第9話 接触


 学校帰り、駅前のいつものスーパーで買い物をする。ママがいたころから変わらぬ習慣だけど、ママが入院して以来食材の分量がひとり分に減ったのがおおきな違いだ。まだ慣れずにうっかりするとふたり分買ってしまいそうになる。気づいて棚に戻すときはなんとも言えない、まるで乾いた砂つぶがざらざらっと喉から肺までこすっていくような心地がする。これがかなしいってことなんだろうか。


 みじかい商店街を抜け、公園よこの大通りを歩くと、小学校低学年ぐらいの女の子とお母さんが手をつないでまえを歩いている。コロッケのにおいがするのは、たぶんお母さんの右手にもった袋から流れてくるのだ。商店街のお肉屋さんが揚げてくれるやつにちがいない。ときどきママも買っていた。なつかしいのは、味だけじゃなくってたぶんママとの思い出がセットだからだ。また買おうかな、と考える。いやどうせならいま買うか。ほんの百メートルばかり戻れば買えるんだし。

 三歩歩くあいだに心を決めた。足を止める。もう口のなかはすっかりコロッケ味だ。振りかえり、お肉屋さんを視界に入れる。するといたのだ、コロッケを揚げているそばに、あの暗い目がまたしても。


 とたんにママの甘い思い出は雲散霧消する。なんてこった、コロッケはやめだ。

 すっかり気分をそこねて踵を返すと、目のまえに背のたかい男が立っていた。見あげてしまうほどに背のたかい、黒い服着たノッポの男。むろん知らないひとだが、男は私をじっと見ている。

 内心どきっとしたのをかくしてその右よこを通り抜けようとしたら、男も一歩右に動いて私の進路をふさいだ――通せんぼするみたいに。私は男をもいちど見あげて、顔をよく見る。すると男はやっぱり私を見おろしている。つめたい目をして。からだじゅうの血がすっかり冷えきる心地がする。これって危険じゃない?

 と思うと同時に男が手を伸ばした。私は反射的に身をかがめて魔の手をよけると、ガードレールを跳びこえ真よこの道路に飛び出し走りだす。怒りたっぷりのクラクションがそこらじゅう派手に鳴りわたるけどゆるしてちょうだい。ああ、右手の通学かばんと左手のエコバッグがじゃまだ。

 道路を渡りきったところで左右をたしかめると、右手にはあの暗い目がこちらに向かってくるのが見える。昨日からまとわりつくあの不吉な暗い目の光が私をまっすぐ見てもう目をそむけない。左手にはノッポが迫る。声をかけたのは暗い目の男の方だ。

夷守えびすもりさんですね」

 男の声は意外とおだやかだ。唇には笑みを浮かべて、でも目は笑っていない。

「お母さまから伺っています。どうか一緒に来ていただけませんかね」

「母から?」

 ふっと私はすこし気をゆるめる。ここは迷いどころだ。男ふたりは左右からゆっくり近づいてきて、もう手が届きそう。逃げるべきか、話を聞くべきか。

 周囲を見まわすと、なにごとかとこっちに目を向けていたひとたちは、もう興味をうしなって歩きはじめている。しょせん他人は他人で、いざとなると頼りになんないものなんだよなあ……これがこの世の真理なんだろうかなんて頭のはしっこで考えちゃってるあたり、ちょっと混乱しているのかも。

「さあ、あちらに車を用意しています」

 ひよっこの女子高生相手にやけに口調がていねいだ。これは警戒レベルを上げるべきだぞ、と私は自分に言いきかせる。

「……いやだと言ったら?」

 確信はもてないが素直についてっちゃあぶないと虫がしららせるのだ。

「こまったお嬢さんだ」

 暗い目の男が言う。落ちくぼんだ眼窩の底で、黒目が暗く光っている。

 うしろで関節をぽきぽきっと鳴らす音が聞こえて、振りかえるとノッポの男は肩をまわしている。やな感じ。

「あんたのやり方はまだるっこしいんだよな。さっさと車に積んじまおうぜ」

 おいおいその言葉は不穏だぞ。なんだか雲行きがあやしい。ノッポの言葉の意味を私は吟味する。心もからだも緊張でかたくなる。

「待て、そんなだからおまえはいつまでたっても独りで任務を任されないんだ。あくまで善良な一市民としてだな――」

 話すとちゅうで男は息を飲んだ。私がうしろのノッポ目がけて思いっきりエコバッグをぶん回したからだ。エコバッグのなかのじゃがいもたちが的確にノッポのあごをとらえたのが手応えでわかる。そのまんま勢いでバッグを暗い目の男に投げつけ、公園のなかへ逃げこむ。薄暮の公園が私を迎え入れる。

 子供のころからなじみの木々が林立する道はちょっとした迷路になってて、やつらよりだんぜん詳しい私の方が有利なはずだ。林を抜けた先には交番があって、そこに逃げこめばきっと助かる。


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