第6話 違和
その夜はなんとなく起きあがるのが億劫というかママのベッドから離れがたくてそのまま眠りについてしまった。そのぶんあくる朝はしゃきっと目覚めた。うんと伸びをして、さあ今日も走るかと左右を見まわしたとき、カーテン越しのうすあかるい寝室の景色になにか引っかかりを感じた。いつもの私の部屋じゃなかったからかな……ってかるく考えてみたけど、そうじゃない。
しばらくママのベッドからかのじょの世界をひとつひとつ確かめるみたいに観察してみて、違和感の正体はこれだったのだと気づいた。ママの玉手箱が、本棚からすこしだけはみ出していたのだ。まるで私に見つけてちょうだいと、存在を主張するように。
『ママの玉手箱』については説明を加えなければならないだろう。
幼いころの私はいまよりずっと愛嬌があって、その代わり落ち着きがなくって、好奇心のおもむくままなにくれとやらかしてしまう、にぎやかな子だった。
ママの部屋にもしょっちゅう侵入して、たんすだろうが本棚だろうが中にあるもの手あたり次第に取り出してはおもちゃにしていた。
その箱はハードカバーの本二冊分ぐらいの大きさで、金属らしいつめたい手ざわりと、にぶい鉛色の光沢と、なにより謎めいた数字にかこまれた鍵穴で五歳児のハートを鷲づかみにした。
本棚の奥の方に大切にしまわれているのを見つけだしたときの胸の高鳴りを、いまでも思い出せる。私はそのとき、とびきりすてきな宝箱を発見した冒険者だった。
この鍵だんぜん開けてやるって意気ごんでいろいろ試してみたけれど、どれだけ弄りまわしてもまったく開くようすがない。だがそこであきらめたりかんしゃく起こして投げ出したりしないのが私だ。
むしろますます夢中になって鍵と格闘するうち、ママがやってきて、
「だめよ」
と私から箱を取り上げた。
私は両手をママの方へと上げて、箱を返してと泣いた。
ママはすましたもので、
「これを開けたら末葉が不幸になっちゃうんだよ。だからぜったい開けちゃだめ」
と言った。
「なにが起こるの?」
と私は聞いた。
「そんなあぶない箱なら、さっさと捨てたらいいのに……どうしてママはずっと持ってるの?」
私の涙はとまっていた。箱と鍵への単純な執着を、ママの謎への好奇心が上まわったのだと思う。ママは自分のたくらみがうまく当たったことに満足したようだった。
「だいじなひとからもらったからね。あぶない箱だってわかってたけど、だいじなひとからもらったから。ママの玉手箱なのよ、これ」
そう言って、ママは玉手箱を胸に抱いたあと、本棚の高いところに置き直した。おかげで私は玉手箱に手がとどかなくなってしまった。
そのうち私の背が伸びて、また玉手箱に手がとどくようになっても不思議とママの言葉は胸にのこって、安易に触れることはできなくなっていた。
ママの大事な玉手箱。開けると不幸になるっていう箱。刷り込みみたいにいまでも私は、ママの部屋に入るたびママの玉手箱を畏怖の思いとともに本棚のなかにたしかめる。
その玉手箱が、おいおいそこじゃないだろって位置にあるのだ。ママは部屋を散らかすことにかけちゃ天才級で、もちろん本棚にもその才は及んだから多少本が乱雑に置かれていたところでいまさら気にもならないが、あの玉手箱だけはいつも慎重に本棚に収まっていた。
ママの入院中に部屋に入りこんだときにも、たしかに玉手箱は抜かりなく本棚の奥に収まっていたのを、私ははっきり見覚えている。
死んでしまう前の三日だけ戻ってきたあいだに、ママが動かしたのだろうか。もちろんそうとしか考えられないのだが、でもどうして? 動かすとこまではいいとして、『ママの玉手箱』に限ってあんなこれ見よがしにはみ出して置くとは、ぜったいママらしくない。
本棚から玉手箱を手にとって、あらためて見てみる。久々に手にする玉手箱は、むかしの記憶にくらべるとちょっと軽くてちゃちで、かつて私を魅了した不思議な神通力はうしなわれていた。まるで持ち主の死とともに魔法が切れてしまったみたいに。
ただ数字のならんだ鍵は、いまもママの秘密を守りつづけている。どんな秘密が入っているのか知らないけれど。秘密を知る手だてが永遠にうしなわれたのなら、永遠に知らないでいるのもいいだろうと思う。でもわざとのように目立つ置き方をさいごにしたママは、むしろ私に秘密を知ってもらいたかったんじゃないかと、さあこの謎を解いてごらんと言っているような気もする。
試すような、からかうようなママの目を思い出しながら、私は玉手箱を本棚の奥の方に戻した。
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