第19話 方針変更


 ママがこのおっさんに宛て手紙をのこしていたというのを全面的に信じたわけではないけどおっさんの自信たっぷりな顔を見てるとまったく嘘とも言い切れない。とにかくおっさんがママとは旧知の、しかもけっこう深い仲だったんじゃないのという推量は、いまはほとんど確信になっている。

 手紙のことはいったんあきらめるしかないようだ。でもいずれ必ず手に入れて読んでやる、と心に決め、この場は撤退することにする。


 自分の部屋に入って、さっと見まわし留守中まさか侵入されたりなんてことはなさそうだと確かめ、ちゃっちゃと部屋着に着替えてまたリビングに出る。おっさんはあいかわらずソファにふんぞり返って、なにか考えごとでもしているのかこっちを見ない。手紙はどっかに消えてしまっていて、ソファのはしっこに置かれた玉手箱のふたが閉まっているところを見ると、どうやら元のとおりに入れられてしまったのかも。あの鍵を開けるのは私には至難の業だ。おっさんがどうして鍵を開けることができたのか、そういやけっきょく訊いていない。

 昼のあいだじゅう時間はたっぷり持て余すほどにあったわけだが、あの鍵は時間がどれだけあったところで開くものではない。もとから開け方を知っていたとでもいうなら別だが……と考えかけ、そこでやめた。

 やらなければならない仕事がたくさんあるのだ。まずは朝まわしていった洗濯機のなかのものをぜんぶ取り出し順々にたたんで、それからバスタブをさっと流して洗い、豪快に換気して加齢臭だかなんだか知らないけど私やママとは異質な匂いを追い出しにかかる。床の拭き掃除も忘れちゃいけない。

 おっさんはやっぱりふんぞり返ったままだ。下手に手伝うとか言われてもどうせ邪魔なだけだからまあいいんだけど。窓からさす光がちょうど逆光になってておっさんの表情はよく見えない。光と言っても窓のそとはすでに陽が落ちて、夕焼けの残滓と灯りはじめのネオンとが混じりあった、なんとも言えない色だ。

「おなか減ってない?」

 掃除にひと区切りついたところで声をかけると、

「ああ、腹ぁ減ってもう屁も出ねえ」

 とおっさんが返す。私は肩をすくめる。

「時間はかかると思うけど待ってて」

 もちろん急ぐつもりはない。むしろよけいなひと言なんか出す元気もなくなるまで待たせてやれって思ってる。

 そもそもなんでこんなおっさんに餌付けしてやんなきゃいけないのかって話だ。美麗な青年だったらいいってわけではないが、せめてもうすこし可愛げのある反応してくれる男ならごはんの作りがいもあろうものを、よりによってこいつかよ。呪いをこめて、じっくり念入りにつくってやるさと心に誓う。


 暗い決意を秘めて私はエコバッグから鶏肉と玉ねぎを取り出し、冷蔵庫からはにんじんとじゃがいもを取り出して、皮むきのあとざくざく軽快に切っていく。今日はカレーをつくるのだ。なにが起こっているのかも、なにをどうしたらいいかもまるきりわからないで悶々しているときには単純明快なカレーで元気を出そうってわけだ。

「買い物してきたのか」

 おっさんはソファからぎりぎり届く声で訊く。今日もインスタントじゃあんまりでしょって私は返す。

 言ったとたんにそうか、私は昨日の晩ごはんが不本意で仕方なかったのだと気づいた。自分が食べるだけならいいけど、ひとに食べさせるのにインスタントラーメンとは、私のプライドとホスピタリティにかけて、これではいけないと自分を許せないでいたのだ。だから今日のカレーはリベンジだ。そうとくれば市販のルーに頼らずスパイスからきっちり本格的につくってやろうじゃないか。家の壁も突き抜けフロアじゅうエスニックな魔法の香りで満たしてやるさ。

「今日は襲われなかったんだな?」

 黙りこんでカレーに没頭しているところへおっさんが訊く。

「うん」

 と玉ねぎを炒めながら答える。学校でも、電車のなかでも、一番心配していた駅から家への帰り道でもおかしなようすはなかった。おっさんが守っているからあいつらあきらめたのかな――というのは甘い考えかもしれないけれど、ちょっと私はほっとしている。

「明日から学校ガッコは休みだ」

「え」

 これは不意打ちだった。はずみで私はターメリックを予定の倍ほどぶち込んでしまった。おいしいカレーのためのリカバリーのシナリオをいくつか急いで考えながら、いま大事なのはそこじゃない、ひとまず料理の手を止めろってべつの私が叫んでる。

 学校は休み。

 学校は休み。

 学校は……

「やだよ、私は学校に行く、行きたい、今朝は行っていいって吾妻あづまサン言ったじゃん、あれほんの今朝のことだよどうして急にそんなこと言うの? 私は学校に行きたい」

 私の主張はじっさいはこの十倍ばかりもつづいた。言いつかれたところで口をとじ、ぜったい譲らないって目でおっさんを見つめる。おっさんはおとなしくさいごまで聞いて、私の視線を真正面から受け止め、だが感情を揺らすことを自ら禁じているかのように表情はつめたい。

「事情が変わった。学校も、行き帰りも安全ではなくなった。おれはおまえを守らなけりゃならねえ」

 私を守ると言ったおっさんの声は冷静でかわいている。


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