02-06



「お待たせしました。お茶とこの辺の名物の饅頭です」


「ありがとうございます」


 ぱたぱたと軽やかな足音を響かせて戻ってきたイナバさんは、慣れた手つきで湯呑みと菓子の入った皿をちゃぶ台の上に置いた。湯呑みから立ち上がる湯気がゆらゆらと揺れている。

 啜る気もないくせに、湯呑みを手に取り、飲むような素振りをして、ユウカがイナバさんに問う。


「旦那様は?」


「今日は出ておりまして」


「いつ頃お戻りに?」


「……いつでしょうね……いつもふらっと出てふらっと帰ってくるものですから」


「そうですか。旦那様にもご挨拶したかったのですが……仕方ないですね。早速ですが始めましょうか。電話口でお困りの事情は簡単に伺っておりますが……改めてお話いただけますか」


 イナバさんの顔に僅かばかりの緊張が走ったように見えた。

 自身の湯呑みを持つ手に力が籠もる。

 数十秒ほどの間を置いて、イナバさんは小さな声で語り始めた。


「……はい。かれこれ一年ほど前からになると思います。この民宿を初めて半年も経たない頃でした」


「きっかけは些細なものだったんです。お客さんからのクレームとも言えないような小さなご指摘で」


「部屋で誰かに見られているような気がする」


「それが最初で。もし隠しカメラとかだったらコトだと思ってお客さんの泊まられた部屋の中を探ったのですが何も見つからず……」


「そのときはお客さんの勘違いかな、なんて思ったんですが。別のお客さんも同じようなことを言うんです」


 ――誰かの視線。

 不思議と気付くものだ。普段の生活でも時折経験することであろう。

 しかし、もし感じた視線のその先に誰もいなかったら。

 一度や二度なら気のせいと思うだけかもしれないが、何度も感じてしまったらぞっとするだろう。

 民宿の人間に態々伝えるということは、気のせいと自らに言い聞かせることも難しいほど、何度も感じてしまったのだ。 

 そしてその事象は特定の客だけに起こるものではなかった。


「そのたびに部屋の中を調べるんですが何も見つからない。……そのうちに、人影のようなものが見えたとか、そういったクレームまでもでてくるようになって」


 イナバさんの顔がみるみると曇っていく。

 窓から差し込む日が傾きかけているのがそうさせているのだろう。顔に貼りつく影が濃くなっている。

 湯呑の湯気はいつの間にか見えなくなっていた。


「その部屋はどちらですか」


 ユウカが淡々と問う。

 その部屋を見に行くつもりだろうか。

 俯くイナバさんの顔に生気がない。


「――――この部屋です」


 まさか、一番最初に通された部屋が問題の起きている部屋だとは。応接のような部屋かと思っていた。


 ……ユウカがこの部屋に入る前に少し警戒していたのは、何やら感じるものがあったからかもしれない。そういえばユウカは、妙な気配が、とか言っていた。


 自分には無関係で、ただ傍から見ているだけで良いと高をくくっていた世界に突然放り込まれて、お前も当事者だと糾弾されたような、むかむかとそしてじりじりとした焦燥感が胸を襲ってきた。

 

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イノリβ 山橋 雪 @setsu_yamahashi

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