第3話 兆候
男はだれかと待ち合わせでもしているのか、公園の入口のむかいにある喫茶店のまえに立っていた。公園の時計が指すのは朝の七時前だ。この時間、たいていのひとは駅へ向け急ぎ足だったりゴミ袋を出してたり、あるいはジョギングとか犬の散歩とか、つまりなにか目的をもって動いているひとたちばかりだからぼけっと立ち止まっているひとというのはじつは浮いている。
だから私の目が留まったのも自然のなりゆきで、そのすぐよこを通って公園に入とうとしたとき、すれちがいざま目が合ったのもべつだんとくべつなことじゃあない。よくあることだ。よくあることで、いちいちそんなの気にしない。
だが私の心にぞわっとする違和感が迫ってきたのだ。
たぶんそれは男の目の、暗い光から来たのだと思う。うまく言い表せないけどふつうのひととはちがうなにかを奥底にかくしているような、そんな暗い目の色だった。
もっとも目が合ったのは一瞬で、男はすぐに視線を私の顔から道行く車に移した。だから私もこんなのいちいち気にすることはない、さっさと忘れてしまえと自分に言いきかせ、公園のなかを通ってマンションの方へと走るあいだずっと、胸を圧す不吉な追想を強いて頭から追いはらおうとした。
その努力は、ジョギングを終えたときにはほとんど成功しかけていたのだ。なのに、制服に着替えて学校へ向かう途中、駅でふたたび男を見たおかげでぜんぶだいなしになってしまった。男はこんどは駅ナカのドトールでホットドッグをかじっていた。それはそれはみごとに風景のなかに溶けこんでいた。あの暗い目の光も遠目には気にならなかった。
でもなにかおかしくない? 私の違和感はもうマックスだ。改札を入った先にかかる時計を見るとちょうど八時。つまりジョギングですれちがったときから一時間が経っている。その間こいつはなにをしていたんだろう。
だれかと落ち合ったわけではないようだ。ならば、ここにずっといる意味はどこにある?
通勤ならば、とっくにどこかへ去っているはずだ。
不吉な影を見るようにそっと視線をやると、いっしゅんまた男と目が合った。偶然だ。自分に言いきかせてみても、なにか不穏な染みが胸にひろがった。
「なんかこわい顔してるよ?」
「なぁに? 痴漢のこと考えてたの?」
「千佳のこと心配してんのよね」
真由が無責任な推測をする。ほんとはぜんぜんべつのこと考えてたんだけどそうゆうことにしておこう。千佳は千佳でおおげさなため息をもらす。
「あーあ。エビちゃんがついてたら痴漢なんかいっぱつで撃退してくれたんだけどなあ」
「んなわけないでしょ。あんた私をなんだと思ってんの」
私は口をとがらせるけど、もちろん本気で怒っちゃいない。小中高とおしてのながい付き合いだから、私が空手と柔道と剣道の有段者ってこともちゃんと彼女は知っている。
それがぜんぶママの意向によるもので、私がしぶしぶ格闘技をつづけていたことまで知っているのだ。まったく、ママの趣味のおかげで私まで乱暴者と思われるのは不本意千万、この件についちゃママに言いたいことも山ほどあるが(実際なんども文句いったものだが)、死んでしまったいまとなってはこんなことまでなつかしい思い出になっちゃうんだなあ。
「痴漢はともかくさあ、ほんとになんでも言ってよ、困ったことあったらさ。たいしてできることはないかもしんないけど、相談にならいつでも乗るよ」
「泣くー」
泣きまねのポーズだけしておく。そんで互いに目を合わせて、同時にわらう。こんんなばか話してるとしだいと胸に風がとおるみたいな心地がする。吹っ切れたつもりでいたけどやっぱりママがいなくなって胸がふさがっていたんだな。
「相談といえばさぁ」
とすぐさま真由が話を引きとる。
「受験なんだけど、あと半年で」
「それは思い出させないでお願い。ってゆうか相談に乗れるわけないじゃん、ってゆうかせっかく忘れてたのにぃ」
千佳は真由の肩をごんごん叩いて、でも抗議というより泣きそうな顔になっている。半月後にせまった夏休みのあいだが勝負だと先生たちにはっぱをかけられ、心の準備の整っていない者たちの焦りは日々高まるばかりだ。
「エビちゃんはまあ安泰なんだろうけどさ」
叩かれたところをさすりながら真由が言う。受験に関しちゃそれなりにいい位置につけていることを否定はしないが、さすがに安泰ってことはない。日々の努力を怠らないからこその位置なのだ。
「受験かあ」
と私はわざとらしくため息ついて、天を仰いだ。天といっても目にうつるのは薄ぎたない廊下の天井だ。創立百年を優に超えるこの学校は、さすがに校舎は建て替えられてるはずだけれどそこらじゅう古びていてちょっと強く突っついたら崩れちゃうんじゃないかってほどだ。
「もうどうでもいいかなあ。あっさり人が死んじゃうこと考えたらもうさ、ちっちゃいよ大学どうするかとか」
これはほんとの本音。
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