つかまえた

@akahara_rin

つかまえた

 



 ピンポーン。




 ボロアパートに響いた、ざらついたインターホンの音。

 普段はちょっとした雑音に掻き消されてしまうようなそれが、今日は何故か明瞭に聞こえた。


「何か頼んでたっけ」


 小さく呟き、俺は玄関に向かう。

 カメラや通話なんて気の利いた機能は、我が家のインターホンには搭載されていないし、曇りきったドアスコープにはピンボケした人影しか映らない。

 誰が来たのかは、扉を開けるまで分からないのだ。


 しかし思い返してみても、やはり通販なりを頼んだ記憶はない。

 隣近所の誰か、あるいは大家あたりが用事だろうか。

 思えば、そろそろ回覧板が回ってくる時期だったような気もする。


 自分の中で納得のいく予想を経て、俺は玄関の扉を開いた。


「はー……ぃ」


 玄関の向こうに居たのは、一人の女だった。

 上気した頬。心底嬉しそうな微笑み。

 真っ白い服に、大きな鞄。

 背景に見える錆びた手すりが不釣り合いな、その美貌。


「お久しぶりです」


 耳の奥に沁み渡るような、柔らかく澄んだ声。

 脳に焼き付いた何かが、背筋をぞくりと震わせた。


「来ちゃいました」


 三年ぶりでも何も変わらない彼女――西園寺さいおんじ由依ゆい

 その姿を確認した俺――狩谷かりや和兎かずとは、即座に扉を閉めた。




 ◆




 俺が由依と出会ったのは、今から五年前のことだった。


 当時高校生だった俺たちが出会ったのは、単なる偶然だ。

 それもその筈。

 彼女は私立の女子校に通うお嬢様で、俺は公立校に通う一般人だったのだから。

 接点など欠片もなく、本来なら知り合う機会などあるわけがない。


 そんな運命が捻じ曲がったのは、とあるアルバイトが原因だ。


 当時俺が働いていたのは、いわゆるゲームセンターだった。

 店員としての仕事は色々とあるわけだが、その中の一つにトラブルの仲裁というものがある。


 その店には対戦ゲームも多くあった。

 人という生き物は争いに目がない。

 たかがゲームと思うなかれ。

 トラブルの大体は言い争いが起こる程度で済むが、格ゲーがリアルファイトに変貌することも、まあ稀にある。

 ただ、それは大抵客同士で決着がつく。

 店員が呼ばれるのは警察案件まで事態が発展した時だけだ。


 さて、そんな話はしたが、流石に由依がそんなリアルファイトを発動させたわけではない。

 もう一つのよくあるトラブル。

 俗に言うナンパというやつが、俺と由依が関わるきっかけだった。




「ふふっ、懐かしいですね」

「……人の回想に割り込んでくるな」

「まあひどい。そんな風に言わなくても良いのに」


 ピンポン連打と大声で名前を呼ぶという、俺の社会的急所を抉る作戦によって、由依はまんまと俺の部屋に上がり込んでいた。

 部屋はそれなりに片付けているが、そもそもがあまり綺麗ではないため、随分とおしゃれに決めてきた彼女は、率直に言って浮いている。


「……それで、今更何しに来たんだよ」

「もう、和兎さんったら。どうしてそんなこと聞くんですか?」

「別れて三年も経っただろ。音沙汰ないから、いい加減俺のことなんて忘れてくれたと思ってたよ」


 そう言うと、由依の優しげな微笑みが、少し冷えたものに変わった。

 地雷を踏んだのだと理解したが、それはつまり手遅れを意味している。


「別れた……えぇ、そうですね。本意ではなかったとはいえ、それは事実です。三年間、連絡を取らなかったことも」

「……なら」

「でも、私が貴方を諦めたなんて、本気でそう思っていたんですか?」


 また、背筋がぞくりと震えた。


「あの日。和兎さんが私のことを助けてくれた時」

「仕事だぞ」

「もうっ、茶化さないでください」


 大真面目な発言だったが、浮かれモードに入った彼女は無敵だ。


「あの人たちに声を掛けられて、私は本当に怖かったんです」


 それは事実だろう。

 あの頃の由依は今ほど図太くなかったし、男に対する免疫も全くと言っていいほど無かった。

 見知らぬ男に言い寄られれば、恐怖を感じるのも無理はない。


「あの後、お礼を言いに行った私にも優しくしてくれて」


 それも事実だ。

 そもそも邪険に扱う理由もないし、可愛らしい娘に感謝されて悪い気がする筈もなかった。


「連絡先も交換してくれて、デートもしてくれました!」


 ちょっと言い訳をさせて欲しい。

 事実だ。事実ではある。

 だが、同い年の清楚で可愛い女の子からデートに誘われて、それを無下に断る人間が一体どこの世界にいるというのか。

 いやいない(断言)。

 絶対にいない。断言する。賭けてもいい。


「あぁ……あんなに幸せだったのは、生まれて初めてでした……」


 頬に手を当て、ニコニコからニヤニヤへと変化しようとする表情を抑えようとはしているようだが、全く意味を為していない。

 そろそろ浮かれモードも終わるかと、声を掛けようとしたその瞬間。


 由依の表情が唐突に変わった。


 冷たく、気怠げ。

 心底嫌そうな、それは俺が初めて見る顔だった。


「だというのに……」

「……由依?」

「あ、久しぶりに名前を呼んでくれましたね」


 再び、由依はぱっと表情を明るくした。

 しかし、その表情も長続きしない。

 何故か、部屋が冷えていくような気がした。


「ねぇ、和兎さん」

「……何だよ」

「そんなに、私が嫌でしたか?」


 出会いについて語ったのだ。

 であれば次は、別れについて語るべきだろう。




 ◆




「和兎さん。あの人、誰ですか?」


 付き合い始めてから数ヶ月。

 その頃には、俺は西園寺由依という人間のことを理解し始めていた。


「……先輩だよ。見たら分かるだろ?」

「仲が良さそうでした」

「バイト先でギスギスしてたら嫌だろ」

「ふぅん……そうですか」


 いまいち納得していなさそうな顔のまま、由依は小さくそう言った。


 そしてそれから数日後。

 件の先輩はバイトを辞めた。

 その後も、バイト先からはどんどん人が消えていった。

 そこに男女は関係なく、俺と仲の良かった人間は、軒並み居なくなったのだ。


 そんなことが続けば、一人だけ辞めていない俺は当然異常に見える。

 店長に辞めることを勧められたのは、それからすぐのことだ。


「由依……お前が何かしたんだよな?」


 そう問いただせば、彼女はいつもと何も変わらない笑みを浮かべたまま、こてりと首を傾げた。


「えぇ。しましたけれど、何か問題がありましたか?」


 その様子に、俺は気勢を削がれる。


「あるだろ! お陰で俺はバイトをクビだぞ!?」

「まぁ! 一緒にいられる時間が増えますね!」

「は、ぁ?」


 噛み合わない。

 価値観の違いなのか、はたまた異なる理由があるのか。

 どちらかは分からなかったが、少なくとも由依が自分を曲げることはなかった。


 嫉妬、なのだろう。

 それにしては男女問わないのが不可解だが、今は多様性の時代だ。

 どうも由依は、差別はしない主義らしい。


 櫛が欠けるように、友人たちは俺から離れていった。

 残ったのは家族と由依だけだ。


 そして、俺はそれに耐えられなかった。

 だから、進学を機に不満を全部ぶちまけて、一方的に別れを告げて逃げ出した。

 初めのうちは、追いかけて来られるのではないかとビクビクしていたが、最近は記憶からも薄れ始めていた。




「……嫌だったよ。誰だって、友達が減ったら嫌だろ」

「そうらしいですね。私は、和兎さんだけ居ればいいのに」

「でも俺はそうじゃない。だから別れたんだ」


 この溝が埋まらない限り、俺たちは分かり合えない。


「……この三年。私も和兎さんに言われたことを考えました。えぇ、考えていたのはそればかりです」


 すっ、と由依が手を合わせた。

 指の腹同士をくっつけるあのポーズは、シャーロックホームズハンドというのが通称らしい。

 かの探偵のような知謀があるのかは知らないが、何故か犯人にでもなったような気分になる。


「本当に、たくさん考えました。恥ずかしながら最初は本当に腹が立って、首輪でも着けてお家に閉じ込めてやろうか。なんて考えたくらいです」


 犯人は俺じゃないかもしれない。

 どうやら俺は自分で思っていたよりも、ギリギリの綱を渡ったようだ。

 背中に流れた冷や汗を努めて無視して、黙って由依の話を聞く。


「でも、そんなことをして嫌われたら本末転倒ですから。私も妥協することにしました」

「……妥協って?」

「嫉妬……に関しては無理です。理屈で止まるようなものではないので」


 それは、まあ理解できる。

 感情を理屈で止められるなら、争いなんてものは起こらないだろう。


「そもそも、嫉妬はしますけれど、別に私は和兎さんが浮気するだなんて思っていないんです。そんな不誠実な人だとは思っていませんし、私より貴方に相応しい人なんて居ませんから」

「え、は? じゃあ何で」

「だって、別の人とお話ししていたら、私と過ごす時間が減るじゃないですか」


 それは。


「人生は長くても精々八十年くらいしかありません。残りはたったの六十年くらいです。今日という日は今日しか過ごせませんし、二度と訪れません。それなら、一番好きな人と過ごしたいと思うのは間違いですか? いいえ、間違いな筈ありませんよね。だから、私は和兎さんと私の時間を奪う人が許せないんです。私以外の人と話しているのを見ると、その人に腹が立ちます。その時間は私たちのものだったのに。そんなの泥棒じゃないですか? そこまでは言わなくたって、良い気がしないのは分かって欲しいです。この三年も、本当は嫌でした。毎日会いたかったですし、お話もしたかったです。その日にあった何でもないこと。朝ごはんのお話とか、夢の内容のお話とか、漫画やドラマのお話でも、何でも良いんです。和兎さんとお話できるなら、どんなにくだらなくてつまらない話だって、世界一のコメディアンのトークよりも楽しいに決まってます。あぁ……今しかない大事で貴重な三年だったのに。だって私たち学生なんですよ!? 学生のうちの三年なんて……大人になってからの時間よりずっとずっと貴重なのに! こんなことで失くさないといけないなんて……本当に悲しかったです。大学だって同じところを選びたかったのに、和兎さんったら内緒で進路を変えちゃうんですから。ひどいです。分からないところを教えたり、教わったり。そういうのって素敵でしょう? 高校の時、私は本当に幸せだったんです。それに初詣、バレンタインやホワイトデー、長期休みにハロウィンにクリスマス、本当は一緒にしたいこと、行きたい場所が沢山ありました。街でカップルさんを見る度に和兎さんの顔が過ぎりました。あぁ、本当なら隣に和兎さんが居たはずなのになぁって。悲しくて寂しくて切なくて、メッセージやお手紙だけなら良いかなって、何度考えたか……いえ、大体分かります。今日会ったのは1124日ぶりで、一日に最低でも五回は考えていましたから、大体五千五百回以上は考えました。それくらい好きなんです。会いたいんです。話したいんです。この気持ち、和兎さんなら分かってくれますよね?」


 溢れ出したそれは、愛の言霊。

 しかし妙に重く、粘度が高かった。

 冷や汗が、止まらない。


「ゆ、由依……?」

「おっと。失礼しました」


 てへ、とでも言いたげな彼女は、三年前と変わったようには見えない。


「話を戻しまして。そう、妥協することにしたんです」


 いやに、喉が渇いた気がする。


「……妥協って?」

「和兎さんは、私以外とも話さないとだめみたいですから、そこは我慢します」

「……それで?」

「なので、その時間を補填してもらうことにしました。具体的には、一緒に暮らしませんか? 同棲ってやつです」

「はぁ!?」


 唐突な提案に、声がひっくり返った。


「流石に、このお部屋では手狭ですから、ここの近くに私が一部屋借ります」

「いや、それは」

「お互い、もう二十歳は超えてますからね。節度を守っていれば、誰に何を言われる筋合いもありません」


 とはいえ、学生同士である。

 いくら何でもそれは問題だろう。


「心配しなくても、うちの両親からも和兎さんのご両親からも許可をいただきましたよ」

「嘘だろ!?」

「本当です。確認してもらっても良いですよ?」


 この自信満々な様子。

 一体どうやったのか、親たちを丸め込んだのは嘘ではないらしい。

 というか、いつの間にうちの親と知り合ったのだろうか。

 特に紹介した記憶はないのだが。


「いやいや……待て待て待て」

「……この三年、私は充分に待ちました」


 目を細め、由依は静かに呟く。


「私の気持ちはどうあれ、別れたのは事実です。もし、和兎さんが他に恋人を作るなら、私は素直に身を引くつもりでした。その期限が、三年です」

「……え?」

「でも、そうはならなかった」

「何で……そんなの知って」

「何故って」


 どこまでも朗らかに、彼女は笑う。


「ずっと……ずぅっと見ていましたよ」


 その目に映る光は、どうしてか以前よりもひどく澱んで見える。

 無意識に、俺は小さく後退あとずさる。


「お前……」

「断らないでくださいね。こんなに我慢したのに、またおあずけなんてされたら……私、どうなるか分かりませんよ?」


 だがこのアパートの部屋は、人から距離を取るためには、あまりにも狭い。


「和兎さん」


 いつの間にか目の前にいた彼女が、俺の頭を挟み、壁へと両手をついた。

 まるで、逃がさないとでも言うように。


「これから、よろしくお願いしますね?」

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