第18話 手紙


 学校からの帰り、ちょっと警戒していたけど特段ヘンなことは起こらず無事に家まで帰りついた。

 ドアを開けると夕陽がさすリビングでおっさんがうたた寝している。起こさないよう私はしのび足でリビングをよこぎり自分の部屋に向かう。横目でおっさんのようすをうかがうと、ひざのうえにある玉手箱がいまにも落ちそうになっている。

 おっさんが占領しているソファのまわりはパソコンやら本やらが散らばっていて、私は見覚えないからきっとおっさんの持ってきたものなんだろう。そいつらを踏まないよう遠まわりし、もう一度なんの気なしに玉手箱を見て私は驚愕した。

 玉手箱が開いていたのだ。開けてはならないと言い聞かされ、開くことはないと無批判に信じていた秘密の玉手箱が。

 じつのところママの脅しにもかかわらず私はときどき玉手箱の鍵をいじくったりしていたのだが、そのたび鍵の頑強な拒否に撥ねつけられて、やっぱりこの鍵は開けるべきでないのだとの思いを新たにして育った。ついこのあいだも久しぶりに手にとって、試しにまた鍵の数字盤をまわしてみたが、こりゃとても開けられないやとあらためて確認したのだった。

 数字盤というのはよくある0から9までの数字を三列組み合わせるあの単純なものではなく、カジノのルーレットみたいな円盤がふたつ並んで左右に動かす、たぶんランダムにやったら無限と思えるほどの組合せがあるんじゃないかという複雑怪奇な鍵だ。ママよりほかに、これを開けられるひとはこの世にいない。そう信じて疑わずにいた玉手箱が、開いているのだ。


 言葉にできない、あまりの衝撃だった。ほとんど意識が飛んでいたのだろう、気づけば私のかばんは指からすり落ちてしまって、床にぶつかったかばんはけっこう耳障りな音をたてた。その音は平和そのものだった夕べのリビングの静寂しじまを破り、はっと目を走らせた先ではおっさんの平和なうたた寝までも破っていた。

 目覚めたおっさんと私の目が合う。私は妙な緊張感をかくしてうすら笑いを浮かべる。おっさんは状況を理解したらしい。

 さりげなく近寄り手を伸ばしたつもりの私より一瞬はやく、おっさんは玉手箱を掴んで私の手から遠のけた。さらにそこらに散らばっていた紙をあつめてまるごと背中とソファとのあいだに匿してしまった。

 いまとなってはかばんを落としてしまったのが痛恨のミスだ。悔やんでも悔やみきれないが、だがこれですべてが終わったというわけではない。

「開いたの? なにが入ってたの?」

 我ながらかなりな勢いで前のめりにおっさんに迫る。早口に訊く私と対照的に、おっさんはなかなか口を開かない。焦れて私はおっさんを睨むけど、じいっと見返す目の光にかえってこちらが負けそうだ。

 この金縛りみたいな状態を脱け出すためにはなにか言わなきゃと思うのだがこの場にふさわしい言葉が浮かばない。言葉のないままむりやり口をあけたとき、

「鍵は開けられるためにある。開くのはとうぜんだ」

 おっさんはそう言って、玉手箱を差し出した。意表を突かれた私は優勝カップでも受けとるみたいにうやうやしく受けとった。なんとも間抜けなしぐさだがじっさい私は初めて玉手箱の中を見るのを、世界の秘密の深奥をうかがい見るような期待と畏怖とで満たされていたのだ。

 神妙な思いで覗きこんだ玉手箱の中は、のっぺらなつくりで味もそっけもなかった。材質は外とおんなじ金属製で、カラッポの空洞がにぶい光を発している。

「中身は?」

 私は噛みつくみたいにおっさんに尋ねる。おっさんはうるさそうに眉をしかめて、

「手紙だ」

 背中から紙をぐちゃぐちゃ引っぱり出すと、私の目のまえでひらひらさせる。手紙はざっと十枚ぐらいが雑に束ねられていて、おっさんが振るたび衣ずれみたいな音がする。手書きじゃなくってパソコンからプリントした文字らしい。

 ママの遺したものなら娘である私が読むのはとうぜんの権利と、そのつもりで私は手を伸ばす。だがおっさんはすっと手を引っこめまた背中のうしろに手紙を戻した。

「こりゃかなでのもんだ、渡すわけにはいかねえ。ここには奏の素っ裸が入ってるからな」

「素っ裸ぁ?」

 おもわず声のトーンがふたつぐらい跳ね上がってしまう。頬だって二割増し赤くなってるはずだ。

「べつに写真があるわけじゃねえよ、ただのたとえだ」

 おっさんはめんどくさそうにそっぽを向いている。

「写真はねえが、他人ひとには見せねえあいつだけの秘密だ。それを本人の許可なしに他人に見せる権限はおれには……おれだけじゃねえ、だれにもそんな権限はねえんだよ」

「じゃあそれだったら吾妻あづまサンだってダメじゃん、読んじゃいけないじゃん。ずるいよ自分だけ」

 ママの秘密なら私だって読みたいし、それに私の方がおっさんよりよほど知る権利があると思う。だがおっさんは、しれっと言った。

「おれはいいんだ」

 あまりに自信たっぷりに断言するから不覚にも私はいっしゅん納得しかけてしまった。でもすぐ思い直す。

「いやダメでしょ」

「この手紙はおれ宛だ。開けるまえからわかっていた」

 開けるまえからわかるわけあるか、とつっこみたいが、なにを言っても言いくるめられそうな気がする。そう思わせる雰囲気がおっさんにはある。それはママにも感じたもので、だからふたりのあいだには通じ合う心があるのかもなあ……という気がしないでもないのだ。


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