うそつき(前編)

 肩を震わせて泣いている心美ちゃんの姿に、僕は昼までの疑念を抱いていた自分に恥ずかしさを感じた。

 

 またやってしまった……この子を信じてあげられなかった。

 

 自分は何なんだろう。

 親に信じてもらえない。

 その辛さや心細さは自分が一番知ってるじゃないか。

 あの時の父親の目……

 12月の冷たい空気。

 その空気の中での父親の目と言葉……


(お前が悪いんだろ? 謝りなさい)


 こめかみが脈打つのが分かる。

 顔がカッと熱くなり、すでに老人ホームに入っている75歳の父への激しい怒りが未だに湧いてくる。

 

 僕は違う。

 僕は……我が子を信じる。

 何があっても。

 疑ったりしない。

 そう決めたはずなのに、なぜ……同じ苦しみをこの子に……


 そう思うと、自分への悔しさと心美ちゃんへの申し訳なさで、涙が滲むのが分かった。

 くそ、いい歳して……


 涙を拭おうとすると、心美ちゃんが涙で頬を濡らしながら僕をじっと見た。


「パパ……泣いてるの?」


「……ああ。君を辛い目に合わせた。それが……腹が立って」


 そう言いながら涙を拭おうとハンドタオルを出そうとすると、突然心美ちゃんが人差し指で僕の涙をそっと何度も拭った。


「パパは悪くないじゃん。ありがとう。やっぱり……私の……」


 そう言うと、僕の涙を拭った人差し指をじっと見た後、まるでキャンディを舐めるように何度も舌先を這わせた。

 

「え……? ちょ……心美ちゃん」


 彼女は僕をちらっと一瞥いちべつするとニンマリと笑った。

 その姿はあまりに妖しさを感じさせるもので、思わず目を逸らした。

 なんだ……これは。


「パパ……今度は私のも……」


 そう言うと涙に濡れた頬をわずかに僕の方に向けた。

 いや……冗談だろ。


「いや、それは……」


「ゴメンね……ハンカチ、忘れてきちゃったから」


 そう言いながら、困った表情でじっと見てくる。


 流石に汗を拭いたハンドタオルと言うわけには行かない……

 僕は心臓が激しく鳴るのを感じながら、同じように人差し指で彼女の頬を拭う。

 心美ちゃんの吸い付くような肌とわずかに感じる産毛が、動揺を誘う。


 しっかりしろ……僕は……父親だ。

 彼女はまだ……子供だ。

 そう思う気持ちと裏腹に指は震えてしまう。


 緊張してるのが、ばれない様に……

 数回頬の涙を拭うと、内心ホッとしながら指を離した。


「終わった……よ」


 だが、心美ちゃんはわずかに眉をひそめてポツリと言った。


「続きは?」


 続き……まさか……さっきのを!?

 思わず目を見開いて彼女を見ると、心美ちゃんはクスッと笑って言った。


「冗談」


「じょ……何を」


「ゴメンね。でもさ……ママが言ってたんだ。『涙はこの世で一番綺麗な水だ』って。悲しさや嬉しさで出てくるし、それで心の中の嫌なものを洗い流しちゃう。だから、涙は神様がくれた贈り物だ、って。だから大切な人とは分け合うんだよ、って」


 無邪気な口調と内容の差に混乱を感じながらも彼女に合わせなくては、と言う思いで頷いた。

 彼女の前の母親はどんな人なんだ?

 言ってる事が……


 いや、それよりも彼女と仙道ホーム長の事だ。

 僕はひたいを何度かこすると、息をついて言った。


「心美ちゃん。あまり話したくないかもしれないけど……その、仙道ホーム長に脅されてる、ってのは」


 心美ちゃんは苦しそうに眉をひそめると、小さく首を振った。


「言いたくない」

 

「そうか……じゃあやり取りのラインとかある? 警察にそれを見せ……」


「いや!」


 心美ちゃんの叫ぶような言葉に僕は驚いてまじまじと彼女を見た。


「だって……警察言ったら画像の事も……言うんでしょ? やだ。話したくない」


「そんな……内容なのか?」


 心美ちゃんはまた涙ぐみながら顔を横に向ける。

 そのあまりに悲壮感溢れる様子に、仙道ホーム長への怒りが湧いてくるのを感じた。

 僕の中ですでに昼間の疑念は焼けた後の灰のようにその姿を消し、代わりに言いようの無い義憤と……隅の方に燃えカスのようにわずかにある……満足感があった。

 

 僕はわが子を信じている。

 どんな時でも味方になれる。

 あいつとは……違う。


「パパ……怒ってくれてるの?」


「当たり前だ。君は大切な娘だ」


「ありがとう。ねえ、ギュッとしてくれる?」


 その言葉に僕は躊躇ちゅうちょしたが、心美ちゃんの気持ちを考えうなづき、両手を広げた。

 すると、すぐに彼女は僕に抱きついてきた。


「もっと。ギュッとして」


 その言葉に従い、彼女をきつく抱きしめる。


「パパ……ホッとする。ねえ、私の事……好き?」


「ああ、もちろん」


「私も……好き」


 その言葉に何故か鳥肌が立ち、胃の奥がギュッと締まるのを感じた。

 なんだ……この嫌な感じは。


 ●○●○●○●○●○●○●○●○


 ショックと泣いた後の疲れからだろうか、気だるげな様子で助手席のシートにもたれて窓の外を見ている心美ちゃんに、僕は言った。


「仙道ホーム長の事だけど、今どこに居るのか分かる? 由香里ゆかりおばさんにパパから相談しようと思うんだけど」


 姉の落合由香里おちあいゆかりはD県に嫁いでいるが、夫が地元の交番で警察官をしている。

 他県なので決め付けてはいけないが、何か力になってくれるかも、と思ったのだ。


「仙道さんは今、H県にいる。でも、こっちに来てるんだ。この前、見たから」


 仙道ホーム長が……この町に……いる?


「それは、本当に?」


「うん。だって2日前、私を遠くからじっと見てるのが分かった。怖くて逃げたけど。で、ラインが来た。『顔が見たい。会いたい』って……ねえ、パパ。どうしたらいい?」


「……幸いまだ夏休み中だ。これかしばらくはパパと一緒に行動しよう。できるだけ家に居るんだ。で、ママにも話して……」


「いや。ママには……知られたくない。だってママも女性だもん。巻き込んで怖い思いさせたくないよ。それに……知ってるよ。ママ、仙道さんの事を恩人だって、凄く信頼してたから。なのに、それを裏切る事はしたくない」


 僕は心美ちゃんの言葉に、それ以上何も言えなかった。

 確かに、義理の娘としてやってきてまだ二月も経っていない。

 いくら僕たちが気にするな、と言っても彼女なりに思うところはあるだろう。


「分かった。じゃあ僕ら二人で……やってみよう。由香里おばさんには相談してもいいかい?」


「うん、それは大丈夫。……ありがと、パパ」


 僕は心美ちゃんの言葉に笑顔で頷いた。


 この時。

 一年近く経った後に、僕はこの時の自分の判断を思い出すことになる。

 「運命の分かれ道」などと言うあまりに陳腐な言葉。

 

 だが、この場面こそまさにそれだった。

 この車内で……もし、異なる行動、言動をとっていたなら。

 間違いなく、この後の様々な事が変わっていたはずだった。


 だが、この決断をしたのは間違いなく……この僕だった。

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