地獄よりもあつい、この場所で
いいやつだったよ
地獄よりもあつい、この場所で
息子が死んだのはいつの事だったか。ぽかんと空いてしまった時はあまりにも長く、子供部屋にはすっかりホコリとカビが燻っていて入ることもままならない。
でも、あそこには入りたくなかった。いつもあの部屋の前で足が止まる。どんなに急いでいてもピタリと床に足が張り付いて動かない。でも入れない。情けないのは十分承知しているが頭でわかっていても心がどうしても引っかかる。泥の詰まった排水口のようにどろどろと固まって動きやしないのだ。
ある日、風呂掃除をしようとしてまた部屋の前で止まると、突然がらりと音がしてスライド式の扉が開いた。
「何してんの?」
何してんのと言いたいのはこっちである。
その声は妙に聞き馴染みが良く、ぶわりとあの日、あの最悪の日がフラッシュバックする。頰をつねってもたたいても、横をむくと確かにいるのだ。中学校の制服に身を包み、シンプルな銀のピアスをつけニヤニヤと笑うそのままの彼が。
「ふろ、掃除を…」
「ああ、やっとくわ」
そう言って立ちすくむ私を横目に通り抜け風呂に向かう。
意味がわからない。…ああ、これは幻か。ついに幻視しだしたのか、いよいよ末期だな。あまりの情けなさに笑いが漏れる。
ならやることは一つだ、普通に息子とのひと時を楽しもう。こんなことは許されないかもしれないが、幻相手なんだ、これくらいいいだろう。
そうと決まれば、とすぐにキッチンに行き、冷蔵庫にあった2、3個の卵と隠し味のマヨネーズを手に取る。その時、またパタパタとリビングに訪れた息子は「何してんの?」とまた同じセリフを吐いた。
「少し待ってなさい」
そう言って、料理を続けて6分後。まだ出すには早いコタツに身を埋める息子の前に『ちゃんぷるーもどき』を出す。ゴーヤがないゴーヤチャンプルーだから『ちゃんぷるーもどき』だと小3のときに命名してくれたもので、もしまた会えるなら一緒に食べようと決めていたのだ。
「いただきます」
「どうぞ」
腹が減っていたのか『ちゃんぷるーもどき』はすぐに無くなってしまった。八割ほども食べてくれたから美味かったか聞くと満面の笑みで噛み締めるように「美味い」とこぼした。
ふと気になって「お前は最近どうなんだ」と聞いてみた。
待ってましたとばかりに「まあまあ、風呂入りながら話そうや」とおっさんのような口調で肩を叩いてくる。私の方が余っ程おっさんなのだけれど、男が語る場所と言ったら酒の場か風呂だしと早速風呂に向かった。
この歳になって背中を流して貰えるとは、なんとも感慨深い。ひと通り流し終わったら、2人同時に湯船に浸かる。ざばーんと湯が溢れ、収まると堰が切れたようにバーッと語り出した。
曰く、死んでからずっと地獄にいたらしい。しかし何とか閻魔様に頼み込んできちゃったと。そこで初めて幻や夢なんかじゃない、そこに居ると気づいた。早くなる鼓動を抑える私を気に停めず、地獄では針山はコツを掴めばノーダメージで行けるだの、血の池が1番楽だの、賽の河原で石を積むのが早すぎて鬼にも尊敬されただの、まるで学校であったことを話すように愉快に語った。
「というか、地獄なんだな」
「まぁね。でも、俺めちゃくちゃ陽キャだし?このコミュ力で閻魔様ともマブダチっていうか?」
「悪くはされてないのか」
その言葉に息子はキョトンとしたかと思えば、げらげらと笑いだした。そりゃそうだ、地獄なんだから悪くされるに決まってる。でも、息子の笑ってる顔を見ればさきほどまで地獄にいたとは思えない。恐らく、息子は底抜けにやさしいから、私を気遣ってなるべく笑顔でいてくれてるんだろう。その優しさが息子自身を殺してしまったと思うと気が重くなる。そこから私はただ相槌を打つことしか出来なかった。
のぼせる前に風呂を出る。流石にあの部屋から着替えを取るのは億劫だったから私の古着を貸した。「やっぱ大きいなー、まだ背伸びてるんじゃないの?」なんて言うが、あの日から何も変わっちゃいない、なんなら小さくなってるんじゃないか。父の背中を見て子は育つと言うが、とても見せられたものじゃない。
「あー…、死んじまったからわかんなかったかもだけどさ、俺、父さんのこと頼りにしてたよ」
見透かしたように眩しい笑顔で言う。そうだ、お前はいつだってそうだった。眩し過ぎてその光源の暗さが分からない。いつも抱え込んで独りで何とかしようとする。ただただ前を向く。だから、お前は…
口を開こうとしたその瞬間、私のスマホがブルブルと震え出す。画面を見れば十数年も前に入れた鬼から電話が来るアプリのそれだった。そもそも着信とかあっちからくるのか?そんな疑問はあったが、どうかしてたのかそのまま電話に出てみた。
『あー、もしもし、鬼ですけども。』
鬼ももしもしって言うのか、何とも社交的だな。
「あ、はい、お世話になっております。」
『お宅の息子さんいますかね』
「はい、いますけど…」
『そろそろお時間なので…伝えて貰えますか?』
「あ、分かりました。伝えておきます。」
カラオケみたいなシステムなんだなとぼんやり思いつつ息子にこのことを伝えると、「ちぇっ、閻魔様もケチだなあ」とぶつくさ言いながら子供部屋の方へ歩みを進めた。
「父さんさ、風呂で悪くされてないかって聞いたじゃん」
「あぁ」
「まぁ、こっちよりかは悪くないよ。鬼さんたちもなんだかんだ面倒見てくれるし、」
「そうか…なら、いいんだ」
「…引き止めたりしないんだな」
「地獄に引き止める親が何処にいる」
「ははっ、父さんこそ…」
「大丈夫だ、私は。もう大丈夫だ」
「だって、」
「暫くこっちで頑張るから、でも、もう折れたりしない。」
そうだ、息子が頑張っているのに親が頑張らなくてどうする。父の背中を見て子は育つ。見てるんだ、地獄からでも。ならば私が前を向かないでどうするんだ。この後悔も未練もやるせなさも忘れたりなんかしない、全て背負って進んでやる。安心したかのようにため息と一緒に息子が言った。
「じゃ、俺そろそろ行くわ」
気づけば、部屋の扉に手をかけていた。もう終わりなのかと思うと寂しさがあったが、心残りはなかった。別れは笑顔で見送るものだ、泣くなんて許されない。
「風邪ひかないようにな」
「うん」
「あっちの人?と仲良くしろよ」
「あぁ」
「大丈夫じゃなくなったら、いつでも来い」
「…っ」
「『ちゃんぷるーもどき』作って待ってるから」
「……分かった」
「ありがとう、親父」
そう言うと笑顔と一粒の涙を残して部屋の中へと消えていった。去り際に閉められた扉をまた開けると、そこにはただただカビ臭い部屋があっただけだった。
「…よし、やるか」
息子が去ってからやる事は決まっていた。慣れないエプロンをひっぱりだし、軍手をし、雑巾を携える。そして、天井からぶらさがっていた頑丈なロープの輪っかを外した。地獄より暑くて熱くて堪らない目頭を、そのままにして。
待っている、私は何時までも待っている。
息子がただいまを言うその日まで。
地獄よりもあつい、この場所で いいやつだったよ @Iiyatudattayo
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