第16話 ジョギング
そこでおっさんとの同居を断る道を完全にあきらめたわけではなかったけれど、ママが許可しているという話はかなり効いた。しかもこのおっさん、人を説き伏せることにかけちゃママとタメ張るんじゃないかってほどで、とうとう私は押し負けてしまった。
すっかり疲れ果てて私はとぼとぼ寝室へ向かう。まだ眠るにはちょいとばかり早いが、こころもからだも休めて癒やしてたっぷり甘やかせてやりたい。
「風呂はいいのか?」
背中から無神経な声が追ってくる。私は投げやりに返す。
「朝、走ってからシャワー浴びるから。吾妻サンは、入りたいなら好きにして」
「走るだと?」
「そりゃ走るけど?」
あたりまえじゃんって感じで返すと、おっさんはすこし考えこむような顔をする。よく見ると、まだ手にはママの玉手箱をもっている。
「…………ダメだ、走るのはやめておけ」
しばらく考えたあとおっさんがしずかに、でも断固たる調子で言う。どうやら論戦の第二回戦が勃発しそうだ。こんどこそは負けられない。
「なんでよ。私はぜったい走る。走らないでいると調子が狂うの。ここに泊めてあげるってのはこっちが譲ったんだから、こんどはそっちが譲る番」
断固走るんだって決意を込めた目でおっさんを真正面から見すえると、おっさんはぼりぼり頭を掻いた。
「……おまえ、状況がわかってるのか?」
「わかってるわけないじゃん」
私は即答だ。
「なにも知らないでいいって言ったの吾妻サンでしょ?」
私のなにかのスイッチが入ったみたいで、眠気はどっかへ飛んでいってしまったらしい。
「おまえってやつは……命がかかってるってぇときにおまえは譲るとか譲らんとかでモノゴトを決めるのか? 今日の騒ぎみたいなことがまた起こったら――」
「吾妻サンが守ってくれるんでしょ?」
さいごまで言わせず私は返す。ひるんだところへすかさずとどめだ。
「私はひとりでも走るけど。どうしても心配だったらついて来てもいいよ」
だまるおっさんをリビングに置いて、私は寝室のドアをしめる。しめたとたんにガッツポーズだ。一本とってやったぜ。
朝六時前に着替えてリビングに出ると、ソファのうえでおっさんが眠りこけていた。
音をたてずに残り物のパンをかじって外へ出ていこうとすると、うしろからおっさんが呼び止める。
「ほんとうに行くのか?」
昨夜とちがって高圧的でない、おだやかな声だ。
「うん」
と私も素直に答える。おっさんはソファから起きあがって伸びをする。
「ついてってやる。一分待て」
そして私がパンとオレンジジュースを片づける一分のあいだにほんとに準備完了させた。
外は六時でもう暑い。それでも走っていると風を感じて気持ちいい。道も公園もひとはまばらだが虫は元気だ。昨夜の夕立の水けが葉っぱや土に残っていて、靴を濡らす。
やっぱり走るのはいい。
私のななめうしろを走るおっさんの息が乱れている。いつもよりペースを上げたのは意地というか意地わるというか、ついムキになってしまったというのがあるのだけれど、このひとにはちょっとキツかったかもしれない。とはいえちゃんとついてくるのはいい年したおっさんにしては立派だと思う。
考えてみれば朝のジョギングをだれかといっしょに走るのはもう五年ぶりぐらいだ。私が中学に上がったあたりでママはついてこられなくなったから。私にペースを落とすよう頼むでもなく、かといって自分が努力してペースを上げるでもなくあっさり伴走をあきらめたママは、どこまでもマイペースなひとだった。ずいぶん振りまわされたものだが、よく考えたらいま私のすぐななめうしろを走っているおっさんも、ママに振りまわされてる口なのかも。そう思うとちょっとだけ親近感がわかないでもない。
さっきからふたりともひと言もしゃべらず、ひたすらまえへまえへと走っている。
公園の出口が見えてきたところで私はいっしゅん足を止め、とたんにバランスがくずれてあやうくこけそうになってしまった。
その私の腕をおっさんが支えて、
「そのまま進め」
とみじかく言う。低い声だ。
その声に押されるように私は公園出口へまっすぐ進む。「車輛進入禁止」と書かれた門柱のよこを通り抜けるしゅんかんちらっとよこに視線をやると、見覚えある男がこちらを見ていた。あのノッポだ。額にあざを見つけると昨夜のことが思い出されてぞくっと悪寒が背中を走る。こんなときはおっさんがそばにいてくれるてほんとによかったと思う。しゃくだけど。
不覚にも足がふるえている。走っている気がしない。いまはおっさんがペースメーカーだ。
「安心しろ。いまはやつらは様子見だ。おれたちがどう出るか、測りかねている」
走るあいだにときどき発せられるみじかい言葉が、太陽でからからに乾いたみたいだ。その声を聞いていたら不安はちいさくなって、私は心とからだのコントロールを取り戻していく。気づけば足のふるえも止まっている。いつの間にやら道に人通りは多くなってるから、どこかでだれかが妙なふるまいをしたとしても私は見分けられないだろう。でも気にしない。
ノッポはほんとに様子見だけだったのか、そのあと特段おかしなことは起こらないまま、私たちはマンションに帰ってきた。おおきく深呼吸する。さっきの不安はどこ行ったのか、危険が去ったいまはただ汗と疲れが心地いい。ただしおっさんの息はあがって、やせがまんしているのがまるわかりだ。
十一階へのエレベーターに乗りこむとおっさんが訊いた。
「明日も走る気か?」
もちろん、と私がうなずくとおっさんは明らかにがっかりした顔で、
「自転車がいるな」
とつぶやいた。
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