第5話 寝室


 ちいさなころはしょっちゅう入りびたったママの部屋も、思春期になるころから遠ざかっていた。ママが入院して以来すきまの増えた家にぽつんとひとり、空虚をまぎらすように家のなかを探検するうちふらふらとママの部屋に入ったのが、ずいぶん久しぶりのことだった。ほんとうに久しぶりで、しかも部屋のあるじが不在にもかかわらず、ちっともよそよそしさなく迎え入れられたのはそこらじゅうが散らかし放題のままだったせいかもしれない。

 床には服やらかばんやら雑誌やらが無秩序に置かれて足を置く場所をいちいち探さなきゃ歩けないほどで、ベッドにはパジャマがくしゃっとまるめられ、机には読みさしの本が二冊と封筒がいくつかかさねられている。

 まったくこれから入院しようってのに、しかも余命宣告を受けての入院だから帰ってこられるかどうかもわからないというのに身支度というか身辺の整理なんてことを一切しないさっぱりぶりに、ああやっぱりママだとどこか安心したのだった。


 それ以来わたしはときどき思いたってはこの部屋に足を踏み入れるのだが、たぶん心の底に、ママが入院してしまってどうなるんだろうという不安が混じっていたからなんだと思う。ママが死んでしまって五日、いままたこの部屋に引きよせられたのはどうしてなんだろう。不安のせいか? それもあるけど、不安のひと言で片づけるのはちがう気がする。

「五日かあ」

 むわっと昼の熱のこもったママの部屋でひとりつぶやく。もちろんだれも答えない。だがほんの五日前にはここにママがいたのだ。

 ほんの?

 とまた私は問いかえす。五日がみじかいってどうして言えるんだろう。いまの私にとって五日は、ずっとずっと遠い昔だ。

 ママの神がかった洞察力にはときどきハッとさせられたものだが、このときもなにかを察していたのだろうか。病院のベッドで目覚めたママは急に家に帰ると言い出し、医者の制止なんかまるで相手にしないでさっさとこの家に帰ってきた。おかげで私は学校に行ってても気が気でなくて、授業が終わるとダッシュで帰宅するはめになった。だがそれも三日間だけの話だ。

 三日めの夕方、私が帰宅するともうママは荷物をまとめていて、

「さ、また病院よ。急がなくちゃ」

 と言った。

 そのとき部屋の散らかりようはすこしだけマシになってて、すくなくとも床に落ちてた服はすがたを消していた。


 タクシーのなかでもまだママは軽口をたたく元気があった。

「むかぁし私の母さんが言ってたこと思い出したの。家でなんか死ぬもんじゃないってね。検死だとか言って警察がどかどかやってきてさ、家んなか引っかきまわされるしぐちゃぐちゃ聞かれてうっとおしいし、へたすりゃ遺体は解剖されちゃうし、ろくなもんじゃないって。末葉うれはにはそんなめんどうかけさせやしないから安心しなさい」

 ママの父さんが自宅で倒れたときのことだそうだ。私のおじいちゃん。おじいちゃんもおばあちゃんもずっと前に死んじゃってるから私は会ったことないけど。

「だいたいさ、たんすからなにからひっくり返してわたしの下着なんか触られた日にゃもお最悪。きっと若い警官よ。もしかしたら童貞かも。そんなにさ、趣味わりー、色気ねえなあとか思われたらショックだし逆におばはんが色気づいてんじゃねえよなんて言われんのもやだ」

 ふだん散らかし放題のママがなに言ってんのと私はわらってかえし、ママもふふふとわらって目をつぶった。

 病院に着いて、看護師さんにひととおり叱言を言われたあと付き添ってもらって病室へ歩いているあいだに、ママは倒れた。医者が駆けつけたときにはもう息をしていなかった。

 あとから担当の医師せんせいが言うには、癌は末期でからだは弱っているうえ全身べらぼうな痛みで、歩くどころか立つことさえふつうのひとには耐えられないはずなんだそうだ。

 まったく気丈なひとだった。


 寝室には、ママが最後に寝たときのまんまのベッドが置いてある。端でブランケットがずり落ちそうになっている。死んじゃうまえの一時帰宅でちっとは片づいたとはいえ部屋のなかはまだまだカオスだ。

 ブランケットのないとこを目がけて、私はベッドに身を投げ出した。仰向けに、けっこう勢いよく。マットレスにはねる背中を無数のポケットコイルがやさしく受けとめてくれる。天井の灯りまでがなんだかやさしい色だ。ママのさいごの三日間をやさしく照らしてくれた、クリーム色の灯り。

 もっとちゃんと話しておけばよかった。あの三日間も、そのまえも。

 半年前の土曜の夜にママが末期の癌だと告げた日以来、話すことはたくさんあったはずなのに私はママとさしむかいで話すことを避けていた。高校に入る前後でさんざんケンカしたおかげでもともと会話は減っていたしちょっと感情的にも屈折したものが私のなかにはあった。いまさらあったかい母子関係を再構築しようなんて私にぜんぜん似つかわしくないと思っていた。しょうもないプライドだとは思う。でもそれだけじゃなくって、ママが死ぬってことを認めることができずにたぶん目をそらしていたのだ。

 ママのベッドのうえで目をつむる。まぶたの裏に浮かぶのはママの顔だ。あの顔は私になにか伝えようとしていたのだろうか。

 悔いと郷愁が私の足をこの部屋に向けさせたのだと思う。ママの領域のカオスを片づけようという気にはまだなれない。


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