聞こえる(3)

 心美ちゃんが出て行った後も、僕はドアから目を離せなかった。

 外の微かに窓を打つ雨粒の音がかろうじて現実感を与えてくれるように感じ、僕はすがるように意識を向けた。


 あそこで……心美ちゃんが引かなかったら……

 いや、大丈夫。

 そんな事はしない。

 彼女は娘だ。


 可愛い……


 その言葉が浮かび、僕は両手で強く顔をこすった。

 あってはならない。

 それじゃ……アイツと、父さんと一緒だ。

 姉さんに血走った目を、欲望の混じった目を向けていたアイツと。


 やっぱり少しの間距離を置こう。

 心美ちゃんと。


 このまま一緒にいたらまずい。

 もちろん、家を出るわけには行かない。

 それこそ彼女を混乱させるし、香苗にも説明しようが無い。


 そうなると……出張とでも言うか。

 数日でも離れれば頭も冷えるだろう。

 その間、さやと施設に行ってもいいし、無理なら1人で。

 いや、とりあえず何も考えずに頭を冷やそう。


 そんな事を考えながら枕に顔を埋めると、疲れていたのかいつの間にか眠りに落ちていた。


 ●○●○●○●○●○●○●○●○


 かなり深く眠っていたのだろうか。

 泥の中に沈んでいたような意識が、携帯の着信によって引っ張り出されても、僕はその音が夢の中のように感じられていた。


 そのため出るのが遅くなり、ようやく携帯を手に取ったときには切れていた。

 着信を確認すると心美ちゃんからだった。


 しまった、無視しちゃったな。


 慌てて掛け直そうとしたとき、今度はラインが入ってきた。

 見てみると、茜ちゃんと図書館に来たが傘が壊れていたので持ってきてくれないか、と言う物だった。

 了承の返事を送り、ベッドを出ると顔を洗っているとまた着信があったので心美ちゃんかと思っていると、さやからだった。


「もしもし。何かあった?」


「ゴメンね、休みの日に。今度の日曜の最終確認しようと思って」


「ああ、大丈夫だよ。僕からかけようと思ってた。わざわざ有難う」


 そうしてやり取りしているうちに、ふと心美ちゃんに対する気持ちを話してしまった。

 もちろん女性として……の下りは話せるわけが無いので、彼女のアプローチへの戸惑いと言う形で伝え、少し距離を置くために出張名目で数日どこかに旅行でもしようと思っている、と話した。


 すると、電話の向こうで逡巡するような息遣いが聞こえ、しばらく無言が続いた後、ポツリと聞こえた。


「私も付き合おうか?」


「え?」


「大丈夫。変な意味じゃないから。部屋も別にするし。ただ、心美ちゃんの事を時間を気にせず話し合えるじゃない? これからどうすべきか。それに……あのお店じゃいつあの子が来るか分からないし。ほら、この前もそうでしょ」


「まあ、確かに……」


「だから、これからはお店以外のところで完全に二人っきりで話した方がいいと思うの。その事も話そうよ」


 確かに、この前はさやが気付いてくれたから良かったが、自分だけだったらまだ話していただろう。

 あの話題を聞かれていたら、彼女もどれだけ傷ついただろうか。

 それに、心美ちゃんと3人で居たあのカフェで、彼女の事を話すのは後ろめたさもある。


 完全に自分の生活圏内にない場所で話す。

 その考えに僕は心が軽くなるのを感じた。

 実際にはそうなのかはともかく、まるで自分が別の人間になっている。

 それによって一切の罪悪感を感じずに済む。

 そんな気がして、先ほどのイライラも手伝ってさやの提案を了承した。


「分かった、そうしよう。ただ、一緒に出かけるとあれだから、現地集合はどうだ?」


「うん、分かった……楽しみにしてるね」


「え? ……ああ……よろしく」


 楽しみって……

 そんな旅でもないだろう、と思いながら電話を切った。


 ●○●○●○●○●○●○●○●○


 図書館の駐車場に車を停め、着いたことを連絡するとより強くなった雨がフロントガラスを叩いていた。

 こんな日に傘が壊れるとは、心美ちゃんもついてないな……普段からチェックしといてあげればよかった。

 そう思いながら、車を降りて図書館の入り口に向かうとそこには心美ちゃんと茜ちゃんが立っていた。


 心美ちゃんはすぐ僕に気付くと、ニッコリと笑って手を振った。


「あ、パパ」


「ゴメン、遅くなって。ずっと立ってたのか?」


「大丈夫。パパからラインもらった後で来たから」


「そうか、なら良かった」


 そう言いながら茜ちゃんを見ると、相変わらず冷ややかな視線で僕を見ている。

 やっぱり嫌われてるよな……


 心美ちゃんはあかねちゃんに申し訳無さそうに両手を合わせる。


「茜ちゃんも付き合ってくれてありがと。ホント、先に帰ってもらって良かったのに」


「ううん。1人で待ってるのって暇でしょ? 付き合うよ。私も……もっとお話したかったし」


 恥ずかしそうに微笑みながら節目がちに話すその姿は、会話を心から喜んでいるように見えた。


「ありがと。やっぱり茜ちゃん大好き。さ、行こうかパパ」


 そう言うと、心美ちゃんは僕の傘の中に入ってきて腕を組んだ。


「え!? 心美ちゃん……傘……持ってきてるって」


「え、そうなんだ? 気付かなかった。いいじゃん、車までなんだし」


「いや、人の目もあるから……」


「私たちしかいないよ。茜ちゃんは気にしないもんね? ね?」


 茜ちゃんは俯いて黙っていた。


「どうしたの、茜ちゃん。調子悪い?」


「え? う、ううん……大丈夫……」


「良かった。じゃあ気になってないん……だよね」


 茜ちゃんは驚いたような表情で顔を上げると、慌てて2回ほど頷いた。

 心美ちゃんの顔は見えないが口調はいつも通りだ。

 そして3人で車まで歩き出したが、突然茜ちゃんがポツリと言った。


「お父さんとお母さんって……ご自分のお子さん持てないんですよね」


 いきなりの言葉に驚いてあかねちゃんを見た。

 別に隠してることでは無いのでどうという事では無かったが、かと言って中学生の女の子にいきなり言われて流せる内容でもない。

 僕は戸惑いながら言った。


「そうだね。僕の問題かな。悪い事したよ」


 実際は香苗の体質の問題なのだが、それは言わなかった。

 何なんだ、この子。

 そこで引き下がると思ったら、彼女はさらに言った。


「だとしたら、それで代わりに心美ちゃんですか? 心美ちゃんは……代わりじゃない。欲しいなら……もっと……赤ちゃんとか、幼児にすべきじゃなかったんですか? 心美ちゃん……可愛そう」


 僕はその場に立ちどまってしまった。

 香苗の顔が浮かんだ。

 心美ちゃんを引き取ろうといったのは香苗だった。


 僕はあかねちゃんの言うとおり赤ちゃんか1~2歳の幼児を考えてたのだが、香苗が言ったのだ。


「私たち仕事が忙しいでしょ? 私も昇進して仕事のペース落とせないし。そんな歳の子を引き取って、もし子育てのストレスでお互いの生活に支障が出たら、子供を充分愛して上げられないかも。それなら、自我が確立した賢い子にすべきよ」


 その言葉に僕は内心安堵した。

 周囲から乳幼児の子育ての心理的負担と時間的制約を聞いていた僕は、果たして今の僕らに育児が可能なのか、と思っていたのだ。

 その密かな葛藤の中、香苗が引き受けてくれた。


 提案するにはあまりに後ろめたさの大きい事を言ってくれた。

 それに僕も飛びつき、香苗に子供を誰にするかも全て委ね、心美ちゃんを引き取る事になった。


 それに関して、心美ちゃんに負い目はあった。

 だから、これだけは心美ちゃんには……いや、誰にも決して言えない。

 文字通り墓場まで持っていく秘密だと、僕と香苗は話してある。


 その秘密とそれによる負い目を茜ちゃんに突かれたように感じ、僕は身体がカッと熱くなるのを感じた。


「ゴメンね。それは……僕ら家族の事だよね? 君は……関係ない」


 口に出た言葉の冷たい響きに焦ったが、今更引っ込めるわけには行かない。

 心美ちゃんも聞いている。


「この話は止めにしよう。……さ、行こうか」


 そう言って歩き出そうとすると、心美ちゃんが僕から離れて茜ちゃんの傘の下に入った。

 そして、あかねちゃんを軽く抱きしめると言った。


「茜ちゃん、私を心配してくれたの? ありがとう。でもね、言ったよね。私……


 その途端、茜ちゃんは見て分かるくらいに顔を青くすると、視線を宙に泳がせた。

 心美ちゃんは彼女から離れると、ニコニコ笑いながらあかねちゃんの頬を撫でた。


「パパを傷つけないで。そんな茜ちゃんヤダよ。いつももっと優しいじゃん。パパ、ゴメンね。茜ちゃん今日、ずっとイライラしててさ」


「ああ、大丈夫だよ。……あかねちゃんもゴメン。僕の言い方が悪かったね。君も悪気は無かったんだろうから……ゴメン」


「パパ、有難う。茜ちゃんかばってくれて。そういうパパ、やっぱり大好き」


「いや……でも、本当に済まなかったね、茜ちゃん。僕ら家族の事を考えての言葉だったのに」


「……すいません」


「もう気にしないで、パパもいいよって言ってくれたから」


 そう言うと、心美ちゃんは僕の傘にまた入ってくると、腕を組んで言った。


「大丈夫だよ、パパ。ちゃんと代わり……してあげるから」

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