第7話 習いごと
柔道の道場には小学校に上がると同時に通いはじめた。小学校三年生のときに空手が加わり、つづいて剣道、と三つの習いごとをかけもちした。ぜんぶママの決めたことだ。
さいしょ柔道だけやっていたころはそれなりに楽しかった。友だちはたくさんできたし先生はやさしかったし、勝ち負けとかよりわいわいみんなで遊びはんぶん、からだを動かすのが好きにもなっていた。
空手をはじめたときも、ちょっとからだがきついとは感じたけれど、柔道では禁じ手である突きや蹴りが新鮮で楽しいというのが勝っていたし、まあ問題はなかった。するとママは調子にのってそこに剣道まで追加したのだ。さすがに私はうんざりした。剣道の防具が重たく窮屈だったりつんとくる匂いがしたりしたのも理由のひとつかもしれない。
もうひとつ問題は、それなりに腕が上がってきたおかげでときどき大会に出場させられるようになってきたことだ。
私にはどうやら闘争本能が乏しいというか、相手を倒しぎったぎたにやっつけてしまった方が勝つという競技に情熱を感じることができない性質のようなのだ。ひとをより傷つけた者ほど偉くて褒められるって、それどうなの? と思ってしまう。
けっきょく中学を卒業するときやっとこの三つの習いごとからも卒業したのだが、そこに至るまではけっこうな母子バトルがあった。
さいしょに辞めたいと言ったのは中学校に上がるときだ。
週五日の稽古で乙女の玉のお肌に生傷は絶えないし、汗くさいし、乱暴な女だってまわりからレッテルを貼られちゃうし、だいたい生来好戦的でない私に格闘技はまるきり向いていない。ってかなりな剣幕で主張する私を、ママは巧みにはぐらかし、またやさしく諭し、あるいは私の未熟を突いて、あえなく私はまるめこまれてしまったのだった。
なぜママがそれほど熱心に私を格闘技に打ちこませたのかはいまもってわからない。私の練習のようすや試合を見まもりはしても、かのじょ自身はけっしていっしょに練習しようとはしなかった。私以上に格闘技に不向きな性格していたし。
初めての主張はあっさりいなされてしまったわけだが私の戦いはそこで終わるわけもなく、学年が上がるにつれ何度も戦いを挑み、その都度だんだんに戦火は激しくなっていった。
とはいっても激しいのはもっぱら私の方で、ママは淡々と冷静に応じてこんこんと口説き、けっきょく私の方が引き下がることになるのだけれど。その落ち着いた口ぶりがまた憎たらしくって私は憤懣やるかたなく、毎度どすどす床を蹴り自室に戻るのだった。
格闘技向きな性格じゃないってことは別にしても、からだに変化があらわれつつある思春期女子たる私が、男子となかなかハードな身体的接触をするのはかなり抵抗があったのだが、ママはまったく無頓着だった。
男子は男子で、遠慮する風に私に触れるのを避ける子もいれば、一方でわざと胸のあたりを狙ってくるようなヤツもいる。
「いいじゃない、減るもんじゃなし。もしかしたらおっぱい大きくなるかもよ。その点心配なのよねえ、
とどさくさに私の胸をもんで言ったものだ。
「ド貧乳だと人生苦労するわよ」
ママは同病相憐れむってな風のにがわらいで、首をよこに振った。
ママの心配どおり、いまのところ私の胸はたいして成長していないが私はまったく気にしない、というかむしろ好都合とさえ思っている。なんといっても走るとき邪魔にならないのがいい。
足を踏み出すたびポニーテールに結った髪が左右に揺れる。髪が揺れる分にはぜんぜんいいけど胸が揺れるんじゃずいぶん鬱陶しいにちがいないと思う。
朝だというのに道路はもうじりじり温度が上がりはじめて、つぎからつぎへと汗が浮かんでは流れ落ちる。公園ではおじいさんおばあさんたちが集まってラジオ体操をしている。早朝から出勤するらしい男女を軽快にぽんぽん抜かしているといつまでもこうして走りつづけられそうな気がする。昨日とおんなじ目の暗い男をまた見かけたけれど、見慣れてしまえばどうってことないただの男だ。景色がどんどん流れていく。それぞれてんでに好きなことして、あるいは悩みや秘密を抱えたりなんかしてるんだろう人たちが、そんなことおくびにも出さずただすれちがっていく。
走るのは好きだ。これもママから押しつけられた習慣だけど、こちらは私の性に合うみたい。
格闘技の習いごとやらジョギングやら、やたら運動系の教育に熱心だったママは、一方で塾とか英会話とかお勉強的な習いごとにはまったく興味がないようだった。まわりの子たちが塾通いするのを横目に柔道着を背負って道場へ向かうのは、幼な心にもなんかヘンだなって感じてた。
代わりにママが毎日一問、テーブルのうえに宿題を出すのがうちの習慣だった。小学校に上がるまえからこの習慣ははじまり、ママが亡くなる直前まで律儀につづいた。
その宿題というのがまた独特で、どこかに正しい答えが書いてあったり解法があったりする問題はひとつもなく、そもそも正しい答えなんてものないんじゃないかという問題ばかりだった。
難問奇問だらけの宿題だったが、わりと私は好きだった。二度ともう宿題が出ないのが寂しい。
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