはおっさんが折れた。学校に行けない私を不憫とでも思ったのだろうか。
おっさんはぶつぶつ文句を言いながら私の目のまえでシャツを脱ぎ、下まで脱ぎそうになったから私はあわててバスルームに逃げこんだ。ふつう逆だろう、脱ぐ側がバスルームに入るんじゃないかと思ったけれど、このおっさんには通用しない。やはりデリカシーは期待しちゃいけないようだ。
おっさんが先に出て、マンションのエントランスを出るまえに周囲を見まわす。朝六時半、七月の太陽はすでに高いが道に人通りはまばらだ。風がよどんでいる。
走るまえからじわじわ肌に汗が浮かぶ額をぬぐって、ガラスのドアから飛び出し走りだす。
大通りをわたるところでちょうど信号が青になる。
アスファルトを蹴るたび背骨やひざに反動が響くけれど、それさえ心地いい。小学生のときからずっと毎朝つづけているからすぐからだは走ることになじむ。
ママに引きずり出されるみたいにはじめたジョギングだが、私は好きだ。走ると不安とか悩みとかいろんなもやもやが消化されていくような気がする。
今朝は怪しい連中は姿を見せなかった。
おっさんは今朝もやっぱり息を荒くし汗だくになって、見てられないからさきにシャワーを浴びてもらう。二日シャワーを浴びてなかったわけだし。やることのない私はおっさんの簡易ベッドと化したソファに座る。部屋には工具と、作りかけの爆弾みたいなのがいくつも置いてある。私ん家で戦争でもおっぱじめる気かと呆れたくなるけど、もしほんとにこれが我が家で使われる日がくるのだとしたら、笑いごとじゃない。
それにしても学校に行かないとなるとひまだ。しかたないから勉強でもするかと問題集をひらいて、数学の問題を解きはじめる。集中して一問解いたところで、もうママが覗きこんで先に問題を解いてしまうなんて心配はいらないんだと気づく。ひとり苦わらいして、二問めに取り組んでいるうちうしろから声がかかった。
「そこはちがう。堂々めぐりになるだけだ。枝葉にまどわされずに解への最短ルートを行け」
振りかえるとシャワーを終えほかほかのおっさんが立って、うしろから問題を覗きこんでいる。息が止まるかと思った――いっしゅんママかと錯覚したのだ。かってに横から覗きこんで先に解いてしまって、頼みもしないのにアドバイスまでよこすのがママの悪いくせだった。
「かってに問題を覗かないでよ。見てもかってに解かないで、最悪でも口出さないで」
このセリフもなんどママに言ったことか。
おっさんも同類かよ――落ち着いてくるにしたがって殺意にちかいものが心の片隅にわきあがる。在りし日のママを思い出して。風呂上がりのママは往々にしてバスタオルを巻いたままだったりして母娘だけの家でむだに色香をふりまいていたけど、その点このおっさんは下は一応トレーナーを身に着けているとはいえ上半身は素っ裸だ。色気の代わりに、湯気の立つ上半身はいかにも大質量で威圧感をたっぷりふりまいている。
いずれにせよ、いよいよママとおっさんとのあいだにはどこかただならぬ関係の絆っぽいものが見え隠れする。やっぱり恋人だったんだろうか――というか、私の実の父かも知れない疑惑が依然濃厚だ。
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