時雨太夫 外伝 蛟竜と龍女

第1話 蛟竜と龍女



時任家 上屋敷


「うわぁぁぁぁぁぁ」


 桂真之介は自分が上げた大声で目を覚ました。真之介の夜着は汗でびっしょりと濡れている。ここ五十日ほど、真之介は夢にうなされ続けていた。少し前に襲撃された時任家中屋敷の事件が尾を引いているのだ。

 真之介はその時に不本意ながらも心を寄せる人の右腕を切断した。毒が回る前に処置するためには仕方の無い事だった。そのことで特にその女性から責められたわけではない。その女性、新藤亜紀しんどうあきは切断された腕の治療のため時任家の中屋敷で療養している。

 斬り落として以来、一度だけ顔を合わせていた。それは自分がかつて想いを寄せていた人と交わり、その時自分の気持ちをしっかり伝えるべきだと言われたからだった。

 ただし、その時に言えた言葉は申し訳ないという言葉だけだった。

 亜紀は 「問題は無い、むしろ生かしてくれたことに感謝したい」と言ってくれた。しかしその時の亜紀の眼は忘れられない。彼女の眼には真之介は映っていなかった。何も映していなかったのだ。


「桂様、大丈夫でしょうか?」


 上屋敷の女中が障子の外に座り、様子を聞いてきた。大声を上げたので急いできたのだろう。少しだけ息が荒い。


「あ、ああ、すまない。いつものことだ。申し訳なかった」


 真之介は駆けつけた女中に詫びを入れると、女中が立ち去るまで上半身を起こしていた。女中が立ち去るのを確認して真之介は布団の中に身体を戻した。天井を見上げ亜紀の顔を思い浮かべる。


 亜紀は数年前に伴侶を亡くした後家だ。

 先日の中屋敷襲撃まで時任家の奥方であるお豊の方の護衛や身の回りの世話から女中達の指揮まで全てをこなしていた。しかしそれもそこまでだった。中屋敷の事件で右腕を肘から失った亜紀はその場でこそ気丈に振る舞い、現藩主を守り抜いた。そして今は療養中だ。得意とする長刀も振るうのは難しいだろう。お豊の方は側仕えとして置いておきたがっているようだが、肝心の亜紀は心を閉ざしたままだ。そうなると亜紀は国元へ帰るしかない。

 実家は両親とも他界しているので先夫の家に帰ることになるだろう。亜紀には子供もいないので肩身の狭い思いをするだろう。


「私は……、安岐姫のように素直な気持ちを言えるのだろうか」


 真之介はゆっくりと目を閉じ、剣術の時に使う呼吸法を始める。心の平静を取り戻した真之介の意識はそのまま闇の中へ消えていった。


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 真之介は朝早くに前藩主の奥方であるお豊の方に呼び出されていた。真之介は正直恐ろしい気持ちに支配されていた。お豊の方は大阪の陣の折、前藩主時任兼房と共に戦場を無傷で駆け抜けた豪傑である。その鬼神のような働きについたあだ名が鬼姫だ。

 特に長刀を使わせたら前藩主である兼房でも敵わない。情けない話だが時任家の剣術指南役である真之介でも赤子の手を捻るように扱われる。戦場を切り抜け生き抜いた者と太平の世に生まれた者との武芸は根本的に違う。真之介はそれを幼い頃から身をもって体験していた。

 そのお豊の方からの呼び出しだ。とんでもない稽古を付けられるかもしれないと思うと、真之介は背筋に冷たいものが流れていた。


 いつの間にか目の前にお豊の方の部屋があった。何も考えずとも勝手に足が向いてしまう。警護役の悲しい性だ。


「桂真之介、お呼びにあがり参上いたしました」


 真之介の言葉が終わると、襖が左右に開いた。奥にはお豊の方が座っている。側には長刀を持った女中が二人控えていた。

 お豊の方は四十四歳。それでもいまだに二十代後半にしか見えない。お豊の方が近くに来いと手招きをする。

 真之介は襖の両隣に気を配りながら部屋の中へと入る。それはいつの日か気を配らずに入り、真剣の長刀が振り下ろされた事があったからだ。今日は何事も無くすんなりと中へ入れた。


「真之介、大丈夫か?」


 真之介が挨拶をしようとした時、いきなりお豊の口から言葉が洩れた。大丈夫かと言われても心当たりは一つしか無い。しかしそれを女中が報告したとも思えなかった。


「いえ、特に体調を崩しているわけでもござりませぬし、職務もこなしておりますが?」


 お豊の問いに真之介は思うままに答えた。すぐに扇子が飛んでくる。真之介は反射的にそれを躱していた。本来ならば取って返すべきなのだろうが、この屋敷では何が入っているか分からない。ここは常に戦場なのだ。


「真之介。お主、毎夜魘うなされておるらしいの……」


 真之介は顔に血が上ってゆくのを感じた。それは怒りでは無く恥ずかしさのためであった。


 「あ、その事でございますか。最近怪談話を寝る前に読んでいまして、それが夢の中へ出てくるのでございます……」


 正直苦しい言い訳だった。控えの女中もお豊の方も笑わない。それどころか目線が冷たくなった。


「ふむ、まぁ良い。職務に支障が無いのならばそれで良い。それよりもな……」


 お豊の方の話は見合いの話だった。どうやらこちらが本命らしい。真之介は先代藩主の兼房とお豊の方から再三、見合い話を持ち出されていた。それを真之介が毎回拒むのでいい加減に焦れてきたようだ。


「いえ、私にはまだ所帯を持つ気はございませぬ」


 真之介は躊躇いも無く断る。その言葉にお豊の方の目が再度細まった。


 「……好いた女子でもおるのか?」


 お豊の問いに真之介は俯いたまま無言を貫いた。本来ならば返事をせねばならない。しかし、真之介は答えなかった。答えたら深く聞かれる。


「まあ良いわ。ところで、ちと使いを頼まれてくれぬか」


 真之介は黙って顔を上げた。お豊の方は薄らと笑いを浮かべている。このようなときはろくな事は無い。しかし今のところ急ぎの仕事もないので断る手段がなかった。


「どのようなご用件でしょうか?」


「下屋敷に行って亜紀の相手をしてやってほしい」


 真之介は心の臓の動きが速くなるのを感じた。またあの視線を直接目にしないといけない。それは真之介の心を強く痛めつけた。


「私が……でしょうか? 失礼ながら亜紀殿は私を避けられるのではありませぬか? それに男子の私で亜紀殿の相手が務まるとは思いませぬ。どなたかお女中で仲の良いお方を……」


 寒気が真之介を襲う。控える女中達の顔色も真っ青になっている。寒気はお豊の方からだ。


「真之介、行け」


 お豊の方から発せられた一言。それには逆らえない何かが込められていた。次は無い。真之介はそれ以上は何も言えなかった。


「承知いたしました。いまから支度をして向かいまする」


 真之介はお豊の方に一礼すると立ち上がり部屋を後にしようとした。襖を抜けるときにお豊の方から声がかかる。


「亜紀を正気に戻して参れ……」


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 真之介が出て暫くしてお豊の方は口を開いた。そこには先程までの殺気はなく、優しさに包まれた声色だった。


「やれやれ、真之介にも困ったものじゃ。素直に亜紀に求婚すれば良いものを……のう」


 側仕えの女中に話を振る。女中は暫くして口を開いた。


「お方様。今の亜紀には……。それに相手は己の武を絶たれた桂様です、余計に大変なことになるのではございませんか?」


 女中の言葉にお豊の方は声を出して笑い出した。


「それはそれでなるようにしかならぬよ。それが男女というもの。しかし、亜紀も情けない。たかだか腕一本失っただけであれ程落ち込むとは。あれで駄目になるようなら時任家にはいらぬ。お前達も心しておれよ」


 お豊の方はそれだけ言うと黙って天井を見詰めた。


(旦那を失い、鍛え磨き上げた腕を片方失う。辛いであろうが立ち直り再度幸せになって側に仕えてもらいたいものじゃ)


 それは戦国を生き抜いてきたお豊の心からの願いであった。


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時任家中屋敷


 真之介は朝五ッには時任家中屋敷の門前に着いていた。しかしその足取りは重かった。門前で四半刻はうろうろとしている。真之介は中々最後の一歩が踏み出せないでいた。


「桂様?」


 いきなり呼びかけられびくりと身体を震わせ振り返る。そこには中屋敷に常駐している女中が立っていた。


「あぁ、びっくりしました。脅かさないでください」


 真之介は女中の視線の先を追う。そこには鯉口を切った自分の手があった。慌てて刀を鞘に収める。その様子を女中は微笑みながら見ていた。


「驚いたのはこちらです。そのように隙だらけの桂様は初めてお目にかかりました。それに門の前でうろうろしておられてはそのうち狼藉者と間違えられて捕らえられてしまいますよ。もっとも桂様に敵う者がこの中屋敷にはおりませぬが」


 女中は笑いながら近づいてくる。


「ところで本日はどのようなご用件でこちらまでおいでになられたのでしょうか?」


 真之介は右手に持った菓子折を女中に渡しながら今回の訪問の経緯を話した。この女中は中屋敷の女中頭で真之介も何度とも話している信頼の置ける相手だ。ひとしきり今回の訪問の内容を伝えると女中頭は少しだけ俯いて考え込んだ。


「正直亜紀は、以前桂様がおいでになられた時のままです。腕はもう大丈夫なのですが……」


 それなりに覚悟はしていたが亜紀の様子は変わりが無いということだった。つまり心がここには無いということだ。真之介は自分がここに来させられた意味を考えていた。当然お豊の方は亜紀の状態を把握しているはずだ。それを承知で自分に相手をしてこいとおっしゃった。


「……さま。桂様」


 女中頭の呼びかけに真之介ははっと我に返る。


「とりあえず中に入りませんか? ここでは……」


 中屋敷の門番が顔を出し二人の様子を眺めていた。女中頭の促しもあり真之介はとりあえず中屋敷に入り、亜紀に取り次いで貰うことにした。

 女中頭が亜紀と話をしに行き、暫くして部屋に通すようにという返事を持って帰ってきた。その後、真之介は一人で亜紀の部屋へと向かう事となった。亜紀の要望ということらしい。


「失礼いたします。桂真之介でございます。入ってもよろしいでしょうか?」


「……どうぞ、お入りください」


 どこか力の抜けた声が襖の中から聞こえてきた。真之介は[入ります]と声をかけ襖を開ける。そこには蒲団の上に起き上がり真之介に目を向ける亜紀の姿があった。その目にはやはり活力が無い。そして何者も映してはいなかった。


「亜紀殿、息災……とは申せません。お身体の方はいかがでしょうか?」


 真之介の問いに亜紀は薄らと笑いを浮かべ黙って頷いた。


「ご心配、ありがとうございます。わたくしは大丈夫でございます。本日は桂殿、どのようのご用件でしょうか?」


 亜紀の問いに真之介は黙って俯くしか無かった。お豊の方から相手をしてこいと言われたとは言いづらい。真之介はなんとか話題を見つけようと必死で頭を回転させていた。


「桂様、はっきりおっしゃってください。私は暇を出されるのでしょう?」


 突然の亜紀の言葉に真之介は唖然となった。どこからそのような話になったのか訳が分からない。真之介は思わずその疑問を亜紀に尋ねていた。


「どうして暇を出されるとお思いなのでしょうか?」


 真之介の言葉に今まで虚ろだった亜紀の眼に変化が訪れた。亜紀は蒲団の上に正座をし、真之介に向き直った。


 「命をお助けいただいた桂様にこのような言い方をするご無礼をお許しください。 これです! 私は武を芯とする時任藩ではもうお役には立てません! 盾となるのみでは生き恥を晒すだけでございます」


 亜紀は無くなった右腕の肘から上を真之介の方へ突き出した。そこはまださらしが巻かれており、真之介に自分が行ったことを思い出させる。真之介は逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが亜紀の顔を見た瞬間、その心は別の考えを引き起こさせた。亜紀の目からは涙がこぼれ落ちていた。


「何故、何故、あのとき殿と桂様はわたくしを死なせてくださらなかったのでしょうか? わたくしは盾にもなれず死ぬ機会を失いました。身体の一部を失いお役に立てなくなった者の気持ちがお分かりになられますか!」


 亜紀の涙は止まることなく流れ続けていた。真之介はその時初めて亜紀の心を覗くことが出来た。


 (そうか……、亜紀殿は時任家のお役に立てなくなり必要とされなくなることを恐れていたのか)


 亜紀の大声を聞きつけた女中頭とほかの女中達が何事かと駆けつけ、二人の様子を見守っていた。亜紀は涙を流しながらしゃくりあげ、左手で涙を拭っていた。


「桂様? 亜紀殿に何をおっしゃったのですか?」


 女中頭の質問に何も返さず真之介は黙って立ち上がった。亜紀と女中達の目が真之介に集まる。真之介は亜紀の部屋の壁に掛けてある長刀を手に取った。そのまま亜紀の前に立つ。


「亜紀殿、勝負の準備をなされよ」


 長刀を亜紀の目の前に差し出す真之介をその場にいる亜紀以外の誰もが睨み付けていた。


「桂様! どういうおつもりでしょうか。亜紀がああなってしまったのも失礼ですがあなた様が亜紀の腕を斬り落としたからではありませんか?」


 女中頭と数名の女中が真之介を取り囲んでいた。中には自らの長刀を持ってきている者すらいる。


 「皆様方。これは私、桂真之介と亜紀殿の事でございます。口出しは無用に願います」


 周りを取り囲んでいる女中達は抗議の声を上げようとしたが、誰も声を上げれず後ずさる者ばかりだった。真之介の眼付きと雰囲気が一変したからだ。

それは時任家という武に重きを置く家の剣術指南役にふさわしい程の気配だった。真之介は女中頭に、先に道場へ行くので後から亜紀を連れてきて欲しいと頼み一人で歩き出す。その背中には誰も声をかけられるものはいなかった。


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 真之介はそのままの姿で道場へ座っている。何者をも寄せ付けない気配は先程より更に高まっていた。


(亜紀殿は自信を無くしておられる。私にやれる事は亜紀殿に自信を取り戻させることだ)


 真之介が自分の考えをまとめていると道場に数名が入って来た。女中達と中屋敷を管理している役職の者だ。真之介も何度か話をして、また剣術の稽古をしたことのある人物だ。


「桂、何をするつもりだ? 本気で亜紀と勝負をするつもりか?」


 真之介は男の質問には答えずに黙って座っていた。

 男は深く溜息をつくとそのまま道場の中央に歩いて行く。それと同時に真之介が立ち上がる。女中達を掻き分けるように亜紀が道場に入ってきた。長刀は別の者が持っている。


 「桂、木刀を……」


 中央に立つ男が真之介に木刀を取るように促す。女中の一人が亜紀に道場内の木刀の長刀を手渡した。しかし真之介はその場を動かない。不審に思った女中頭が真之介に再度木刀を取るように声をかけた。


「亜紀殿。自らの得物を抜かれよ……。死に場所をお与え申す」


 真之介の口から洩れた言葉はその場にいる全員を凍り付かせるのに十分な言葉だった。


■□蛟竜と龍女■□


「ちょっ、桂様!」

「桂! 何を考えている!」


 中央に立つ男と女中頭が同時に声を上げる。亜紀の顔色も青く変わった。真之介の表情と顔色は変わらない。ただ黙って鯉口を切る。亜紀は動かない。


「臆されたか! 私の惚れたお方はこの時任家の是を忘れ、片腕となっただけで自ら武を捨て、誇りまで捨ててしまうお方か!」


 突然の真之介の怒鳴り声に全員がびくりと身体を震わせた。誰も声を上げない。時任家の中ではお豊の方に次ぐ長刀の使い手であった亜紀でさえも何も言わなかった。道場内を静寂が支配する。


 …………………


 暫くして真之介は大きく息を吐き出した。切った鯉口を鞘の中に収める。


「私が妻に欲しいと思っていたお方がその程度の方だったとは。自分の眼もまだまだだと思い知りました。どうぞ健やかにお過ごしくだされ。時任家から放逐されることはございませんので」


 真之介はそれだけいうとそのまま道場の出口へと向かってゆく。道場の入り口にいた誰もが道を空けた。真之介は道場に一礼すると黙って背を向けた。


「桂様、お待ちください!」


 真之介の背中に亜紀の声がかかる。その声は若干震えているようだ。真之介は振り返らずにその場に立ち止まった。静かな刻が流れる。


「その勝負、お受けいたします!」


 亜紀の口から発せられた言葉には力が籠っていた。今まで床についていた者とは思えない力強さだ。真之介は黙って振り返る。

そこには自らの得物を同僚から奪い取る亜紀の姿があった。得物を握りしめた亜紀は同僚達の止めるのも聞かず、道場に入る。真之介も表情を崩さずに道場に入っていった。


「二人とも落ち着かぬか!」


 男が二人を制止しようとする。しかし向かい合った二人の殺気に男は道場の端まで下がるしかなかった。亜紀は左手のみで長刀を脇に抱え込む。その左手は長刀の柄の真ん中を握っていた。それを見た真之介の殺気が更に膨らんだ。


 お互い動かない。出方を待っている様子では無かった。


 一撃必殺。


 お互いそれしか考えていなかったからだ。亜紀の視界から真之介が消えたように映った。亜紀は反射的に全身を右に一回転させた。真之介の突きは亜紀の長刀の柄によって大きく弾かれていた。亜紀はその回転した体勢を利用し、今度は左に全身で回転し真之介を斬りつける。遠心力で破壊力を増した長刀は体勢を崩した真之介の胴を正確に捉えていた。


甲高い音が響き渡る。


 高速で襲いかかる長刀の刃を真之介は正面から受け止める。お互い一歩も動かない、動けない程の力の拮抗が生じていた。二人の目線が合う。同時に二人の口元は緩み、笑みを含んでいた。亜紀の身体が今度は逆に回転する。回転した長刀の柄と石突きが真之介の足下を襲う。真之介は半歩だけ体を後ろに下げた。亜紀の眼が妖しく光る。同時に真之介の足に強烈な打撃が加わった。


(なに?!)


 真之介の右足は不快な音を立てた。間合いを計ったはずの柄が一尺程伸びている。体勢が崩れた真之介の身体を亜紀の頭上で回転した長刀が襲いかかった。真之介も右足が不快な音を立てるのにかまわず亜紀の首筋を狙った斬撃を放つ。

全員が目を瞑り、二人の運命を想像した。


 道場内に鉄のぶつかる音が響く。


「はい、そこまで」


 ここにいるはずの無い声にその場にいた全員がゆっくりと目を開いた。そこには二人の渾身の斬撃を片手で持った長刀二本で受け止めているお豊の方の姿があった。斬撃を放った二人は衝撃で吹き飛ばされて床に這っている。二人はすぐに立ち上がり再度仕掛けようとするがあっさりと得物を打ち落とされた。それでも二人は組打つように飛びかかる。


「やめと言っているでしょう」


 二人の鳩尾にお豊の方の長刀の石突きがめり込んだ。二人ともその場に崩れ落ちる。誰も動かない。


「ほら、真之介の足の治療。それと亜紀を部屋へ寝かせてきなさい」


 お豊の指示でその場にいた全員がすぐに動き出す。亜紀は女中達に部屋へと運ばれ、真之介はその場で足に添え木をされる。中間が医者を呼びに行った。



■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□


「真之介、あんたも大概無茶をするね。本気で亜紀を殺すつもりだったでしょう」


 お豊の問いに真之介は黙って頷いた。お豊の方は溜息をつく。


「もうちょっとこう、気持ちを伝える方法はあったでしょうに」


 真之介は面目ございませんと謝った。応急の手当てが済んですぐにお豊の方は真之介と二人きりにするように言って人払いをする。


「ところで真之介ぇ、あんた安岐に会ったでしょう」


 お豊の眼が妖しく光っている。真之介は隠しても無駄だと悟り黙って頷いた。お豊の方は天を仰ぎ黙っている。


「……元気だったかい? まぁ、真之介が無拍子を使ったということは元気だということだろうけどね。あの子が教えたんでしょう?」


 もともとはお豊が使っていた技を安岐時雨に教えていたものだ。それを真之介が引き継いでいた。お豊は複雑な気持ちだった。


「それにしても、へたくそ。真之介、足が治ったら徹底的に鍛えてあげるから覚悟しておきなさい」


 それだけ言うとお豊は亜紀の部屋へ行くと言って道場を後にした。


■□二人の想い■□


 三十日後。

 真之介は砕かれた足もある程度治り、時任家中屋敷へと来ていた。亜紀に面会するためだ。対応に出てきた女中頭は最初は渋っていたが亜紀が自ら出てきたのでその場を引いた。


 二人は亜紀の部屋で向かい合って座っていた。勝負する前と今の亜紀では全くの別人と思える程、表情が変わっていた。


「申し訳ございません。お茶を点てることは出来ませんので」


 亜紀が申し訳なさそうに菓子を出しながら言う。真之介は複雑な顔をした。無言の時が過ぎる。


「……あっ、申し訳ございません」


 亜紀は自分が言った言葉が真之介を傷つけたのではないかと謝る。茶を点てることが出来ないのはまだ上手く片手で茶を点てられないという事を言いたかっただけなのだ。


「謝るのはこちらの方でございます。貴女を不自由にしたのは私ですから」


 真之介は苦笑いを浮かべた。また沈黙が訪れる。


「あの……」

「あの……」


 二人の声が同時に重なった。お互いに眼を合わせる。二人ともが同時にくすくすと笑い出した。ひとしきり笑った後、亜紀が先に口を開いた。


「桂様。わたくしは亡くなった主人に対しこれまで操を立てておりました」


 亜紀はそこで言葉を切った。亜紀の眼は真之介の眼をじっと見詰めていた。真之介も眼を逸らさない。


「片腕が無くなるまでは元夫の家に籍を置いて貰えておりましたが、先日暇を出されました」


 真之介はあまりのことに呆然となった。嫁いだ家から放逐されたということは亜紀は実家へ帰るしかない。しかし亜紀の両親は既に他界している。城勤めをする以外に亜紀に生きる道は無い。


「桂様。あなた様は先日の立ち会いの際、私を妻に欲しかったとおっしゃいました」


 真之介は自らの顔に血が上っていくのを感じていた。身体が熱い。自分でもあのとき言った言葉は噺の演目みたいで恥ずかしい限りなのだ。


「今でもそのお気持ちはお変わりございませんか? それともやはりあのときでわたくしをお見限りになりましたか?」


 真っ直ぐに真之介の目を見る亜紀の目は澄んだものに変わり、真之介が映っていた。自惚れかもしれないが少なくとも真之介にはそのように見えた。


「亜紀殿。私の気持ちは今でも変わりません。ただ、亜紀殿にふさわしいかどうかは分かりかねますが……」


 亜紀の顔が少し強ばる。真之介は何か不味いことを言ったかと自らの言葉を反芻した。


「桂真之介様! 無駄なことは言わずに気持ちをはっきりとおっしゃってください!」


「亜紀殿、私の妻になっていただきたい」


 亜紀の気迫に押され、真之介は反射的に頭を下げ本音を口にしていた。返事は無い。真之介は恐る恐る顔を上げた。そこにははにかみながら涙を流す亜紀がいた。


「後家のわたくしでも、このような身体のわたくしでも、歳が上のわたくしでも貰っていただけますか?」


 真之介は黙って立ち上がり亜紀の前に腰を下ろした。そのまま軽く亜紀を抱きしめる。


「……はぁ……」


 亜紀の口から溜息が洩れた。それは呆れた溜息ではなく、心地よい安心した溜息だった。


■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□


 五日後。


 真之介と亜紀は旅装束でお豊の方の前に座っていた。


「奥方様、それでは行って参ります」


 二人は同時に頭を下げた。二人は時任の地へ一度帰ることにした。それは亜紀の亡き夫と両親への報告の為であった。祝言は戻ってきてから江戸で上げることになっている。


「まったく、面倒なことだねぇ。でもそこが二人のいいところだと思いますよ。岩見に戻り少しゆっくりしてきなさい。大殿や殿からの許しも出ているのですから」


 正確にはお豊がごり押しをしたのだが。


「真之介、帰ったら一から鍛え直すからそのつもりで。亜紀も覚悟しておきなさい」


 そう言うお豊の方の目元は新しい人生を送る二人をほほえましそうに眺めていた。自分が育てた二人が夫婦になる。これほど嬉しいことはなかった。


「それでは奥方様行って参ります」


 少しだけ思いに浸っていたお豊の方はすぐに現実に引き戻された。


「道中、気をつけて」


 真之介と亜紀はお豊に挨拶を済ませると、様々な人に挨拶をしながら上屋敷を出立した。



「亜紀殿、どの道を通りますか?」


 真之介が亜紀に尋ねる。亜紀は杖を持った左手で真之介の頬を抓上げた。


「真之介様、今後は亜紀とお呼びください。よろしいですね!」


 少しだけ細まった亜紀の目を見た真之介は驚いた顔で頷いた。口元が緩んでいるのが真之介には分かる。今の顔は誰にも見せられない。改めて顔を引き締め直した。


「では・・・・・・亜紀。改めてどの道を通る?」


 亜紀は少しだけ考え込んだ。


「中山道を通りましょう」


 暑い季節も終わり、徐々に寒さが近づいていた。冷たい風の吹く東海道よりも中山道を選ぶのは良い選択だ。雪が降る季節ではない。


「じゃあ、そうしよう」


 二人はゆっくりと歩調を合わせ、お互いに寄り添いながら江戸の街を後にするのであった。

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