リリィ・プラトニック

@takoichiro

第1話

 出会い


 雑踏の天神地下街、藤原史乃は待ち合わせの名所であるインフォメーション広場のからくり時計前に立ち、スマホの画面をじっと凝視していた。1分経過で画面が暗転する、するとすかさず画面をタッチして点灯させる、という行為をかれこれ5回は繰り返しただろうか。会社を出る際、今から10分ほど前にに送った「からくり時計の前で待ってるね!」のメッセージに既読マークはまだ付いていない。「仕事押してるのかな……?出張ついでって言ってたし、やっぱり今日会えないとかじゃなければいいけど……」不安が胸をよぎる。


 スマホのバッテリー残量はとうとう残り2%になった。待ち合わせ時間である19時まではもう少しの時間がある。画面がまた暗転し、慌ててタッチする。こうやって頻繁に画面の点灯を繰り返せば、その分電力を消耗するということは頭で解っていても、今にもメッセージの返信や電話の着信がありはしないかと、画面から目を離さずにはいられないのだ。


 今日が約束の日だったのに――しっかり充電しておくんだった……。後悔が先に立たない。

 重要な企業情報を扱う史の職場では、スマホをオフィスに持ち込むことが制限されている。オフィスに入る前に個人用のロッカーに保管しておく決まりになっているのだが、当然ロッカー内には電源などない。そのため、気が付いたら充電がヤバい!という事は史にとってあるあるの茶飯事だった。


 また、福岡への急な赴任から8か月、毎日を仕事に追われ、気軽に誘い合える友人もまだいない。自然とコミュニケーションツールであるスマホを見る時間は激減し、もともと社交的な性格ではない史にとっても、以前には感じたことのないほどの”着信や通知のない寂しさ”、に慣れつつあった。どうせスマホを開いたところで、食事の誘いやパーティーへの招待なんか届く訳ないのだ――そう自分に言い聞かせながら、スマホの扱いが自然と雑になりつつあった。


 ふと顔を上げ、周囲を見渡す。金曜夜のインフォメーション広場は、待ち合わせや行き交う人々でごった返している。暦も10月に入り、人々は既に冬の装いを始めていた。


 からくり時計が18時55分を指した。あと5分……もし頼りのスマホが待ち合わせ時間前に電池切れしたらどうしよう。――東京からはるばる訪ねて来てくれる親友のポチャに会えなくなるかもしれない、いやもしポチャが仕事の都合とかで遅れるとしたら連絡が取れなくなるかもしれない。数々の不安が史の胸に押し寄せる。せめて待ち合わせ時間の19時まではメッセージも通話も受信可能なよう万全でいなければ、と半ば使命のような思いに駆られ、スマホの画面を常時点灯させるというその無意味な行為を繰り返していた。画面へ目を戻すと、史をからかう様にまた暗転した。


「あ、ちょッ待って!」


 すかさずタッチ、すると今度は画面が一度点灯して「シャットダウンします」との表示が浮かぶ。


「え、待って。早くない!?まだ2%あるでしょーがっ!」


 史の必死の願いもむなしく、スマホはグルグル回転する読み込みマークを表示したあとに暗転、今度は完全に沈黙してしまった。スイッチボタンを押しても画面に浮かぶのは無情なる「バッテリー0%」の表示。


 「ああ、終わった……。折角何か月ぶりに誰かと話せると思ってたのに……」

 胸の中に絶望が広がり、頭の中は「ポチャにはもう会えないかもしれない」という悲観的な思いで埋め尽くされていく。体中の力が抜けて、史は力なく頭を下げた。


 項垂れた史の頭の上で「おッ待ちー!」と甲高い声が響いた。驚いて顔を上げると、髪先をピンクに染めてカラフルなデジタルプリントのダウンを着た大柄な女性が片手を高々と上げてポーズを取っている。

「ポチャ!」 現れた女性に史が勢いよく飛びついて嬉しそうにハグをする。小柄な史がポチャの首にぶら下がる。それと同時にからくり時計が7時のチャイムを奏でだした。


 「よかったー、さっきスマホの電池切れちゃって」


「やっぱりぃ?地下鉄降りて電話したけど繋がんないからさ」とポチャが呆れ顔で笑う。「あんたいっつもそうよねー、ほんと変わんないわねぇ」と言うと、肩に下げた大きなトートバッグを開けて中をがさごそと漁り、モバイルバッテリーを取り出した。

「ほら、これで充電しときな」

 モバイルバッテリーを受け取りながら、史は思わず派手な見た目の猫型ロボットみたいだなと感心した。


 大学の同窓であり、史の親友であるポチャこと古賀直美は、就活で第一志望だった大手キー局にこそ落ちたものの、その系列の制作会社に採用され、今では人気情報番組の一コーナーを担当している。史と同じく社会人2年目にして既にチーフAPの名刺を持たされていた。身長170センチ、体重85キロという大柄な体型の見た目とは裏腹に、その気配りは常に細やかで行き届いている。


 また内気で控えめな史とは性格が真逆にあり、社交的且つアクティブ。SNSのフォロワーは1000人をとうに超えて、その数は増え続けている。そんなスーパーウーマン気味のポチャなのに、不思議と史とは馬が合い、大学1年生の時から数えてかれこれ6年も続く長い付き合いになった。


「出張なのにわざわざ時間作ってくれてくれてありがとう」

「いいのよ、今回リサーチとロケハンだけだからさ。ほんとなら日帰りなんだけど、正月も実家帰れなかったから会社に言って泊まりにしたの。史にも久々会いたかったしさ」

「嬉しい。何食べ行く?美味しいとこ?お店どっか予約したんだっけ?」史が小躍る。

「あ、ちょっと待って、友達もう一人呼んでっから」

「友達?大学の?」

「いや、習い事で一緒だった人で、その人も今福岡で働いててさ、丁度いいから2人を繋げとこって思って」


 ポチャはそう言うと周囲をきょろきょろと見渡しだした。

「習い事なんかやってたっけ?空手また始めとか?」

「いや、言ってなかったっけ?ポールダンスやってるのよ今」

「ポールダンス……へぇ~……」

 史が目線だけで上を見やり、ポチャがポールに絡まる姿を想像する。すると口を開いて、

「ねえ、知ってた?福岡の焼き鳥ってさ、豚バラが主役なんだよ」

「ぶっ飛ばすぞ、てめぇ!何連想だよそれ!」ポチャの剣幕に史の首がめり込んだ。

「ッたくよぉ、あッ!麻美さーん!こっちこっち!」ポチャが来たる待ち人を見付け、甲高い声で呼び掛ける。


 ポチャの目線の先を見るとそこに立っていたのは、周囲を見渡し人を探す体の長身の美人だった。

 麻美と呼ばれたその美人はポチャの声を聞いて振り向くと、手を振り返しこちらへと歩を速める。

 その歩き出しの姿を見た瞬間、史の頭の中で「ドンッドンッ」とバスドラが鳴り出した。重ねて視界はまるで映画のワンシーンのようにスローモーションで流れ始める。

 行き交う人の間を抜けて軽やかにこちらへと駆けてくる美人。髪は黒髪のロングヘアなのにふわりと揺れ、天井のピンスポットに照らされキラキラ輝いている。黒のスーツを体のラインが出るほどのタイトめに着こなし、すらりと伸びた足は跳ねるように石畳を蹴る。その優美な歩き姿に、すれ違うサラリーマン2人組も思わず振り返り、口を開けて目で追っている。


「素敵な人……」思わず史が呟く。


 美人がポチャの前に立つと、ポチャが「うぇーい!」とハイタッチを誘った。

「うぇーい!」と応じる美人。二人の声に続いて、辺りにパシンと小気味よい音が響く。

 史の目の前には、いかにも自由業っぽい派手な装いをした遊び人風の女性と、黒のスーツをビシッと着こなした黒髪の美人の、イケてる2人組が並んで立っている。2人とも見上げるほどの長身だ。その優雅で自信に満ちた振る舞いは、混み合う地下街の中でも自然と周囲の視線と注目を集めていた。


 ――これは……今日はもうダメかも分からんね……。


 史は心の中でそう呟くと、今日の食事の席の配置を早くも心配していた。

 というのも、史は陽キャっぽいノリがあまり得意ではないのだ。いや、むしろ苦手と言っていいだろう。というよりも、生まれてこの方“陽キャ体験”というものがない。そのため、自然に陽キャのノリを演じられるわけもなく、たまに、例えば大学や職場の飲み会などで陽キャの集まりに迷い込んでしまうと、意識を飛ばし、ただニコニコと微笑むだけの人になるのが常だった。


 今日も、もしかしてそんな夜になるのかも――。

 胸の奥に小さな不安が灯る。それと同時にその美人の堂々とした佇まいを目の当たりにして、こんな人はきっとわたしなんかと違って、明るいお天道様の真下で、王道の人生を歩んでいらっしゃるのだろうなあ、と憧れの眼差しでその横顔を見つめていた。


 ポチャが「あ、麻美さん、紹介します。これ史です。今福岡に転勤中で」と史を紹介する。

 麻美と呼ばれた女性は史の存在を認識すると真っ直ぐに向き直り、「こんにちは、はじめまして」と快活に、しかし丁寧に頭を下げた。

 あ、良かった。大丈夫そう……、史の不安が軽くなる。

「こんにちは。よろしくお願いします」史がぺこりと頭を下げ返した。


 続けてポチャが史に向かって麻美を紹介する。

「史、こちら永井麻美さん。さっきも言ったけどポールダンスのクラスが一緒だったの。年は……2つ? 3つ上?」と麻美を見やる。すると麻美がニコッと笑うと、右目の前にピースサインを作る。どうやら2つ上のようだ、と思ったら左手でもピースサインを作って左目の前にかぶせ、ペロっと舌を出した。

「えっと、4つ上……ってことは、今年28歳ですか?」と史が訊ねる。麻美が少し恥ずかしそうにしてその問いに答えようとする前に、ポチャが勢いよく割り込む。

「ね、すんごい美人でしょ?クラスでも皆の憧れな訳よ。ダンスも凄くてさ、こう空中でクルクルっと回っちゃったりして、そんでピタッと止まんの、水平に!んでそっから時計の針みたいにカッカッって刻んでいったりする訳よ!」などと説明しながら、ポチャがポールを掴んでいる体で片足を上げキメ顔をしてみせた。目と鼻の穴がカッと開く。その奇抜な顔と動きに、驚いた通行人の老夫婦がギョッとして振り返った。史はこみ上げる笑いをかき消そうと小さく咳払いをした。


「やめてよ、美人なんて言われたことないし。ってかそんな顔しないし。それに直美ちゃんだってすごいじゃない」

 麻美が笑ながらが、返すようにポチャを褒め出す。同じようにポールを掴む素振りをすると、

「こうポールを掴んでさ、んーと……これもんで足上げて……」……暫く上向いて考える麻美。口を開いて

「ねえ知ってた?福岡の焼き鳥ってさ、メインが豚バ…」

「おめーもぶっ飛ばすぞッ!」

 史は堪えきれず吹き出した。


 「水炊き美味しー! やっぱ福岡って最高ね!」ビルの入口を出たところで麻美が声を上げた。

 ポチャが予約してくれてた水炊き屋は、古びた雑居ビルの一角にある目立たないお店だったにもかかわらず、味は素晴らしかった。福岡産の地鶏を地産の塩と水だけでじっくり煮詰めたというスープは香りが豊かで滋味深く、肉はじっくり柔らかく煮込まれていて、口に入れるとほどけるように崩れる。それでいてしっかりと噛み応えはあって、噛むたびに染み出すそのスープが口の中に広がるのだ。3人ともこんな美味しい水炊きは食べたことがないと言う認識で一致したのだった。

「さすがテレビ業界人ね!」と麻美が腕を組み敵わないという風に頭を振る。

「いやいや、地元の友達から聞いてた店だから」とポチャは照れくさそうに応える。

 史も興奮した様子で、「うーん、私、また来よう。来週も来よう」とブツブツくり返している。


 びゅうという少し冷たい風が吹き、ポチャがふぅと息をつくと「あー来てよかった。今日はほんと笑ったわ」と伸びをする。その声に史も頷き微笑んだ。史にとっては福岡に赴任してこの8ヶ月間、こんな笑ったのは初めての事かもしれない。

 すると麻美がふと声を上げ、「どうする? この後、軽く飲まない? 中洲にいいバー見つけたんだけど」と提案した。

 麻美の提案に対してポチャは「いや〜申し訳ないッ!あたし、母ちゃんが待ってるからさ、そろそろ帰んないとなんだよね」と、ごめんねポーズに恐縮笑顔。続けて「ほら、うち母ちゃん一人暮らしだからさ、帰ったげないとで。正月も会ってないから。それに明日北九空港発の羽田行の朝一便押さえてっから、どっちにしても小倉帰んないとなんだよね」と残念顔で弁明する。

 時計を見るともう21時半。小倉なら博多駅から新幹線で15分程度だが、それでもお母さんが待っているとなると急いだほうがいい時間に違いない。

 史も直ぐに事情を察し「ポチャ、本当に今日はありがとうね。わざわざ新幹線でまで。わたしがいつも友達出来ないって愚痴ってたから……」と言うと、ポチャは少し照れくさそうな笑顔で肩をすくめ、「いやいや、2人に会いたかっただけだし、その目的は達成したし。だから飲みは2人で楽しんで!」とウィンクで返した。

「じゃあ、地下鉄の駅まで一緒に歩こうよ」と、言い出しっぺの麻美が提案し、3人はハロウィンのイルミネーションがキラキラと光る西通りを並んで歩き出す。


 秋模様の夜の街に、先ほどから冬の訪れを感じさせる冷たい風が吹き出した。通りを歩く人々もその風に吹かれるように足を速めている。ハロウィンモチーフのオーナメントも吹く風に揺ゆられ、カラフルなイルミネーションの光りが史たちを照らし、楽しげに笑い合う3人の影も合わせて揺れていた。


 夜の22時前、地下鉄天神駅は帰宅ラッシュの酔客で混み合っていた。

「じゃあまたね! 麻美さん、史のことお願いします! 私の親友でほんといい奴だから!」とポチャが麻美に向かって笑顔で言うと

「こちらこそ紹介してくれてありがとう、直美ちゃん!また近々ね」と麻美が応える。

「OK! じゃあ史、福岡生活楽しんで! 近いうちまた来っからさ」とポチャが史の腕をポンポンと叩いて言うと史は少し目を潤ませながら、「ポチャ、本当にありがとうね」と別れを惜しんだ。

「泣くなって! じゃあ、東京帰るときは連絡してよ!」とポチャが手を振ると、ホームへと降りるエスカレーターに向かう。そしてそのまま振り返らずに、右手を高く上げながらエスカレーターで降りていった。

「あれ、なんかドラマみたいじゃない? 海外赴任の彼氏が去ってくシーンみたいな……」と麻美が笑うと、

「成田かよっ!」と史がすかさず突っ込んだ。

 麻美は吹き出して、「ねえ、史ちゃんってお酒、飲める方?」と尋ねる。

「はい、うち父が底なしで……わたしどうもその血を受け継いじゃったみたいで……」

「いいわね、じゃあ軽く行こっか!」と、麻美が笑顔で尋ねると

「お供いたします!」と史が勢いよく敬礼をした。


 ポチャを見送って2人になった史と麻美は、西通り方面へまた戻ると、少し路地に入ったビルの最上階にある静かなバーに席を取った。金曜の夜とはいえ客はまばらで、エスニック調の音楽が微かに流れている程度。ここなら落ち着いて話ができそうだ。

 大きな窓に面した窓際のソファー席に2人並んで腰を下ろし、ドリンクが運ばれてくると、改めてお互いについて深く語り合い始めた。


 曰く、麻美は日本最大の化粧品メーカー「ショウビ堂」の店舗企画準備室に所属しており、リサーチから店舗の立ち上げまでを一貫して手がけているという。福岡には出店の準備のために今年の4月から半年ほど滞在しており、度重なるプレゼンを経て漸く地元デパートとの出店契約を締結出来たのだとか。現在はそのデパート1階のフロアに、6か月間の期間限定でオープンするショップインショップの開店準備に日夜奔走中とのことだった。

「なんだか大変そうなお仕事ですね」史が感心して聞き入ると、麻美は「史ちゃんこそすごいじゃない。外資のM&A仲介業の方が全然難しそうで大変そうよ。直美ちゃんと同じ大学?ってことは西早大か。可愛い上に優秀なのねぇ」と感心したように頷く。

「可愛いとか、全然ないですよ!優秀でもないです」史がかぶりをぶんぶんと振って続ける。「可愛いなんて、麻美さんみたいな本物の美人に言われると照れちゃいますよ……」と言うと少し酔った赤くなった顔をさらに上気させた。

 麻美がそんな史の様子を見て愛おしそうに微笑む。

 深夜12時を回り、静かなバーに2人きり。打ち解けた空気が2人の間を満たし始めていた。


 その夜の帰り道、紺屋町通りの角で麻美と別れた頃には、時刻は深夜1時を廻っていた。福岡に住み始めて8か月、こんな遅くまで外出して、そして楽しい時間を過ごしたのは初めてのことだった。さらにやっと初めての、その上飛び切りに素敵な友達が出来そう、そんな嬉しい予感に心も弾み、ウキウキしながらマンションのオートロックのドアを開ける。

 史が暮らすこの「ゴルベーザ天神南」は、彼女の勤務する天神1丁目のオフィスから歩いて10分ほどの距離にある。渡辺通りを横切り西へと続く国体道路を渡ると、天神の商業エリアから一転して、住宅街の静かで落ち着いた空気が漂い始める。その一帯には数多くのマンションが建ち並んでおり、史の住むマンションもそのうちの一つだ。

 昭和50年代後期に大手都市ディベロッパーによって建てられた分譲型マンションで、U字型の特徴的な構造をしている。U字の中央部分は吹き抜けの中庭になっており、ガラス張りのエレベーターが最上階の12階まで通じている。各辺には2戸ずつ住居が配置され、1階あたり合計6部屋。左辺の突堤には、鉄骨製の古い非常用の螺旋階段が備わっている。

 建設からかなりの年数が経過しているものの、バブル時代の名残が感じられる豪華な造りと、昭和グランドな雰囲気が漂うレトロな佇まいがあり、古き良きマンションとして人気があった。しかし史としては、内装はリノベートされているとは言え、全体に漂う古めかしさや館内全体の薄暗い照明、そして建築された時代ゆえのセキュリティ面の甘さなども気になっていた。また、非常用の螺旋階段も無数の丸い鉄パイプが格子の連なる古いデザインで、幌が破れていたりなど老朽化も進んでいる。家に帰るのが憂鬱なほど、という訳ではないが、出来るだけ早めには引っ越したいと常々考えていた。

 そもそもこのマンションは急に会社を去った前任者が選んだもので、福岡支店の経理兼総務課長の通称「大阪おぢ」から、ほぼ押し付けられる形で住むことになったのである。

「あっこに住んでくれたらわし何もせんでええんやけどな」とぬぼーっとした顔のぬぼーっとした調子で言われ、交渉ごとが得意でない史は押し切られるような形で鍵を受け取った。今も日々の合間に不動産サイトを覗きはするも、仕事に追われ、まだ具体的な引っ越しの目途は立っていないのだった。

  ほどよく酔いの回った史は、心地よい浮遊感に包まれながらエレベーターを降りると、自室のあるU字型の右辺の廊下へと向かった。廊下はやはり薄暗く、古びた照明が青白く辺りを照らしている。角を曲がるとその先に人影が佇んでいるのが目に入った。

「ん?」と足を止めて目を凝らすと、それは隣室の住人であるご夫婦の、旦那さんの方の姿だった。廊下の端、隣室のドアの前でフェンスにもたれ、中庭をぼんやりと見下ろしながら、初老に差し掛かったであろうおじさんが寂し気に電子タバコを吹かしている。青白い光が上下に動き、薄暗い廊下にほのかにメンソールの香りを漂わせていた。

「あ、こんばんはー!」と史は酔った勢いで声をかけると、急に声をかけられたおじさんが一瞬びくっとして振り向き、「おお……こんばんは」と返した。

「隣のお嬢ちゃんかい、遅いね。こんな時間まで飲んどったとね?若い子は気をつけんといかんばい」と福岡弁ネイティブで軽く叱るようなことを言う。

「えへへ、友達と盛り上がっちゃって……」友達という言葉が史には少し照れ臭い。

「そりゃよかったね」と、おじさんはニコリと笑うと、「でも、飲み過ぎには気をつけなよ」とおちゃらけ怒り顔を作って見せた。すると史がその顔を見てふふふと笑う。

「ありがとうございます。おじさんも、煙草の吸い過ぎには気をつけてくださいね」と返すと

「ははー、こりゃ一本取られたばいね」とおじさんも愉快そうに笑った。

「おやすみなさい、失礼します」小さく会釈しながら史は自室の鍵を回す。

「おやすみ」と、おじさんは小さく手を振りながら中庭に目を戻した。

 ドアを閉めながら、史はふと少し前の出来事を思い出していた。夜遅く、隣室から激しい言い争いの声が聞こえたのだ。おじさんとおばさんの夫婦喧嘩だろうか。物が倒れるような派手な音もしていたと思う。でも、おじさんの方は感じのいい人だしな……。ドアが閉まる直前、目をやると、おじさんは吐いた煙をちらすように、手でばたばたと扇いでいた。



 交友

 翌週は激務で幕を開けた。史が担当している福岡市東区エリアにある冶金工場が、東京の自動車部品メーカーのM&A候補先として挙がり、本社の営業部から「急ぎで資料をまとめてくれ」との指示が朝一で下ったのだ。それから連日、夜遅くまでの作業が続く。「外資なら残業もないとか、楽で高給だって、誰が言ってたの!?」デスクで夕食のおにぎりをかじりながら、心の中で毒づく史であった。

 そんな中、麻美からメッセージが届く。「史ちゃん!今週どっかで暇だったら飲み行こう!中洲にドゥーリスって素敵なバー見つけたの。また美味しいもの食べて飲もう!(^o^)」

 友達から顔文字付きのお誘いメッセージが届くのは久しぶりのことだった。そして福岡でこんなふうに気軽に誘ってくれる友達ができたことが、史にはとても新鮮で、嬉しくも思えた。

 しかしメッセージを眺めていても今週の予定が全く見えない。ただただ終わりの見えない仕事に追われ、連日長時間に及ぶ残業が続く。なかなか返事を返す余裕もなく、もどかしさだけが募っていく。

 そして、ようやく迎えた週末──。


「史ちゃん、今週忙しかったんでしょ?誘ったりして迷惑じゃなかった?」

 乾杯して一息つくと、麻美が少し申し訳なさそうに聞いてくる。

 史は慌てて頭をぶんぶんと振ると

「全然迷惑じゃないです!誘ってもらえて嬉しいです!こちらこそすみません、返事なかなか返せなくて……帰りがいつも夜中になっちゃって……」

 逆に申し訳なさそうに言う史に、麻美は「ううん、全然気にしないで」と笑いながらグラスを呷る。

「ただ、悪いタイミングだったかなーって気になってたの。そうだったら本当ごめんね」

 そんな麻美の気遣いに、史は再び首を振り、「いえ、誘って貰えて本当に嬉しいですから!」と、顔を赤らめた。


 結局、今日も史の都合で待ち合わせが遅くなり、麻美おすすめのバーはまた次回に持ち越しとなった。代わりに2人のマンションの中間地点にある焼き鳥屋で軽く飲むことに。

「それで、仕事は片付いたの?」麻美が瓶ビールを手酌でグラスに注ぎながら聞いた。

「はい、大体終わりました。あ、これ、ちょー美味しいです!」運ばれてきたばかりの熱々の鳥皮に史が噛り付いて感激している。

 この牛タン串もちょー美味しいよ。食べてみて」

 麻美が史の勢いの良い食べっぷりに笑いながら小皿を差し出すと、史も恥ずかしそうにえへへと微笑んだ。

 特に調べて選んだ店でもなく、ただ2人のマンションのちょうど真ん中くらいの距離にあるというだけの理由で、煤けた赤ちょうちんが灯る古びた焼き鳥屋に飛び込んだ。狭いカウンターだけの小さな店に、陶芸家かよ!という位長い髭をたくわえた店主が一人、静かに串を焼いている。店内は薄暗く、鶏を焼く香ばしい匂いと煙がもうもうと立ち込めていた。

 ほぼ満員でカウンターを埋めていた周りの客を見ても、皆美味しそうに食べていたので、適当にお好みで焼いてもらうと、出てくるものがどれもこれも驚くほど美味しい。2人して、まるで禁断の罠にハマったかのように夢中で焼き鳥を頬張り始めた。その様子に気を良くしたのか、店主も無口ながら小さく微笑みを浮かべる。

「ああ、美味しい〜。福岡って、なんでこんなにどのお店も美味しいんですかね?」

「ほんとだよね。別に選んだわけでもないのに全部美味しくて、つい食べ過ぎちゃう……」

 麻美は少し困ったような表情で笑い、「ジムもサボりっぱなしだし、やばいよー」と小声で続けた。

「いやいや、麻美さん全然細いじゃないですか!家で運動とかしてるんですか?」

 麻美が体形を気にしていることに史が驚いて尋ねると、麻美は「うーん、ストレッチとかダンベルくらいかな?」と肩をすくめる。

 麻美がふと思い出したように口を開いた。

「あ、そうだ、史ちゃん。この後時間ある? もしよかったら、うちで飲まない? ワインの買い置きもあるし、猫もいるけど……猫、大丈夫なら」

「ネコ!?」史の目が一気に輝く。

「ネコちゃん、めっちゃ好きです! 行きたーい!」

 史の反応に麻美は声を上げて笑い、「じゃあ決まりね」と応じた。


 友達の家で飲む、しかもその家には猫がいる、これが史にとってどれほどの一大イベントかを、麻美はまだ知らなかった。親しい友達の家に招かれるのも、好きな猫と触れ合うのも、史にとっては実に久しぶりのことだった。連日の残業でくたくたになった心身を癒す、思いがけないご褒美のように感じられ、史はこの麻美の提案に感謝するのだった。


 麻美のマンションは、警護エリアに建つ独身者向けの広めの1LDKで、寝室とキッチンの仕切りを取り払い、一つの開放的な空間を作っている。部屋の真ん中には仕事用兼メイク用のグラステーブルがあり、そこにデザイナーズのワイヤーチェアが一脚。出窓のある壁際に猫と寝ころべるくらいのソファがあり、その周りにワークアウト用であろう5キロのダンベルがふたつ転がっていた。


 部屋の奥にはフラットで大きなベッドと、その脇には背の高いキャットタワー。そしてその最上段には気怠そうに横たわる黒猫がいた。

「あれが同居猫。名前はマッ様ン」

「マッサマン……?」(カレーかな?)史が呟く。すると、キャットタワーの上で猫がまるで返事をするように「ニャア」と鳴いた。

「イスラム風のって意味なんだって」麻美が史の分からなそうな顔を見て、ニコッと笑って補足する。

「は、はい。すごい名前ですね……いつから飼ってるんですか?東京から連れてきたんですか?」

「あ、違うのよ。この子の本当の飼い主はこの家の家主で。この子の世話をするって条件でここを格安で借りてるの」そういうと麻美は手を伸ばしマッサマンの喉のところを撫でだした。マッサマンは目を細め首を伸ばし、麻美が撫で易いように応じている。

「そうだったんですね。家主さんって福岡の方なんですか?」

「もともとはそうなんだけど、今はどこにいるか分からないわ。もう暫く連絡もないし…」麻美が遠くを見つめるような目をして続ける。「根無し草みたいな人だったしね——」

 少しの間があき、マッサマンの発するゴロゴロという喉の音だけが響いている。

 史は、麻美の語る謎の家主に興味を惹かれた。どんな人なんだろう?男性かな?だとしたらきっと麻美に似合う素敵な人に違いない。年齢は……おじ様なのか、それとも年下の彼氏?こんな素敵な麻美なら、お似合いの恋人がいても不思議じゃない、そう分かってはいても、彼女が自分の知らない相手の話をしているのを見ると、なぜか胸がチクリと痛むのだった。


 史は話題を変えるべく、部屋を見渡しながら「かっこいい部屋ですね」と言った。

「ありがとう。でも、私の趣味ってわけじゃないんだけどね。あ、ちょっと待ってて。ワイン開けるね。赤でいい?」麻美がそう言ってマッサマンから手を放すと、マッサマンは「そこでやめるな」とでも言いたげな顔をする。

「はい、なんでも大丈夫です」と史が応えると、麻美はキッチンへ向かい、手を洗って手早く準備を始める。少しして、ワインボトルにグラスを二つ、そしてチーズボードを手に戻ってきた。

 史はワイヤーチェアに、麻美は向かいにソファを動かして腰かけ、グラスを手にかんぱ~い!と、するとそこへマッサマンがのたのたとやってきて、史の膝に飛び乗った。

「うわ~、嬉しい!可愛い~ッ!」

 史が大喜びするのには気も止めない様子で、マッサマンは膝の上で寝心地のよさそうなポジションをさがしている。恐らくただぷにぷにして暖かい場所に寝転がりたいだけなのだろう。

「ここんとこ私以外の人に会ったことないから喜んでるのかも。私がここに引っ越してから、史ちゃんが初めてのお客さんだし」と麻美が微笑む。


 その夜も2人で3本の赤ワインを開け夜中の12時過ぎまで語り笑い合った。史は麻美という友達ができたことが嬉しくて仕方がなかった。それに、麻美の飼い猫?であるマッサマンに気に入られたこともまた誇らしかった。ずっと1人で過ごしてきたこの福岡の地で、突然2つの大切な存在ができたような気がして、心がふわふわと暖かい気持ちで満たされていく。これまで1人だったせいで行くのをためらっていたお店も、麻美と一緒なら気軽に行ける気がして、次はいつ誘おうかと、カレンダーアプリを開いてはあれこれ考えるのだった。



 暗雲


 2人が知り合って二か月が経とうとする十二月のある夜、史と麻美は何度目かの夜ご飯の約束をしていた。今回は史の提案で、寒くなったので福岡名物のあら鍋を食べよう!ということになり、2人して春吉にある料亭へ向かう途中のことだった。

 身を切るような冷たい風が吹きつける中、2人並んで中央公園を横切ろうと並んで歩いていると、麻美が独り言のように呟いた。

「寒くなってきたわね〜。温泉とか行きたいなァ」

 その一言を聞きつけ、史は太鼓持ちが如く一瞬の逡巡もなく即座に賛成する。

「いいですねー!別府とか湯布院ですか?それとも福岡県内?とか佐賀?とかの近場にも良い温泉がたくさんあるみたいですよ!」

 史の賛成に麻美も目を輝かせ、「年内にでも時間があったら行ってみない?」と提案する。

 史もそれにうんうんと頷き、「クリスマスに温泉とか素敵かもですね。行きましょう!じゃあ、ご飯の後、今日はうちで飲みます?温泉の計画でも立てながら!」

「温泉でクリスマス!それいいわね!」と麻美は勢いよく返事をする。

「史ちゃんうぇーい!」と麻美がハイタッチを誘うと、史も「うぇーい」と叫び、ぴょんと飛んで麻美の手を叩いた。夜の公園にパスんと乾いた音が鳴った。


 鍋を堪能した後、2人は史のマンションへ向かう。天神の渡辺通りと国体道路が交差する十字から歩いて10分ほどの距離。

「本当に天神からすぐね。これからちょくちょく飲みに寄っちゃおうかな!」麻美が史のマンションを見上げながら言う。すると史も同じように笑顔で答える。

「もちろん!いつでも来てくださいね!麻美さんなら毎日でも大歓迎しますよ」


 オートロックのドアを通り抜け、古びたエレベーターがゆっくりと降りてくるのを待ちながら、麻美がロビーを見渡して言った。

「すごいマンションね。味があるっていうか……昭和のグランド感があるよね」

 その言葉に史はくすっと笑う。

「それって、古臭いってことですよね。見た目もですけど、中身も全然ダメですよ」

 そう言いながら、わざとらしく顔をしかめる。

「わたし、ここの11階なんですけど、前任者が契約してた物件をそのまま押し付けられちゃって。経理のおじさんが『ここならすぐ入れるから』って。でも、一人には無駄に広いし、お風呂とかめちゃくちゃレトロで。セキュリティなんて昭和レベルですよ! オートロックは一応あるけど、裏の非常階段なんて、外からひょいっと乗り越えられそうな低い塀しかなくて……」

 ようやく扉の開いたエレベーターに乗り込む。史が11階のボタンを押すと、扉はゆっくり閉まり、ガタピシと少し揺れながら上へと昇り始めた。

 麻美は驚いたように目を見開きつつも、感想を漏らす。

「へえ、でも外観とか赤レンガな感じで素敵だけどなあ」

 史は苦笑しながら答えた。

「見た目だけはレトロで良い感じなんですけどね。でも実は今引っ越しを考えてて……。ただ、なかなか内見に行く時間もないし」

 史が言い終える頃、ちょうどエレベーターが11階に到着した。小さな「ポン」という音が響き、ドアが静かに開く。


 2人はエレベーターを降り、少し薄暗い通路を歩きながらU字の角を曲がる。すると、また隣の部屋のおじさんに遭遇した。おじさんは今日もまた中庭を見下ろすようにフェンスにもたれ、電子タバコをふかしている。

「あ、こんばんはー」

「おお、こんばんは。今日はまたえらいべっぴんさんと一緒やね」おじさんが麻美を見て目を丸くした。

「あはは……」と麻美が困ったように笑う。

「自慢の友達です。美人でしょう!」史が得意げに鼻息を荒げると、ちょうどその瞬間、麻美が「へっくし!ヒッ」と可愛らしいくしゃみをした。

「あ、寒いですか?」史が心配そうに尋ねると、

「あ、うーん、ちょっと寒いかも……」麻美が鼻をすすりながら答える。顔色もどことなく青白い。

「じゃあ早くおうちに入りましょう。おじさん、おやすみなさい!煙草の吸い過ぎには気をつけてくださいね。風邪もひかないように!」

「おー、ありがと。君たちこそ飲み過ぎには気をつけりーよ!」と、おじさんが大きな声で笑った。


 史のマンションは、ドアを開けてすぐの廊下を通り抜けると6畳のキッチンがあり、その奥に8畳のフローリングの寝室、さらに4畳半の畳部屋があった。史は畳部屋に炬燵を置いて、最近はもっぱらここで生活している。今日もこの部屋で飲もうと、コンビニの袋を炬燵の横に置くと、手早く炬燵と暖房のスイッチを入れた。

「麻美さん、炬燵と暖房つけたので早く温まってください!」

 麻美は炬燵に半身を埋めながら、探るような感じで開いてくる。「ねえ、史ちゃん。さっき会ったおじさんって……お友達?」

「あー、友達っていうか……隣の部屋のご夫婦の旦那さんで。たまにエレベーターで一緒になるくらいの知り合いって感じですかね?」

「その奥さんって、髪を紫色に染めてて、パーマでチリチリの?ちょっとお水っぽい感じの……派手なおばさん?」

「そう、その人です!もしかしてお知り合いなんですか?」

「ああ、見たことあるっていうか……」麻美は少し表情を曇らせた。先ほどからずっと顔が青ざめている。少しの沈黙の後、麻美が今まで見せたことのない真剣な面差しで史に言った。

「史ちゃん、お願いがあるんだけど……」

 「はい、何でしょう?」麻美の唐突な申し出に、史は少し面食らう。

「実は、急な会議で明日の午後から東京に戻らなきゃいけなくなって……うち、マッサマンいるじゃない?その間、泊まりでお世話をお願いできないかなって。土曜日には帰れるからそれまで!」麻美が手を合わせて頼み込む。

 それを受けて史は少し考える。まあ案件も片付いたしいいのかな。3泊くらい着替えを持って行けば。史は、転勤族だった父親の影響で寝場所が変わることにあまり抵抗がない。

「マッサマンは大丈夫ですかね?」

「大丈夫!マッサマンは大人しいし、史ちゃんには慣れてるみたいだし。ただ毎日の餌あげと、トイレの掃除、あとこれが重要なんだけど、夜寂しくないように付き合ってくれればだけしてくれたら十分だから!」

「今日からですか?だとしたら、今日の水曜と、明日からの木金で3泊ですよね?」と史が少し考えて言った。

「そうそう、その3泊だけ!土曜日には私が戻るから大丈夫。もし日程が厳しいなら、最悪金曜日だけでもいいんだけど」

 麻美は慌ただしく「私のベッドを使ってもいいし、お客用のエクストラベッドもあるから!」と続けた。その切実な態度に、史は断るタイミングを完全に逃してしまう。


 ――そもそも今日は麻美さんが家にいるんだから、要らないんじゃないのかしら?


 一瞬そんな疑問が脳裏をよぎったが、麻美の真剣な様子を前にすると反論する気力も消えてしまう。

「わかりました、お受けします。麻美さんのお願いとあらば喜んで!」

「ありがとう、これで助かるかも!」

 麻美の顔色がぱっと明るくなり、史に勢いよく抱きついた。

「良かった、史ちゃん!ありがとう」麻美が史をぎゅっと抱きしめる。

 麻美のオーバーな喜びぶりに、どこか腑に落ちなさを感じつつも、その笑顔に自分も嬉しくなる史だった。



 お別れ


 「じゃあ史ちゃん、マッサマンをよろしくね。寂しん坊だから、夜は一緒にいてあげるだけでいいから!」そう言いながら麻美は東京へ戻った。玄関口で振り返り、「それから金曜日は絶対に家に帰っちゃだめだからね」と付け加えた。

 その夜も、マッサマンはキャットタワーの上で丸くなり、史が「おーい」と呼びかけても、薄目を開けるだけですぐにまた寝息を立ててしまった。

「本当に寂しん坊なのかな?ご飯食べたらあんまり相手してもらってない気がするけど…」

 独り言のように呟きながらも、史はその無防備な寝顔に癒されていた。

 ところが、そんな猫の見守り最終日となる金曜日の午後、会社の本社チームから急な連絡が入る。

「例の北九州の冶金工場の件、追加条件が出たから、週明けまでに資料をアメンドして投げ返して!」

 史は耳を疑った。この量の作業を、夜の7時を回った今から対応するのは明らかに無理だ。しかし、外部から会社のクラウドにアクセスできるPCは自宅にしかない。どうしても自宅に戻る必要が出てきた。

「麻美さんは帰るなって言ってたけど、帰るんじゃなくて物を取りに行くだけだから、大丈夫よね……?」

 麻美の言い付けを破ることに後ろめたさを感じつつ、そう自分に言い聞かせた。残業を終えた史は、会社のビルを出る。その瞬間、麻美の注意が胸の奥で小さく引っかかったが、振り払うように足を速める。

 エレベーターで自宅の階に着き、スマホを取り出すと、時計はもう11時に近い。目に飛び込んできたのは、時刻の下に並ぶ着信履歴とメッセージの数だった。



「あ、麻美さんからのメッセージだ……」

 何だろう、と疑問に思いながらスマホを見つめつつU字の角を曲がり、自室へと向かう。

 スマホには麻美からの着信が4件、未読のメッセージも数件届いていた。何の用だろう、とスマホを見つめながらU字の角を曲がり、自室へと向かう。着信の多さに不安を覚えながらメッセージを開くと、画面に浮かび上がったのは――

「家に帰ってはダメ!!命の危険あり!!」と、史の行動を予見したような刺激的な文章。

「えっ……?」

 命の危険という言葉に、史の体が固まった。悪戯じゃないよね……?麻美の真意を測ろうとする中、得体の知れない悪寒が背筋を走る。麻美に電話を返そうと着信履歴をタッチした。

 その時だった。

 廊下の奥から、低く押し殺したような「グフッ……」という女性の呻き声が聞こえた。続いて、配管が詰まったようなゴボゴボという音。史がその音の聞こえる方へと反射的に顔を上げる。


 ――するとその声の主と目が合った。


 史の視線の先にいた声の主は隣のご夫婦の奥さん、紫髪のおばさんだった。そのおばさんが足をこちらに向け、コンクリートの冷たい廊下に横たわっている。首を横に垂れ、視線は史に向けられていたが、その虚ろに開かれた目にはまるで生気がない。そして口からは泡立つ真っ赤な血を吐き出し、それが血だまりとなって床に広がっていた。

 そしてその横たわるおばさんの上に馬乗りになっているもう一つの人影があった。両手で握ったナイフをおばさんに向かって何度も振り下ろし、シュッ、ズブッ っと肉を切る湿った音を辺りに響かせている。

 男の後ろ姿に気付く。何度か見覚えがあった。煙草を吸いながら立っていた、あの背中。

「お、おじさん……どうして……」

 震える声が史の喉から漏れる。男はナイフを突き下ろしたところで動きを止めると、ゆっくりと振り返った。その顔には表情がなく、ただ無機質な瞳で史を見据え、そして口を開いた。

「お嬢ちゃん、今おかえりかい?」

 次の瞬間、男は突然相好を崩したように、しかし狂気を孕んだ笑みを浮かべる。

「今日は……ちょっと遅かったね……」

 目には激情の怒りを宿し、唇だけが歪に釣り上がっているその笑顔には異様な達成感と歪んだ悦びを滲ませている。

 次の瞬間、史は抑えきれず悲鳴を上げた――。


 同日の金曜日、麻美は東京での会議を終えると、残った仕事を大急ぎで片付け、20時発の羽田発福岡行き最終便に飛び乗った。


 福岡空港に到着するや否や、即座にタクシーを拾い、史のマンションへと急ぐ。飛行機を降りてから何度も史に電話をかけたが、応答はない。

 タクシーがマンション前に停まると、メーターには2600円の数字が表示されていたが、麻美は財布から3000円を取り出し、「お釣りは大丈夫です!」とだけ言ってタクシーを飛び出した。

 ゴルベーザ天神南の正面駐車場を突っ切り、裏手の駐輪場へ回り込む。すると史が前に話していた「軽く超えられそうな塀」が目に入った。

 麻美はその肩ほどの高さの塀に迷いなく手をかけ、その上で倒立するように軽やかに回転して着地した。今から自分がやろうとしている事に対して、体のコンディションは十分か確かめたかった。体は充分にほぐれている。11階まで駆け上がるのなんて訳はないと思った。


 非常用の螺旋階段の下に立ち、腕時計に目をやると10時57分。史の目を通して見たあの瞬間が脳裏に蘇る。10時59分まで、あと少し。運命の時が直ぐそこに迫っている。

 いや、あれを運命と呼ぶのなら、何と残酷なことだろう。もし、それが避けられぬ未来の入口であるとするなら、私がその途中に介入して、結果を変えてしまえばいいのだ。麻美が決意を改める。荷物をすべてその場に降ろし、すーっと深く息を吸い込む。そしてキッと睨むように見上げた。目線の遥か先に史のいる11階が見える。エレベーターは史が乗って上がったせいでその階で止まっている。麻美はふっと息を吐くと一段目を強く蹴り上げ一気に全速力で駆け上がり始めた。

 その時、上の階から突然「きゃーっ!」っと悲鳴が響いてきた。史の声だ、麻美の心臓が跳ね上がる。足をさらに速めながら、大声で叫ぶ。

「史ちゃん!非常階段で下へ逃げてッ!」

 麻美の声がU字型のビルの内壁に反響し史の耳に届いた。パニックで体が硬直していた史が、次の瞬間、その声に弾かれるように駆け出した。


 おじさんが血濡れたナイフをおばさんの首から引き抜き、「見られちまったならしょうがないばいね」と、冷ややかな声で呟く。そしてゆらりと立ち上がると、史の後を追うべく駆け出した。


 史は非常階段の踊り場に転がり出ると、一気に駆け降り出した。回転しながら下へと続く階段を見下ろすとそれはまるで奈落へと永遠に続く梯子のように見えた。それでも麻美の声を頼りに、手すりを掴みながら1階を目指して駆け降りる。

 背後から乱暴に階段を蹴る音が響き、それに混じっておじさんの荒い息遣いが近づいてくるのを感じた。足音の間隔が次第に狭まり、おじさんとの距離が狭まっているのが分かる。

 おじさんは史を追い詰め、次第にその背中へと迫ってきた。ついに1メートルを切る距離にまで迫まり、手を伸ばせば史を掴める距離にまで迫った。おじさんが狂気の怒声をあげてナイフを振る。刃先からまだ乾いていないおばさんの血が飛び散り、その切っ先は史の髪をかすめた。髪の毛が数本宙に舞い、薄暗い階段でひらひらと落ちる。ナイフを振るためにおじさんがわずかに足を止めたせいで、その間に史は距離を広げることができた。

 何かが直ぐ背後で動いた気配を感じた瞬間、史の足が止まりそうになる。おじさんの明確な殺意が背中越しに突き刺さるようだった。恐怖に押しつぶされそうになりながらも、ただ前を見つめ、階段を駆け降りるしかなかった。

 その瞬間だけ、わずかにおじさんとの距離が広がったかに思えた。しかし安心する暇はない。おじさんは相変わらずも一定の距離を保ちながら、執拗に史を追い詰め続ける。ほんの数段分、わずか2~3メートルの間隔を詰めたり広げたり――だが、その存在感は濃密で、背後でぴたりと息を潜めているようにさえ感じられた。

 肩越しに迫る気配が重くのしかかり、息が詰まりそうな恐怖が史の体を支配する。視界が滲み始めても、足を止めることは許されない。

「6階」と書かれた表示を通り過ぎた。

 まだ6階なの――?

 あと6階分も階段を駆け下りなければならないと気づいた瞬間、史の頭は真っ白になった。それに1階までたどり着いたところで逃げ切れる保証などどこにもないのだ。それでも足を止めるわけにはいかなかった。一体どうしてこんなことになってしまったのだろう――史の目から涙が溢れ出る。

 泣きながらも非常階段を駆け下りる史のすぐ脇を、麻美が身を低くしてすり抜けた。史が「え?」という顔をして振り向くと、麻美は足を止めることなく叫んだ。

「史ちゃん、1階まで走って!」

 史のすぐ背後にはおじさんが迫っている。距離は3メートルと離れていない。5階の踊り場まであと数段、麻美の目は鋭く、そこに視線を定めた。ここで体を張ってでも止めるしかない!

 麻美は目の前の螺旋階段のポールに飛びつくと、体を弓のようにしならせて反動をつけ、全身全霊の力を込めて一気に足を突き出した。

「どっせいっ!」

 赤いソールのパンプスの、硬く鋭い爪先が飛び出す。それはまるで全身が弓となった麻美から放たれる一閃の鋭い矢のようだった。階段を駆け下りて、踊り場に出たおじさんが、それに気づいた時は既に遅かった。反射的に包丁を突き出すも、その切先は麻美のパンプスを掠る。そしてそのまま爪先はおじさんのみぞおちを正確に貫いた。

「ぐっ…!」

 おじさんは呻き声をあげ、包丁を握ったまま踊り場の床にうつ伏せに崩れ落ちた。麻美はそれを見逃さず、包丁を握るおじさんの右手を力いっぱいヒールで踏みつける。おじさんの手を離れ無力に転がった包丁を蹴り飛ばすと包丁は音を立てて廊下の先へと転がっていった。

 その間にも、史は必死に階段を降り続けていた。麻美の言葉通りただ1階を目指し足を動かし続けていた。息が上がり、体力は限界を超えていた。そして1階の踊り場ににたどり着くと、墓標のように積み上がり佇む麻美の荷物を見つけ、その場に崩れ落ち号泣した。

 麻美はおじさんの背中から首の付け根を踏みつけ、その動きを完全に封じていた。おじさんが身動き取れないまま必死にもがくのを、無慈悲な眼差しで見下ろす。そして次の瞬間、大きく息を吸うと、一気に声を張り上げた。

「誰かあ、人殺しです!警察呼んでください!」

 その叫びは、マンション全体を包んでいた夜の静寂を突き破った。麻美のよく通る声と、人殺しと言うストロングワードに引き寄せられるように、5階住人であろう無精ひげにジャージ姿の中年男性がドアを開け、半信半疑で外の様子を伺う。非常階段を見やるとそこには髪を振り乱した美しい女性が、髪の後退した背の低い男性の首を踏みつけ押さえている光景が目に入った。

 麻美はその中年男性と目が合うと、「そこ!警察に電話をして、『殺人事件です』って!」と、指さして命令する。男性は「は、はい、え?殺人……!?」と呟き、その「殺人」とは、この美人が小柄なおじさんを踏みつけているこの状況のことを指すのかな?と一瞬困惑した様子を見せた。

 その時、上の階から「ぎゃーっ!」という絶叫が響く。恐らく11階の住人が、おばちゃんの無残な姿を目にしたのだろう。その叫び声を聞いて中年男性が慌てて電話を取りにいくために部屋へ引っ込んだ。

 おじさんはその場を逃れようと麻美の足の下で必死にもがくが、麻美は非常階段のポールを高く掴み、全体重をかけて彼の動きを完全に封じ込めている。その姿はまるで小鬼を足蹴にし、勝利の戦旗を高く掲げる、気高くも雄々しき戦乙女のようであった、とこの中年男性は後に述懐する。

 間もなく遠くからパトカーのサイレン音が近づき、やがてマンションの前で止まった。

 麻美はその音を聞きながらも、おじさんを踏みつけたまま一歩も動かない。間もなくにも警察が到着することは感じ取り、しかし気を抜くことなく冷静さを保っていた。遠くにどやどやと数人が階段を駆け上がってくる音を聞くと、麻美の足の下でおじさんが観念したように小さく震えながら泣き出した。その泣き声は、かすかながらも恐れと慚愧の入り混じった、震える声であった。

 階段とエレベーターの二手に分かれたらしい警官隊のうちの2人が、階段を駆け上がってきた。そのうちの若い警官が、おじさんを押さえつけている麻美の足元に駆け寄り、転がるおじさんを見下ろしながら「いいなあ、俺も踏まれてみたいよ」と軽口を叩きながら、後ろ手に手錠をかけた。

 少し遅れてエレベーターのドアが開き、初老の警察官に支えられるようにして史が姿を現した。その顔は涙でぐしゃぐしゃに崩れ、目は泣き腫らしている。麻美の荷物を大切に抱き抱えるようにして持っていた。史は麻美の姿を見つけるなり駆け寄り、その肩にしがみついた。麻美も彼女をしっかり抱きとめると背中をポンポンと叩き「もう大丈夫だから」と史に、そして自身にも言い聞かせるよう呟いた。

 現場の指揮を執っているのであろう初老の警察官が、麻美と史を1台のパトカーへ案内し、暖かい缶コーヒーを手渡してくれた。史は涙を拭いながら震える手でそれを受け取ると、熱く甘いコーヒーを一口含んだ。その温かさがじんわりと体に染みわたり、少しだけ表情が緩むのが見て取れた。

 麻美もまた缶を受け取ろうとした時に、伸ばした自身の手が小刻みに震えていることに気づいた。受け取った缶を両手で包み込むと、その確かな熱が、張り詰めていた精神と身体をじんわりとほぐしてくれるように感じていた。

 「どういったご事情なのか、簡単で構いませんので、お話をお聞かせいただけますか」

 初老の警察官が柔らかな口調でそう言うと、パトカーの中で簡単な事情聴取が始まった。史は震える声を必死に抑えながら、恐る恐る事件の経緯を語り始める。麻美は隣で彼女の手をぎゅっと握り、老警官の落ち着いた、そして聞きやすいトーンの質問に耳を傾けていた。

 パトカーの屋根では赤い回転灯が無音で回り、ゴルベーザ天神南の駐車場を明滅する赤い光で照らし出している。周囲には、近所の住民と思われる野次馬が列をなし、マンションの入り口や運び出されるおばさんの遺体に向かってスマホのフラッシュを焚いていた。

 老警官は何度か電話でも報告を受けながら、ふむふむと頷き、事件の全容を大筋で把握していくようだった。史が、事件の当事者ではなく、巻き込まれた被害者であることを理解した彼は、丁寧で落ち着いたトーンから、少し博多弁の混じる温かみを感じさせる口調に変わっていった。

 後に聞いた話を含めて分かったことだが、逮捕されたおじさんの凶行は、かつて内縁関係にあった「紫の髪のおばさん」にひと月ほど前に別れを告げられたことが発端だったらしい。彼女の所有するマンションからも追い出され、それをきっかけにストーカー化してしまったのだという。復縁を切望し、彼女の行く先々へ付きまとい、そして毎晩、おばさんが経営するスナックが閉店してマンションに戻る時間を見計らっては、ゴルベーザ天神南に忍び込み、彼女の帰りを待ち伏せしていたそうだ。

 そして、その場にたびたび現れ、しつこく話しかけてはおじさんの計画を邪魔していたのが史だった――と語ったらしい。少なくともおじさんからはそう見えていたのだろう。

 「とんでもない人と交友を結びよったもんですねえ」

 初老の警察官が史を笑わせるように言ったが、史は目を閉じて無言だった。

 警察の説明によれば、おじさんは「復縁できないなら一緒に死のう」とまで考え、常に大型のナイフを持ち歩いていたという。「どうやら彼にとって藤原さんは、毎回計画を邪魔する存在と考えよったみたいですね」

 警察官はそう続け、最後に少し安心させるかのように微笑んで付け加えた。

「でも、素敵なお友達のおかげで助かりなさったね」

 その一言を聞いた瞬間、史は涙ぐみ、麻美の手をぎゅっと握りしめた。彼女の手の熱が麻美にも伝わり、麻美もまたそれに応えるように史の手を握り返した。


 その後、「今日はもう遅いので」と解放された2人が麻美のマンションに戻ったとき、時計の針は深夜2時を回っていた。玄関の鍵を開けると、マッサマンがドアの前にちょこんと座って待っている。その様子はまるで何かが起こることを察知していたかのようだった。

 「ただいま、マッサマン」麻美が声をかけると、マッサマンはニャーオと一言鳴き、2人の無事を確認するかのように交互に史と麻美を見上げた。そして安心したかのように、自動給水機の水をピチャピチャと飲んでからキャットタワーの最上段へと戻っていった。

 その様子を見て、麻美がふっと力が抜けたように笑いながら言った。

 「史ちゃん、ビール飲む?」

 史は少し驚いたようにしたが、こくんと頷いた。少し酔った方が落ち着けると考えたのだろう。

 麻美が冷蔵庫からロング缶を2本つかんで戻ってくると、2人はソファーに並んで腰を下ろした。乾杯の音頭はなしに、缶を軽くぶつけ合うと2人は無言のまま缶を傾けた。

 長い沈黙のあと、史が思い切ったように口を開いた「麻美さん、どうしてあのタイミングでうちに来てくれたんですか? まだ東京にいると思ってたのに……」

 麻美は視線を手の中のビール缶に落としたまま、少しの間黙っていた。部屋の静けさの中、マッサマンの小さな寝息が微かに聞こえる。

 「それに、家に帰るな、命が危ない、って……まるでおじさんの正体とか、鉢合わせするのを知ってたみたいな……」


 史の言葉に、麻美はふっと息をつくように笑った。色々取り繕って説明するのは無理だと判断したのだろう。麻美が意を結したようにゆっくりと語り出した。


 「実はね……こんな話、信じられないと思うんだけど……」

 麻美は言葉を選ぶように間を置いた。

「私、少しだけ未来が見えたりするの……」

「え?」

 史はビール缶を持つ手を止め、麻美を見つめた。

「うん、いつでもって訳じゃないんだけど、予期しないくしゃみが出た時に、脳のどこかの回路が繋がるのかな、その時一緒にいる人やその場所の未来がほんの少しだけ見えることがあるの」

「くしゃみ……?あ、あの時の!」史は、いつだったかおじさんと会った時に麻美がくしゃみをしていたことを思い出した。

「そう、実はあの時、見えたの。史ちゃんが私の送ったメッセージを見て、おじさんが紫色の髪のおばさんに跨がってナイフを振り下ろしてて、そして、その現場を目撃した史ちゃんがおじさんに追われるところを……」

「――だから、私を避難させようとして麻美さんの家に住まわせてくれたんですね?」

「正直に言うと、そんな感じ。でも、私のこれまでの経験から言って、私が見た未来って絶対に変わらないの。どれだけ変えようとしても、必ずその通りになってしまう。実際史ちゃんが今日家に帰るのを止めようと何度か連絡したけど駄目だったでしょ。でも私が送ったメッセージは、私が見た通りのタイミングで史ちゃんが読んでるはず。そしてその後、史ちゃんを襲おうとナイフを手に立ち上がるおじさんの姿、史ちゃんが悲鳴をあげるその瞬間も鮮明に……」

 史が惨劇を思い出して目を閉じる。麻美も一瞬目を伏せ、深呼吸をするように声を整えた。

「だから、こう思ったの。私が見た未来そのものは変えられなくても、私の見ていない“その後”なら変えられるかもしれない、って。おじさんが史ちゃんに襲いかかる前に、私がその場に飛び込めば――私の意思で私の望む未来を作れるんじゃないか、って」

 そう一息に話し終えると、麻美はぽつりと呟いた。

「どうしても、史ちゃんを助けたかったから……」

 その言葉に、史の胸が締めつけられる。「どうして、わたしなんかのために……麻美さんの命だって危ないじゃないですか!」史は涙が落ちるのを必死に堪えていた。ついビールを持つ手に力が入り、缶がパキンと小さく音を立てた。

 麻美は少し困ったように微笑みながら、もう一つの話を切り出した。


「それとね、もう一つ大事な話があって……。実は……今回の急な会議って、東京への帰任が決まったんだよね。年内いっぱいで。お店もこっちのスタッフだけでちゃんと回せそうなのを確認できたし、それに仙台で新しい店舗を出す話が進んでて、そっちのプロジェクトを見てくれって言われちゃったの」

 その言葉で、ダブルパンチを食らった史は頭が真っ白になった。

「え?……年内って……もう、2週間もないじゃないですか」

 史の声は震えていた。自分で「2週間」という言葉を口にした瞬間、必死に押さえていた感情が一気に堰を切ったように溢れ出す。涙が止めどなく流れ出し、嗚咽が抑えられない。史にとって、今やおじさんに命を狙われ追われたことよりも、麻美という大切な友達、そして命の恩人と離れることの方が大事だった。

「えーん、やだやだ! 麻美さん、行かないでぇー! せっかく仲良くなれたのに……命まで助けてもらったのに……!」

 史が勢いよく麻美の肩にすがりついた。止めどなく流れる涙で麻美の肩を濡らしながら、声を詰まらせて泣きじゃくる。

 麻美はそんな史を愛おしそうに見つめながら受け止める。肩を涙で濡らす史の背中にそっと手を回し、きゅっと抱きしめた。頬を史の頭に寄せ、その震えている頭を優しく2度撫でた。

 しばらくして、ひとしきり泣いた史の声が少し落ち着くと、麻美は史の両肩を抱いて一度体を離した。左肩が史の涙でぐっしょりと濡れている。そして、うつむき気味で泣きじゃくる史の顔を静かに見つめたまま、ゆっくりと顔を近づける。麻美の長い髪が史の頬をかすめ、チュベローズの甘い香りがふわりと史を包み込む。「いい匂い……」と史がぼんやり思った瞬間、温かなものがそっと唇に触れた。


「んっ……!?」

 史の塞がれた口から、わずかな吐息が漏れる。甘い香りとともに訪れた麻美の突然の口づけ。その非現実的な出来事に、史の思考は混乱した。

(あれ?これって何かしら…?私、何してるの…?)迷宮に押し込まれた思考が出口を探して動き回るが八方が塞がっている。すると閉ざされているはずの口をこじ開けて湿った何かが入ってくるのが分かった。次の瞬間、史の舌先に絡まるようにそれがひと撫で、ふた撫で……背筋に小さな震えが走る。頭の中で「何が起こってるの…?」と戸惑いながらも、固まる史。

 やがて、麻美がゆっくり顔を離すと、2人の唇を結ぶ透明な糸が垂れた。麻美は自身の下唇を右手の親指でそっと拭い、潤んだ瞳で史の目を真っ直ぐに見つめると、低く囁くように言った。

「これ以上になっちゃうと離れられなくなりそうだから……プラトニックのままの方がいいよね」


 キ、キ、キ、キスされた~!?えっ?えっ?何かしら?何言ってるのかしらこの美人は?今プラトニックつったね?プラトニックとは何かね!?べ、べ、べ、べ、べろちゅーはそれとは違うんじゃないのかね!?

 頭が真っ白になる。今…何が起きたの?誰か説明してくれない!?

 史は完全に混乱していた。いや待て、落ち着け自分。キスなんて2年ぶりくらいじゃないか?いやいや、今のはただのキスじゃない、べろちゅーってやつだ!?だったらいつぶりだ?おーい、誰かお茶持ってきてくれ。しかもあんたこれ以上つったな今!?べろちゅーのこれ以上って何だよあんた面白いなハハハ。

 麻美さん、すごく素敵な人だけど…でも、これは違うでしょ!?いや違うというか、違うって何が違うんだ?何が正しいんだ?わからん!顔が火照る。でも、この火照りはそういう意味じゃありませんよ。いや…そういう意味なのか?しかし、君は、今、何故このタイミングでキスをしたのか!?


 頭の中で思考がぐるぐると回る中、麻美の数々の言葉がふと蘇る。

 中洲のバー”ドゥーリス”?はフランス語で「二輪の百合」?百合、の2人……。

 温泉でも行こうなんて話してたよね?女2人で温泉……素っ裸……で2人きり……。

(な、なんだかボディタッチが多いなぁとは思ってたけど、も、もしかして、まさか……?)


 史の頭の中で散らばっていたパズルのピースが組み合わさっていく。瞬間、一つの答えが史の頭の中に導かれ、麻美の顔の真正面を震える指で刺して言った。

「え、え、え、LGBTキュウ~……」

「ニャーオ」

 キャットタワーの上で寝ていたマッサマンが、気の抜けた鳴き声をあげた。それはワーオ!のニュアンスだった。


 麻美は1人と1匹の物言いに吹き出し、手をひらひら振って遮る。

「Lね!Lだけ!GとかBとかそんな欲張りじゃないから!っていうかキュウ~って何!?」

 麻美はひとしきり笑うと体を真っ直ぐに起こし、無言でじっと史を見つめる。麻美の形のいい潤んだアーモンドアイが史を見つめる。2人だけの空間に少しの間、意味ありげな沈黙が落ちた。すると麻美はふっと視線を外し、ポツリと語り出した。

「好きになっちゃったものはしょうがないわ。好きな人に無理やりなんて絶対ないから、そこは安心してね」

 史はその言葉を聞いて、小さく息をつくと、こくんと頷いた。

 麻美が東京へ戻るという突然の報告に泣きじゃくっていた史も、ようやく落ち着きを取り戻していた。それよりもむしろ今は、麻美の気持ちを知った驚きのほうが大きかった。

(麻美の好意を嫌だとは思わない。でも、今すぐ答えを出すなんて無理かもしれない……)

 ただ告白してくれた麻美の気持ちを大切にして、誠実に向き合いたいという思いが新たに芽生えたのだった。


 一方で、麻美は約束通りそれ以上踏み込んでくる様子を見せなかった。そのいつもと変わらぬ態度が史の緊張をほぐし、次第にもとの自然体に戻っていった。

 その夜も2人は他愛ない話で盛り上がり、笑い声が絶えないのだった。部屋に響く2人の声が、夜の静けさを温かく満たしていく。明日は土曜日、好きなだけ寝坊できるのだ。

 時計はいつの間にか午前3時を回っている。つい数時間前に、ナイフを持った殺人犯に命狙われ追い回されたことなど、今ではもう遠い出来事のように思える。

 缶ビールを片手にくつろいでいた麻美が、ふと思いついたように口を開いた。

「そうだ、史ちゃん、ここ住んだら?」

「え、ここに?」

 史は驚き、目を丸くして聞き返す。

「そう。引っ越し先探してるんでしょ?史ちゃんマッサマンにも気に入られてるみたいだし」

 麻美は軽く笑いながら言う。

「本当にいいんですか?家主さんはそれで」

 史が遠慮がちに尋ねると、麻美は満面の笑みを浮かべた。

「もちろんいいに決まってるわ。私も福岡に来たとき遊びに寄りやすいし、お互いちょうどいいじゃない」

 その言葉に背中を押されるように、史は「ありがとうございます!是非是非お願いします!」と何度も頭を下げた。こうして、史の新しい住まいが無事に決まったのである。その週末、史はまだ現場検証のテープが張られている自身のマンションへ帰ると当分の生活に必要な着替えや仕事道具などを運び出した。


 年末も近い福岡空港の出発ロビー。煌びやかなクリスマスツリーが飾られ、最終便のラッシュが押し寄せる中、辺りは人々の足音とざわめきに包まれている。

 史は泣きそうになるのをぐっと堪えながら、麻美をじっと見つめていた。

「麻美さん、東京に帰ってもお元気で……絶対に連絡くださいね」俯く史の声は微かに震えている。

 麻美はそんな史を見つめ、小さく微笑んだ。口を開きかけて何か言いかけたが、結局何も言わずに口を閉じた。


 麻美は、あの大胆なカミングアウト以来、それ以上の気持ちを表に出すことはなかった。その配慮が、史の緊張を和らげ、いつも通りの自然体を保つ助けとなっていた。2人の関係は、これまでと変わらず笑い声の絶えない友人同士として続いていた。


 ーー「18時発羽田行き75便にご搭乗のお客様へご案内申し上げます」ーー

 館内に響くアナウンスを受け、多くの乗客が搭乗ゲートへと向かい始める。


「そろそろ行かなきゃ……」


 名残惜しそうに呟く麻美の声に、史の胸がきゅっと締めつけられる。

「麻美さん、絶対また飲みに行きましょうね!」

 史は顔をあげるとぎこちない笑顔を作り、精いっぱいの明るい声で言った。

「もちろん!」

 麻美が屈託のない笑顔で応えると、「じゃあ、史ちゃん」と、ふいに史を抱きしめた。ふわっと漂う甘い香りが史を包み込む。同時に、ああ、これで本当に麻美さんとは離れ離れになってしまうんだ、と今年最大級の寂しさが史の胸に押し寄せてきた。ふと見ると、麻美が史の唇をじっと見つめている。史は慌てて「はむっ」と唇を噛んで隠した。


 麻美はその様子を見て苦笑しながら「また今度、ね」小声で呟いてウィンクをする。

 そしてバッグを手に取ると、搭乗ゲートへと向かって歩き出した。

 麻美の遠ざかる背中を見送りながら、史の目にはとうとう涙が溢れ、一筋こぼれ落ちた。麻美に見られないようにそっと拭って、それ以上の涙を落とさないように目を力いっぱい見開く。途中、麻美が一度振り返り、「史ちゃん!また近いうちにね!」と言いながら、バイバイをする。そしてセキュリティゲートをくぐり、曲がり角に消える前に振り返り、最後にまた手を振った。


 麻美の姿がゲートの向こうに消えると、史は急いで展望デッキへと走った。雪がちらつきだして冷たい風が吹き付ける中、麻美が搭乗した飛行機を探す。その瞬間、ポケットのスマホが軽く振動した。

 史はスマホを取り出し、画面を覗き込む。通知に表示された送信者の名前は麻美だった。深呼吸をひとつしてメッセージを開く。

「史ちゃん!さっきは言えなかったけど、福岡のお店の監督もこのまま続けることになっちゃった!来週また福岡来るからクリスマスは2人で美味しいもの食べ行こう!(^o^)/ついでにおうち泊めてね( ´ з ` )-☆」

 史はその文面に涙ぐみ、そして吹き出しそうになりながら、スマホをぎゅっと握りしめた。

「うぐぐ、さっきは何か言いたそうにしてると思ったら……最後の最後に唇を許さなくて良かった……」

 画面が涙で滲んでいる。


 遠く滑走路では、麻美を乗せた飛行機が静かにエンジン音を高め始めている。音は次第に迫力を増し、飛行機が滑走路に並ぶ誘導灯の青い光を走り抜ける。史はフェンス越しに麻美の去っていく様をじっと見つめていた。

 飛行機が一気に速度を上げ、機首を持ち上げ、ランディングギアが地面を離れる瞬間、史の胸の奥にかすかな痛みが走った。飛行機は地上を離れるとぐんぐんと高度を上げ、やがて夜空へと吸い込まれていく。その軌跡を目で追っていると、自身の胸の中に灯るある種の感情に気付いた。


「ーーでも、またすぐ会えるなら……その時でいいか」


 史はスマホをコートのポケットにそっと仕舞うと、雪の舞う12月の夜空を見上げ、1人そっと微笑むのだった。


 終わり

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リリィ・プラトニック @takoichiro

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