第13話 おっさん


 いざというとき戦えるように、というより逃げだせるようにか、無意識に私は立ち上がっていた。たぶん本能的に。こころもち身がまえる私を吾妻あづまサンは見おろし、

「敬語はやめろ」

 としずかに言った。

「いまから敬語は禁止だ。家族どうしで敬語は不自然だろ」

「家族?」

 あっけにとられてオウム返しする私はばかみたいだ。

「とにかくおまえはおれが守る。家族だからな……叔父と姪だってことにしておこう」

「しておこう?」

 吾妻サンはぞんざいにソファにすわる。いままで私がすわっていた、私の知るかぎり男性が腰をおろしたことなどいまだかつてなかった処女のように無垢なソファに。クリーム色のソファの革にはしわが寄って、心なしかすこし蒼ざめているように見える。

 えらそうな格好カッコでソファにすわった吾妻サンはそっぽを向いて、私とまともに目を合わせない。

「父と娘でもいいんだが……あいつ、夫は死んだとまわりに言ってるだろう?」

 たしかにママは、ご近所さんやママ友たちの前では夫に先立たれたけなげな未亡人という触れ込みだった。その一方で私には未婚の母なのと言ったりパパは世界一の秘密のエージェントだとか妄想じみたことを言ったり、ほんとのところはよくわからない。

 いっしゅん私はもしかしてこのひとが実の父なんだろうかと思って、それはだなあとちょっとげんなりした。

「叔父とか父とか言いますけどね、けっきょく吾妻サンは、ママのなんなんですか? 危険を冒してまで私を守るっていう理由を教えてください」

「敬語」

 と吾妻サンは冷静に指摘し、すこし言いよどんだあと、

「おれは……かなでのふるい友人だ。おまえが生まれるまえの」

 と言った。言いながらまたしても目をそらしているのがどうにも気になる。私のおなかがぐううとまた鳴った。こんなときに。

 吾妻サンがぶっと噴き出し、いじわるな笑顔をこっちに向ける。そこにはこれで面倒な話題を切り上げられてラッキーとでもいう狡い思惑が見え隠れしてなんだか腹が立つから黙ってくるりと背を向け、まっすぐキッチンへ向かう。その背に、

「恥ずかしがるこたねえぞ、生きてる証拠だ。それにじつはおれも腹へった」

 と声が追っかけてきたけどぜんぶ無視だ。


 そのまま私はずかずか歩いて冷蔵庫のまえで止まった。

 とりあえずわかったことがひとつある。実の父かどうかは判断保留するにしても、吾妻サンはまちがいなくママの身近な人だった。その点ではあの暗い目の男よりだんぜん確かだ。吾妻サンには、ママと同じ匂いがある。もちろんほんとの匂いじゃなくて、そこはかと匂う雰囲気が。決め手は……下ネタだ。(なんてこった)。

 だまっていれば上品な奥サマ風のママが、息をするように自然にすらすら下ネタを吐き出すのをずっと不思議に思っていたが、あれは十中八九、吾妻サンの影響だ。あるいは逆に、ママのおかげで吾妻サンがこんなに下ネタオンパレードになってしまった可能性もなくはないのだが、そこはママの名誉のためにも、源流は吾妻サンの方にあるということにしておこう。


 今夜の晩ごはんの材料はすっかりやつらにぶん投げてしまったから冷蔵庫のなかはすっからかんだ。

「ラーメンでいいですか?」

 インスタントなら買い置きがあったはずだと棚をあさりながら訊く。

「ラーメンならみそラーメンだな」

 そんな細かい注文は聞いていないしどうでもいい。てゆうかこいつのごはんまで用意してやる義理はないんじゃないかといまになって気づいて、あ、でも公園では助けてもらったんだったと考え直す。それほどのおおきな恩をあっさり忘れてしまっていたのもこのひとのもつ雰囲気のおかげで、ある意味人徳と言えなくもない。もちろん負の人徳だ。このナチュラル下ネタおっさん……やはりママに似ている。

 と思って振りかえったら、吾妻サンはやっと靴を脱いで、ついでに靴下も脱ぎちらかして、ソファのうえにふんぞりかえっている。亭主関白かよ。

「吾妻サン、靴脱いだんだったら玄関に持ってってもらえます? それと靴下、そいつもどっか私の目につかないとこに置いてくれませんかね。吾妻サンは平気かもしれないけど、私はそんな汚いのが視界に入るとごはんを美味しく食べられなくなるんです」

 私がイヤミったらしく言うと吾妻サンは

「敬語」

 とまたまた注意した。

「それから、『吾妻さん』じゃなくて、『おじさん』だ」

 さんざん下品な下ネタを連発しまくっておいて、どの口が『おじさん』なんて上品な呼び方をしろとほざくか。『おじさん』じゃなくて『おっさん』だ。こんなやつ『おっさん』でじゅうぶんだ。

 とっとと出てってもらいたいとこだが、ここに泊まるのは不許可だと言ったのをおっさんは都合よく忘れているようだ。ママと似た雰囲気をもつってだけで、私はもう追い出す自信をうしなっている。口にかけては、ママに勝てたことはいちどもなかった。


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