第8話 本棚
シャワーを浴びて、だれもいないリビングで気兼ねなくあけっぴろげに着替えをしながら、なんの気なしにママの寝室を覗いた。すこし浮かれて、ダンスっぽくからだを動かしたりなんかして。
とうぜんと言おうか視線は自然と『ママの玉手箱』へも向かったわけだがそこでふたたび私はあれっ、と首をかしげた。
位置が違う――ような気がする。朝起きたとき取り出して、それから本棚に戻したときはぐいっと奥の方まで押しこんだはずなのに、いままた中途半端に前に出てきているような。でも確信はもてない。自分で思っているより適当に押しこんだのかもしれないし。
ママがやってきて動かしたのかな。これは触っちゃだめって言ったじゃない、忘れたの? とかなんとか言ってからかうために。
しばらくダンスの途中のポーズで本棚とにらめっこしたあと肩をすくめて、
「まさかね」
あるじのいなくなった寝室で声に出して言った。ごくそっとちいさな声で、もちろんだれに聞かせるわけでもなく。
「心配いらない」とママは言った。告知されたときも、入院するときも、死んでしまう直前だって。
ママが死んだら身寄りのなくなる高校生の女の子が、天涯孤独のひとりで暮らすってのに心配いらないと言い切るとはさすがママだと思ったね。
たしかに準備は万端だった。
ママが病院で息を引きとったとき、病院の事務員さんがとことこ出てきてちょいちょいっと私を部屋の片隅に引っ張ると、心得顔で役所の手続きから葬式までぜんぶの手順を説明した。
「なにも心配いりませんよ」
事務員のおばさんまでおんなじことを言うのかと私は思った。おかげでママの死を悲しむひまも悼む余裕もなかった。
なんにも考えられないでいる私が事務員さんの用意してくれた書類にぽんぽんハンコを捺してるうちにお通夜から告別式まで葬儀一式の注文は完了し、ママは棺に納れられていた。
告別式に先生や級友たちがどやどややって来たのも、事務員のおばさんが学校に連絡を入れてくれたからだ。
あとから礼を言うと彼女は、胸のまえでおおげさに手を振った。
「お礼なんてそんな、ぜんぶあなたのお母さんから頼まれていたとおりにしただけなんですよ、ええ、あたしはそのとおり従っただけで、ほんとにねえまだお若いのに、それにあんなにしっかりしてらして……それがお亡くなりになるなんてねえ、こんなかわいい子を残してまあほんとにお気の毒な…………」
気が遠くなるような彼女のながいながいおしゃべりは、前日からほとんど寝ていなかった私をほとんど失神させかねないほどだったが、その場はなんとか耐えた。ただ最初の方のセリフのほか頭に残っていないのはどうかご容赦ねがいたいと思う。
つかれ果てて家に戻ってくると、リビングのテーブルのうえには銀行通帳にハンコに保険証やら家の権利書やら、つまり私に遺された財産一式がひとつのバインダーにまとまっていて、おまけに役所の諸手続きの指示まで懇切丁寧な図解入りで書いてあった。
銀行に入っているお金は、切り詰めれば私が大学卒業するまでの学費と生活費として十分もつだろうと思える額だった。
あまりにママらしい用意周到ぶりにおもわず苦笑してしまった。
そして、そんな実務面さえ整えておけば私がひとりで生きていけると考えているあたりもやはりママなのだ。「人はパンのみにて生きるにあらず」って言葉はママにみっちり言い聞かせるため二千年もまえから用意されていたんじゃないかと思ってしまう。
まだ十七の未成年だとはいえ、保護者に頼りたいってほど子供じゃない。ただ、ひとりでいたくない夜にばかな話をいっしょにしてくれる仲間がいないことに耐えられるほど大人じゃない。それにひとりで家にいるってのは経験してみるとけっこう不気味でぞっとするのだ。『玉手箱』が動いたように思えるのも、そんな心ぼそさが生み出した勘違いなのかもしれない。
かばんをとって、私はぶんぶん首を振る。
「のっけから心配ばかりだよ、まったく」
また声に出して言って、玄関のドアを開ける。私の文句にもうママは答えてくれない。
「そりゃやっぱりお母さんが来たんじゃないの? 霊になって」
「なんであんたまた話に割りこんでくるかな?」
「その箱になにか気がかりが残ってるとかさ。それかこの箱を開けなさい、ってメッセージかも」
「箱のなかに人骨が入ってるとか?」
「やめてよ、ぞっとするじゃん」
「やっぱ夏は怪談じゃんねえ」
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