ある少年
夏の焼け付くような日差しに頭がクラクラするのを感じながら、天使園……心美ちゃんの暮らしていた児童養護施設、の駐車場に車を止めた。
その後、僕は車を降りると、山間の心地よい風にホッと息をつく。
こんなに暑かったら、車内よりまだ外の方がいい。
ため息をついてハンドタオルで汗を拭うと、時計を確認する。
予定の時間まで20分。
早く着きすぎたか……
8月中旬の木曜日。
この日は有給を取って施設の職員に話を聞く約束をしていた。
名目は、心美ちゃんの現状報告。
実際は施設での心美ちゃんの様子を聞くことだった。
日にち薬で彼女の事を全て受け入れられると思っていた。
だが、実際は日を追うごとに彼女に得体の知れなさを感じている。
特にあの、時折見せる空気を……上手く言えないが、何かの色に塗り替えてしまうような言動や行動。
それは一体何なのか。
それを確認したい。
本来はホーム長の仙道一樹に会いたかった。
だが、彼は未だに施設には何の連絡も入れておらず、退職届が郵送されてきた際の住所も個人情報との事で教えてはもらえなかった。
まあ、当然の事だが。
そのため、今日は代わりに女子棟の主任をしている
何か心美ちゃんの事を知る事が出来れば……
そう思いながら眼下の町並みを見下ろす。
この施設は山の上にあり、そのため木々に囲まれており風と共に木々のさざめきはまるで夏の暑さを拭い去ってくれるかのようだった。
彼女はこんな自然豊かなところで育ったのか……
心美ちゃんの都会的な雰囲気からするとずいぶん違和感を感じるな。
そんな事をぼんやりと考えていると、ふと視線を感じたので振り向いた。
すると、そこに居たのはまだ中学生らしき少年だった。
短髪で意志の強そうな知性を感じる瞳と整った中性的な顔立ちが印象的な子だった。
だが、彼は何故か僕をじっと見ている。
来客が珍しいのかな?
僕は笑顔で会釈すると、少年は同じく会釈をして言った。
「おじさん、前に来てた人ですよね。心美を引き取った人」
突然心美ちゃんの名前が出たので、驚いた。
そうか。彼女と同じ施設なら当然知ってるに決まってる。
僕はバカか。
「ああ、そうだよ。今日は心美ちゃんの近況報告をしたいと思ってね」
「報告……」
少年は何故か眉を潜め、何か考えるようにつぶやいた。
「ああ、変な内容じゃないよ。特に問題なく良好に生活している。ただ、赤の他人が引き取ったんだから、ちゃんと報告はしないと」
彼を安心させようと何気なく言ったが、その後に少年の言った言葉に思わず目を見開いた。
「おじさん……問題ないんですか?」
え?
なんだ……その言葉は。
あまりの違和感に少年の顔を二度見してしまった。
それはこういう場面で言う言葉ではない。
普通、ここで出るのは心美ちゃんの名前だ。
これじゃまるで僕に……何かあると思っていたようだ
「えっと……君、もし良かったら話を……」
その時、施設の入り口から「柳瀬さん、すいません。お待たせしました。会議が長引いてしまって」 と、女性の声が聞こえたので、慌ててそちらを見た。
「すいません。今行きます」
そう言うと、少年を見て頭を下げた。
あの子ともっと話したかったが……
●○●○●○●○●○●○●○●○
「今日はすいません。こんな田舎まで」
女子棟主任の
A県の福祉大学を卒業後、ずっとこの天使園で働いているらしい。
汗をしきりにタオルで拭きながら、ニコニコと笑っている様子は、子供たちから慕われているであろう事を容易に想像させた。
大嶋主任はソファを僕に勧めると、一度部屋を出て麦茶のグラスを持ってきた。
窓の外ではセミの鳴き声が響き渡っている。
度を越えた猛暑のせいか、街中ではここまでのせみの声は聞こえないので、なぜかホッとする。
「いえいえ、僕こそお忙しい中、お時間頂き申し訳ありません」
そう言って頭を下げる僕に大嶋主任は笑顔で両手を振った。
「いいえ、いいえ。案外こう見えて暇ですから。あ、こんなこと言ったらホーム長代理に起こられちゃう」
その言葉を聞いて、僕は身を乗り出した。
「あの……今、代理の方がここの長を勤められてるんですね。あ、では……前のホーム長……仙道様は」
「あ、えっと……仙道は一身上の都合で退職となりました。詳細はすいません」
「そうですか……残念です。あの方が僕ら夫婦に心美ちゃんを引き合わせてくださったので。その時は悩みなんて無さそうで、お元気な様子だったのですが……」
そう言いながら大嶋主任の様子を観察する。
だが、特に変わったそぶりも無く、首をひねっていた。
「そうなんです。だから私たちもビックリしたんですよ。そんな職場を飛んじゃうくらいに悩んでる感じも無かったですし。まあ、前からやたらとスマホを見てることが多かったし、先週くらいからやたら外で電話してる事もあったので、出逢い系サイト使ってて、そこの女と駆け落ちしたんじゃない? みたいな事を子供たちは言ってましたが。ああ、もちろんカミナリ落としましたよ!」
その言葉に僕は心臓が大きくなり始めた。
先週……仙道ホーム長が失踪するあたりだ。
僕は精一杯の演技力を使い、さも興味なさげな様子で言った。
「仙道さんは普段そんなスマホを見ない人なんですか?」
「ええ。だから、何世代も前のを使ってたんですよ。『もう化石じゃないですか。マニアとか高値で買うんじゃないです?』って良く冗談を……あ! いけない。すいません。ベラベラどうでもいい事を……えっと、心美ちゃんの報告でしたね。どうぞどうぞ」
大嶋主任は汗を拭きながら慌てて言った。
この人はつつけば色々教えてくれそうだな……特に仙道ホーム長の事なんかは。
そう思っていたとき。
急にノックの音が聞こえて「坂田です。大嶋主任。まだお話中ですか?」と男性の声が聞こえた。
あの声は……仙道ホーム長の失踪を伝えた職員の声。
「あ、すいません! まだ途中で……」
すると、ドアが開いてやせ気味の神経質そうな男性が顔を覗かせた。
「何を話してたのですか? 柳瀬さんからの報告を聞くだけでしょう? ……すいません大嶋さん。人手が足りなくて、臨時で男子棟の対応をお願いしてもいいですか?」
「え? でも、今日は伊藤君が入ってくれるって聞いてますが」
「彼だけでは心もとなくてね。柳瀬さんは僕が対応します。有難うございました」
その言葉に大嶋主任は「前は伊藤君、頼りになるって言ってたじゃん」と小声でつぶやきながら不満そうに唇を尖らせたが、どっこいしょ、と小さく声を出して立ち上がった。
「すいません、柳瀬さん。ダラダラしゃべっちゃって。また何か会ったらいつでも来てくださいね」
そういってニコニコと笑うと部屋を出て行った。
●○●○●○●○●○●○●○●○
大嶋主任から坂田ホーム長代理に交代してからは、心美ちゃんの報告に対して終始笑顔を浮かべながら愛想よく聞いていたものの、きわめて事務的で何も得るものは無かった。
僕は坂田ホーム長代理が持たせてくれた緑茶のペットボトルを飲むと車に向かった。
あの人ではダメだな。
また大嶋主任に何とか話す機会があれば……
そんな事を考えていると、急に「あの……」と声が聞こえたので、驚いて声のほうを見ると、先ほど駐車場であった少年が建物の窓から顔を覗かせている。
そして、周囲を見ながら手招きをしているので慌てて駆け寄った。
「すいません。窓からなんて失礼な真似を……あの、今の心美の事を教えて欲しくて。でも、ここじゃなんなので。俺のラインのIDになります。また連絡下さい」
そう言って小さなメモ用紙を渡してきたので、それを受け取るとすぐにポケットに入れた。
「ありがとう。ところで君は……」
そこまで言いかけたところで建物の中から「
「俺、
そう言うと、建物の中に戻っていった。
渡辺篤……
見た感じ、心美ちゃんと年齢は近いか同い年だろう。
彼は何を言いたいのだろうか。
それとも聞きたいのか……
車に乗り込むと、窓を開けて涼しい空気を送り込む。
木々の陰が織り成す鮮やかな陰影と、冷たさも感じる風。
そして降り注ぐようなセミの鳴き声。
ふと、それらの中で笑みを浮かべて立っている心美ちゃんの姿が浮かんだ。
だけど、その表情は全く見えなかった。
●○●○●○●○●○●○●○●○
マンションに向かって車を走らせながら、僕は先ほど話をした大嶋主任。
そして篤と言う少年の事を考えていた。
あの二人は心美ちゃんとどういう関わりを持っていたんだろう。
そして、仙道ホーム長。
失踪前に度々電話していたと言う。
その相手は……
そんな事を考えていると、携帯が鳴った。
運転中なのでそのままにしていると、なおも鳴り続けたためやむなく近くのコンビニの駐車場に停めて出る事にした。
後で、ここで買い物するか……
そう思いながら着信履歴を見ると心美ちゃんからだった。
施設から帰るところでのタイミングに薄ら寒いものを感じながらも電話に出た。
「もしもし」
すると電話の向こうから心美ちゃんの声が聞こえたが、その声はどこか沈んでいる。
「パパ……」
「どうした? 何かあったか?」
するとややあってポツリとつぶやく声が聞こえた。
「会いたい。フラワー・ティーハウスに居るの」
フラワー・ティーハウスと言えば、家から歩いて10分程度の紅茶専門のカフェだ。
だが、なんでそこから僕を……そして、心美ちゃんの声が今まで聴いたことがないくらいに沈んでいるのが気になって、わざと明るい声を出した。
「大丈夫だよ。パパも丁度帰ってきてるとこだから」
そう答えて、一旦通話を切るとそのままカフェへ向かった。
そして店に着くと、心美ちゃんは外に立っていた。
もう夕方だが、まだ気温は高い。
驚いて車から出て駆け寄ると、彼女は手を振った。
「ずっと外にいたのか?」
「うん。だって、お小遣い結構使っちゃったから」
そう言って微笑む心美ちゃんの顔は赤くなってて、仄かに汗ばんでいる。
「じゃあお店に入ろう。何か飲まないと熱中症になるぞ」
そう言ったが、心美ちゃんは大きく首を横に振った。
「車に行きたい。外じゃ……話したくない」
その切羽詰った様子に不穏なものを感じたので、言われるままに心美ちゃんと共に車に戻り、エアコンをつけた。
すると、その途端心美ちゃんはまるでせき止めていたものが溢れるように涙を浮かべると、僕に抱きついてきた。
「ちょ……! どうした?」
混乱しながら話す僕に心美ちゃんは泣きながら言った。
「助けて……パパ。もうやだ」
「どうした。落ち着いて話して。何があったか分からないけど、もう大丈夫」
出来るだけ優しい口調で言うと幾分安心したのか、心美ちゃんはしゃくりあげながら言った。
「覚えてる? ホーム長……さん」
「ああ、覚えてるよ」
仙道ホーム長?
なぜ、このタイミングで? と思ったが、次に彼女の言った言葉に僕は耳を疑った。
「もうヤダ……あの人……仙道さん。あの人に……脅されてるの。言う事聞かないと……写真をネットにあげる……って」
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