加納さや

「大丈夫、卓也? それ私にしか言ってないよね?」


 カウンターの向こう側でコーヒー豆を挽いている、加納かのうさやは苦笑いを浮かべながら言った。


「当たり前だろ。こんなのお前以外に誰に言うんだよ」


 土曜日の午後。

 自宅マンションから歩いて15分の場所にある「カフェ・ルーエ」

 ここのマスターのさやとは6歳の頃からの幼馴染で、腐れ縁だ。

 パッと見、中性的な容姿のせいでよく男と間違われる事があるが、本人は意にも介していない。


 彼女の長年の夢だった、本格的な珈琲を出すカフェを半年前にオープンしたのだが、たまたま俺たちのマンションの近くだったので、仕事帰りや土日に香苗が居ないときぶらりと立ち寄っては、香苗に言えない愚痴やくだらない話をしている。

 今日も、その流れで水曜日の課長が援助交際で捕まった一件と、それについての密かな思いを話したのだ。


「大体、引き取ったばかりの子にそんな気持ちを持ったら可愛そうだよ。その……心美ちゃんって子」


「だから、あの子と話すときは考えもしてないって。あの子が結婚するまで大事にしたいと思ってる」


「ならいいけどさ。香苗さんだって……ほら、子供は……ね」


 さやのゆっくりと挽くコーヒーミルの心地よいガリガリ、と言う音と共に甘く優しい豆の香りが店内に広がる。


 さやは客の少なさをぼやいているが、僕としては内心ありがたい。

 コーヒー豆の香りと共に、心底リラックスできるこの空間は「秘密の隠れ家」というにふさわしいからだ。

 決して口には出すつもりは無いが、香苗と居るときよりもリラックスできるかも知れない、と思う自分も居る。

 だが、それはあくまでも幼い頃からの幼馴染だからだ。

 

 そう。

 大切なのは香苗と心美ちゃんなんだ……


 だから、二人には毎回パチンコに行くと言って、この店に来ていること。

 このカフェの事を言ってないのも、深い意味なんか無い……


「……ねえ、今度その心美ちゃんって子、紹介してよ! すっごい興味ある。お店に連れてきてよ」


「いや、それはちょっと……」


「なんで、ケチ。……所で、ちょっと相談したいことがあるんだけど……」


「なに?」


「あのさ、最近お店の近くに……」


 さやが何か言いかけたその時。

 背中でカランカラン、と軽やかなドアベルの音が聞こえると共に、飛び込んだ声に心臓が大きく鳴った。


「あれ? パパ……」


 ギョッとして振り向くと、そこには両手で口を押さえて目を見開いている心美ちゃんが立っていた。

 なんで……


「あ……この子?」


 さやもポカンとした表情を浮かべている。


 ●○●○●○●○●○●○●○●○


「パパ、パチンコ行ったんじゃなかったの? ビックリしちゃった」


 隣に座ってニコニコしている心美ちゃんに、目を逸らしながら答えた。


「いや、今日はすぐに負けちゃってさ……気晴らしに寄ったんだ。心美ちゃんは……どうして」


「私、この辺を全然知らないから、時間ある時にお散歩してるの。で、初めてみるお洒落なカフェがあって、施設での貯めたお金もあったからどんなとこだろう、って思ってたまたま。でも、良かった。パパに会えたんだもん」


「あ……パパも嬉しいよ。でも、まだ中学生だから1人では早いんじゃないか?」


 心美ちゃんはそれに答えず、さやに向かって小さく頭を下げた。


「初めまして。柳瀬心美と言います。先月から特別養子縁組で正式に娘になりました」


「私こそ初めまして。加納さやと言います。こちらの柳瀬卓也さんとは6歳からの幼馴染なんです。たまたまこの近くにカフェをオープンしたけどお客さんも少ないから、こうして来店して助けてくれてるんですよ」


「へへ……流石パパ。優しいんだね」


「あ……まあ、ね。ゴメン、黙ってて。お前や香苗に誤解させたくなくて。心配させるだろ?」


 さや、ナイスフォロー。

 そう思ってさやをチラッと見たが、なぜかさやは無表情でコーヒーを淹れ出した。

 

「ええ、そうなんです。せっかくの暖かい家庭ですから」


「……悪いな。助かってるよ」


「いいえ」


 そうつぶやくとさやは珈琲を1杯淹れて、僕の目の前に置いた。


「どうぞ。ご注文のホットコーヒーです」


「うん、やっぱ美味しいね……心美ちゃん、彼女は豆を手で挽くことにこだわってるんだ。時間はかかるけど、美味しいんだよ」


「へえ……私も頂いていいですか?」

 

「はい。ではもう一杯淹れますね」


「有難うございます……所で、さやさんって凄くお綺麗な方ですね。ビックリしました」


「い、いいえ。お上手ですね。私なんて全然。心美ちゃんの方がずっとお綺麗ですよ。聞いてた通り」


「え? パパ、私のことそんな風に言ってくれてるんだ? 嬉しい! ……じゃあママは? ママの事はどんな風に言ってました?」


 その突然の問いにさやは一瞬言いよどんだが、すぐにニッコリと笑顔になって言った。


「香苗さんも綺麗で自分には勿体無いくらいだ、って言ってますよ」


 心美ちゃんはさやをじっと見ると、ニッコリと笑って頭を下げた。


「有難うございます。だよね、パパはママに一途だもんね。他の女の人は引き立て役だ、って言ってたもんね」


「え!? そんな事……」


 いやいや、そこまで言ってないぞ。

 慌てて否定しようとしたが、心美ちゃんは席を降りると僕に抱きついてきたので、言いかけた言葉がどこかに行ってしまった。


「そういうパパ、大好き。ね、私の事も大好きだよね?」


「あ……ああ、もちろん」


 頭に血が上るのを感じながら、しどろもどろに言った言葉に満足そうに微笑むと、さやに向かって嬉しそうに話しかけた。


「私、このお店気に入っちゃいました。よかったら……これからも来てもいいですか? いいよね、パパ?」


 その言葉に僕は頷いた。


 それから少しの間、コーヒーを飲みながら3人で色々と話した後、僕と心美ちゃんは店を出た。

 すると、その途端以前のときのようにまた腕を組んで身体を寄せたので、さすがに言わなければ、と思い咳払いの後に言った。


「あの……心美ちゃん。そうしてくれるのは嬉しいけど……君も中学生の女の子だ。こんなおっさんとこんな風にしてたら、周りが君を変な風に見るよ。だから、普通にしないか?」


 必死に言ったその言葉に心美ちゃんは、キョトンとした表情で言った。


「私、気にしないよ。パパやママ大好きだし。言いたい人には言わせとけばいいじゃん。前も言ったけど、ずっと憧れてたの……パパは嫌なの?」


「いや……そうじゃないけど」


「じゃあ大丈夫」


 そう言ってまたくっつきだした。


 今度、児童心理の本でも読んでみるか……

 そう思ったとき。

 携帯が鳴ったので、確認するとさやからのラインだった。


 何気なく確認した僕は思わず息を呑んだ。

 それは心美ちゃんに関するものだった。


『私が言いかけてた事覚えてる? 『お店の近くで……』ってやつ。あの子の事。心美ちゃん、前もお店の近くに来て私の事見てた。初めてじゃないよ。あの子なんであんな事言ったの?』


 初めてじゃ……ない?

 でもさっき『初めて来た』って。

 なんで……


 ラインの画面を見たまま視線を泳がせていると、横から「パパ?」と声が聞こえてハッと我に帰った。

 そして、心美ちゃんを見ると僕のスマホをじっと見ている。


「あ、ゴメン。ちょっと職場からの連絡で、トラブルが起こったみたいでね。ビックリしたよ」


「そうなんだ。大丈夫? 解決しそう?」


「ああ……大丈夫」


 そう言った時、心美ちゃんが僕を上目遣いで見上げると、薄笑いを浮かべた。


「良かった。……ビックリしたよ。浮気かと思ったじゃん」


 それは冗談めかしたものだったが、何故か僕は心臓をつめたい手で触れられたみたいな不安感を感じ、心美ちゃんをじっと見た。

 すると、彼女は安心したように笑うとさっきよりも全身を僕の腕に密着させた。


「帰ろう、パパ」


「そうだな……心美ちゃんも宿題あるだろ?」


「うん。あ、そうだ。あのお店の事……ママには黙っててあげるね」


 え?

 

 僕はギョッとして心美ちゃんを見たが、彼女はすでに片手で携帯を何かを熱心に見ていて、話しかけても上の空だった。

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