現の終わりに見る現ほど、綺麗なものはない。

@hinorisa

第1話

 旅人とその少女が出会ったのは、全てが赤く染まる黄昏時。

 その町での用事を終えた旅人が、暗くなる前に宿屋に戻ろうと足早に道を進んでいた時だった。

 繁華街から外れているとはいえ、大通りだというのに妙に人通りが少ない。飲食店も店じまいの準備を始めており、皆が足早に帰路についている。

 薄らいだ陽光の中で薄く長い影を伸ばしている光景は、美しいと思うのと同時に、ざわざわとした根拠のない不安を旅人に抱かせる。

 明らかな人工物に囲まれていても、独りぼっちという状況が不安を煽り、焦燥感が旅人を追い立ててくる。


 故に、視界の隅で何かが動いたのを捉えた旅人が、いつも以上に警戒感をあらわにしたのも仕方が無い事だった。

 ふわりと建物の影から出てきた少女は気配が薄く、目を瞬いた次の瞬間に消えていてもおかしくないようにさえ思えるほど。

 けれど、少女は間違いなくただの人間で、体は透けていないし、空気の流れを起こしながら、地面を軽やかな足取りで歩いている。


「——こんばんは」


 旅人が我に返った時には、少女は彼の数歩前の距離に佇んでいた。確実に旅人の目は少女を捉えていて、自然な動きでただ歩いてきただけだ。だというのに、まるで一瞬ですぐ傍まで移動してきたような錯覚を覚えた。

 ぼんやりとしているうちに意識が飛んで、目が覚めて浅い眠りに落ちていたのだと気が付いた時の様だ。


「……こんばんは」


 僅かに動揺したものの、自分に向けられた挨拶に対して返事をした旅人に、少女はふわりと顔をほころばせた。

 ……まるで開いた花の蕾が、次の瞬間には崩れて散りゆく様な笑い方だ。

 そんな感想を持ってしまった旅人は、目の前の少女をこのまま素通りする事ができなくなってしまう。

 そんな旅人の心に気が付いているのか分からないが、少女は微風に髪を揺らしながら、目を細めて微笑みかけてくる。微風にのって、どこかで嗅いだ事のある香りが旅人に届き、納得して目を細めた。


「——もし、宜しければ、私とデートをしてくれませんか?」


 初対面の相手に対する台詞としては不躾な問いかけに、迷うことなく旅人は了承を返した。



 翌日、雲に覆われた空の下、旅人と少女は昨日に出会った場所で待ち合わせをしていた。

 旅人は昨晩の内に相棒にその出会いを話した。相棒は良い顔をしなかったが、旅人の意思を尊重すると言って引き下がってくれた。

 ただ、周囲への警戒は怠らず、何かがあったら早々に逃げるように含めるように言いながら、気休めの呪いをかけてくれた。

 子供ではないのだから自分の面倒は自分で看れると、旅人は終始不満そうに難しい顔をしていたのだが、こればっかりは相棒も譲れないので、それが最低限の条件だと納得をさせた。


「……確かに、彼の方が年上ではあるのだが、流石にいい年をした男に言う台詞ではないだろうに……」


「ふふっ——、良いじゃないですか。とても大切にされているのが分かります」


 旅人と並んで歩く楚々とした少女は儚げで、深窓の令嬢という言葉がよく似合う容姿をしている。淡い色をしたワンピースに濃い色をしたカーディガンを羽織り、黒いタイツを履いていた。その手には花柄の日傘。

 最初に見た時は旅人は、薄暗い空だったので雨を警戒しているのかと思ったのだが、どうやら日傘だったらしい。言われてよくよく見てみれば、確かに傘の生地は見知ったものとは違い、刺しゅうの様な装飾も施されている。


「私、肌が弱くて、日光に長時間晒されると、火傷みたいに赤くなって腫れてしまうんです」


 少女が肌を露出しているのは顔と手ぐらいなもので、その肌は陶磁器のように白く滑らかな肌をしている。日焼けらしき跡が見られない事から、相当に気を付けているのだろう。


「それならば、もう少し日が暮れてからの方が良かったのでは?——ああ、いや……、若い女性を暗くなってから連れまわすのも問題か」


 旅人は日光による火傷と暗闇の中に漂う悪意、どちらの方がマシなのだろうと不意に思う。


「私の事を気にかけて頂いて、ありがとうございます。晴れの日はもっと日が落ちてから出歩くのですけれど、曇りの日は昼間に出かける事も良くあります。それでも、念のために日傘は手放せないのですが」


 少女が傘をくるりと回すと向きが変わって、旅人の方に花柄の刺しゅうがやってくる。続けざまにクルリクルリと数回傘を回す少女の足取りは軽く、少女の体調自体は悪くないようだった。


 この町はある時期から一気に発展したせいで、表通りは計画的に作られて分かりやすいのだが、裏道へと入ると道幅は狭く、縦横無尽あちらこちらに道が伸びている。さらに建物自体も高さがあるので、裏道から見える空は制限されていて、似たような景色が続くせいで方向感覚が狂いやすい。

 住民ではない人間にはややこしい作りをしているのだと、少女は教えてくれる。そんな事を話しながら、二人は露店でこの町の名物だというクレープを購入して、表通りの街並みを眺めながら歩く。

「私、あの店のクレープが一番好きなんです。苺と生クリームがたっぷりで、甘いけれどしつこくなくて、すごく食べやすいんです」

 旅人がその説明を聞きながらクレープを口にすると、しっとりとした生地の控えめの甘さと生クリームの滑らかな舌触りと甘さが丁度良く、新鮮な苺の果実の香りと甘酸っぱさががそれを際立たせる。

 旅人は確かに少女の言う通りだと思い、そのまま感想を伝えると少女は嬉しそうにはにかんだ。

「ふふっ。誰かと感覚を共有できるのは嬉しいですね」

 クレープに舌鼓を打ちつつ、少女はいろんな話をしていく。それは町の歴史から始まり、好きな場所であったり、好きな色、好きな食べ物の話だったり、お勧めの店の話だったりと、少女が目についた事柄に関する話を振ってくるので、くるくると話題が変わり、旅人はそれに返答しながら相槌を打つ。

 ゆったりとした穏やかな空気は心地よいと、旅人はぼんやりと思う。

 やがて少女は裏道へと入り、入り口の所で一旦日傘を閉じる。


「さすがに裏道は少し狭いので、日傘は通行の邪魔になるので。今日は雲が厚いから、少しの間は差さなくても平気ですから」


 住民達には慣れたもので、すれ違う人々は確かな足取りで歩いていく。人通りが多い事もあって、しっかりと清掃が行き届いているおかげで、日が直接差さなくとも暗い印象は殆ど無い。

 煉瓦造りの建物の壁が道を成していて、場所によっては隣家との隙間が全くない場所さえある。高い位置には紐が渡されており、洗濯物などを干すのに重宝されている。色とりどりの洗濯物が風に揺れる姿はのどかなものだ。


 少女は裏道に精通していて、時折すれ違う住人達と軽い挨拶を交わしながら、躊躇うことなく進んでいく。その姿は少女の雰囲気に反して、確かな生命力を感じて力強く見える。

 頭上に張り巡らされた紐とそれに掛けられた洗濯物が、風によってたなびく様子は祝い事の際に飾られた旗の様で、何となくて旅人の気分は高揚した。

 少女の道案内によって、旅人は様々な経験を思い出として蓄積していくのを感じていた。

 建物は基本的には修繕をしながらも、昔からあるものを利用している。そのせいで水回りや騒音などの問題はあるが、そこはお互いさまで妥協点を見つけるのだという。

 時の流れによって風化した外壁は独特の色合いが、人の営みという温もりを感じさせる。

 時々坂道や階段に当たるのは、この町が発展と共に広げてきた名残だという。住みやすい平地だけでは土地が足らないので、周りの比較的緩やかな斜面を利用する事になった。

 場所によって石の色や形などが違うのは、その都度大きな工事をして広げるというのを繰り返したためだと、少女は軽い足取りで語る。


「——年輪の様な物か」


「——!ああ、それ、良いですね。町が成長してきた証ですから」


 幾つもの角を曲がり、階段を上がり、坂を上った先にあったのは、この町を一目で展望する事ができる高台だった。

 周囲には同じ高さの場所は無く、遮るものが無い。障害物によって軽減される事が無いため強い風が吹いており、容赦なく吹いてくる向かい風に、旅人は目を細めた。


 昼過ぎから始まった散策は、気が付けば夕陽に染められる時間になっていた。高台から望む夕日は、遮るものが無いせいか空がはっきりと見えて、徐々に濃くなっていく色のグラデーションが美しい。

 遠く小さく見える街並みが石造りの外観のせいか、旅人にはブロックを積み上げて作られた玩具のジオラマの様に見える。


「……なるほど、ここが君が一番好きな場所か」


「……私の話、ちゃんと聞いて覚えていてくれたのですね」


 再び日傘を咲かせた少女は嬉しそうに笑う。その姿は夕陽によって茜色に染められて、そのまま溶けて同化してしまうのではないかと、ありえない不安を感じさせるほどに儚くて、旅人を酷く不安にさせる。

 少女は確かにそこに居て笑っているのに、視線を外した瞬間に居なくなってしまいそうだと思うほど、気配が薄い。——生命力が弱い。


「……——私を誘ったのは、……私を殺す為だと思っていた」


 唐突に投げかけられた旅人の言葉に、少女は夕陽の眩しさに細めていた目を彼の方に向けた。

 少女は無言のまま、ガラス玉のように美しい瞳で旅人の事を見ている。感情が消えた顔と茜色に染まる肌が、少女を無機質だが精巧な人形の様に見せる。


「……ああ、やはり貴方は気が付いていたのですか。——気が付いていて、私の誘いを受けてくれたのですか?」


「……何となくだが。最初に遭った時に、僅かにだか君から血の匂いがした。物理的なモノではなく、それを繰り返した人間の気配—―」


 確証があったわけではないが、旅人は本能的に、少女はそういうモノなのだと思った。少女は確かに人間だというのに、それを否定したくなるような血の匂い。それは彼女の中からではなく、空気と共に彼女に纏わりついていた。


「……この町は、昼間は賑わっているが、夜は耳が痛くなるほど静かだ。まるで何かに怯えて息を潜めているような……、実際に宿屋も暗くなる前に帰る様にと言われていたし、飲食店も暗くなる前に閉まってしまう。むしろ、かき入れ時だろうに」


 宿屋の店員にそれとなく尋ねても、最近は物騒だから早めに店じまいをするように言われているとしか語らなかった。けれど、店員の視線があちらこちらと彷徨っていたので、旅人と相棒は何か大ぴらに言えない事があるのだろうと意見が一致していた。客商売であるのであれば、間接的な風評被害を逃れようとするのも、ある意味仕方が無い事だ。

 あくまで警戒していれば逃れられる程度の脅威だからこそ、住人達も太陽が昇って明るい内は普通の生活を営み、陽が沈めばどこから来るかも分からない脅威に怯えて、戸締りをして家に引きこもる。


 黄昏時を境にして、この町は疑似的な異界へと切り替わる。異界を支配する恐怖に呑まれないように、家という小さな世界に閉じこもる。


「——黄昏時を恐れずに進む君は、きっと夜の世界の住人なんだろう」


 少女は旅人の例えが気に入ったらしく、「黄昏時、夜の世界」と呟くと、嬉しそうに柄を手の中で柄を回して傘をくるくると回転させる。


「ふふっ——。やっぱり貴方に声をかけて良かった。私が夜の世界の住人なら、貴方は黄昏時の住人という事になるのでしょう?」


 そういって微笑む少女は、沢山の部品を組み合わせて出来た精巧な作りの人形か、画家に描かれた人物画だろうかと、旅人は場違いな感想を抱いていた。


「——わたしは、産まれも育ちもいたって普通の人間です。両親のもとに生まれて、人並みに愛されて、人並みの勉強をして、人並みの常識も理解しています。……けど、わたしは愛した相手を殺したくてたまらなくなるんです」


 夕日は半分ほど沈み、高い位置の空には淡い月が浮かび、夜が訪れている。その中で歌うように語る少女は現実味が薄く、一時の幻の様にさえ思える。


「わたしは人よりも聡い子供だったと思います。自分の抱くそれが、常識的にも、倫理的にもおかしいと理解していました。けれど、わたしは我慢が出来なかった。……人間が他人を好きになるのを我慢できない様に」


 少女にとって、愛するという事は殺すという事と同義。それは、少女にとっては最大級の愛情表現だった。


「……少し恥ずかしい話なんですが、私が初めて好意を持った異性は学校の先生だったんです。すごく優しくて、丁寧に勉強を教えてくれる方でした。……だから、学校を卒業した日に、彼に告白をして、殺したんです」


 少女は恥ずかしそうに目を伏せて、頬を紅潮させている。その姿は傍目から見れば、それこそ告白をしているように見えるだろう。


「——気が付いていたとは思いますが、わたしはどういうわけか存在感が薄くて、気配が弱いんです」


 生き物が近づくとその気配がするものだ。生きているが故の存在感、呼吸音や体温や動いた際の空気の流れなどで、何となくだが気が付く事がある。

 武術や戦闘の心得がある者や、元より気配に敏感だったり、感が鋭いなどの個人差はあれど、ある程度は生き物が持って生まれるものだ。


「どういうわけだか人の印象に残りづらくて、初対面の人には顔を覚えてもらうのが大変なんですよ。けど、そのおかげもあってか、わたしが疑われる事は無かった。……まあ、一生徒が教師を殺したなんて思わないでしょうけど」


 他の生徒と同じように学んで、生徒として接しただけの相手に殺されるとは誰も思わないだろう。

 もちろん少女自身が人目を避けて、的確に息の根を止めている事も大きい。一般教養を学んだだけで、少女は確かな方法で、急所を選んで刺す能力を持ち合わせていた。


「目の前で倒れた先生を見た瞬間に、体中の血液が一気に巡り、胸の奥にあった枷が外れたのを感じました。……わたしは恋をしていたんだ、そう心の底から叫びたくなりました」


 自分の思いを口にした瞬間に、少女のガラス玉の様な瞳が揺れて、瞬く僅かな間だったが強い光が揺らめいた。


「……わたしにとって、殺す事が最大の愛情表現なんです。誰だって、自分の心を思い通りにすることは出来ないでしょう?怒りを、悲しみを、喜びを、妬みを、好きだという思いは当人にもどうしようもできない、当人だけのもの」


 まるで舞台劇で狂気の愛を語る踊り子の様に、少女は自分の恋を語る。


「自分が他人よりも惚れっぽいのは自覚しているんです。……ねえ、旅人さん。わたしの思いを——恋の言葉を受け取って頂けないでしょうか?」


 夕日の逆光の中で少女は儚く、強かに笑う。それは独特の妖艶さを秘めていて、目の前にいる愛しい相手を誘う。

 芸術家がいたら、きっと少女をモデルにして作品を作りたいと、——殺される覚悟をしてでも懇願するかもしれないと、旅人は光の中で笑う少女を見つめていた。


「……君の事は可憐な少女だとは思うが、殺されていいと思うほどの、一世一代の恋は今の所してはいない。——それに、旅の相棒もいるんだ」


 少女の恋の告白を受け取る事はできないと、旅人は柔和な微笑みを返した。



 少女はその答えを予想していたらしく、残念そうに目を伏せる。そして次の瞬間には、旅人の目の前まで距離を詰めていた。

 突き出されたナイフは的確に旅人の肋骨同士の間を狙い、心臓を一突きにしようとする。旅人はとっさに後方へと飛び退きながら、外套の下から短刀を取り出して構える。

 少女の動きは軽やかで、僅かな意識の隙間を狙い、舞う様に優雅に切り付けてくる。旅人は喉を狙った切り付けを短刀で滑らせるようにして逸らし、続けざまに手首を返すようにしてきた斬撃を弾いて逸らす。


「ふふっ……、ああ……何て楽しい……。夢心地というのは…………こういう事なんですね……。初めて実感しています」


 言葉通りに少女は始終笑みを絶やさず、子供が遊戯をしている様な無邪気な笑みを浮かべている。その相手をさせられている旅人は笑えない話だと、心の中で文句を言うが、それを実際に口にする暇はない。


 少女の力は年相応のもので、単純な身体能力ならば旅人の方が優れているのだが、反射神経と無駄のない洗練された動きで、僅かに逸れた視線や意識の隙をついてくるのだ。

 軽やかに、優雅にステップを踏み、殆ど音をたてずに地面を蹴って踏み込んでくる。

 何の経験も技術もない素人が相手であれば、一撃で仕留められていただろう。それこそ、相手が刺されたと認識した時には、致命傷で意識を失いかけている筈だ。

 一方で旅人は出来る事であれば少女を殺したくないとは思っていたが、それが難しい事も理解している。少女は呼吸をするように、好きになった相手を殺すだろう。それはもはや少女本人にも止める術が無い。


 それ故に、もはや、少女を殺す事でしか止める事ができないと、旅人は覚悟を決めていた。


 詳しくは話はしなかったが、長い付き合いになる相棒には、旅人の真意は伝わっていたのだろう。出かける直前になって、相棒は「気休めだが」と簡単なまじないをかけてくれた。他人からの印象を薄くするまじないは目撃証言を曖昧にして、旅人が罪に問われないようにとの配慮だった。


 単純な殺人の才能は少女に軍配が上がる。けれど、旅人には単純に肉体面での優位性、日ごろの鍛錬という努力、そして経験と勘が、—―今まで積み上げてきた確かなものがある。

 旅人は基本的に争い事を好まないが、それが必要であれば戦う覚悟は持っている。

 旅人は決して天才ではない。それを自分でも理解しているからこその鍛錬と創意工夫を続けてきた。

 故に、敵からの攻撃を受け流し、防ぎ、回避しながら、確実に仕留められる隙を待ち続ける。


 少女の突きを寸前の所で回避して、旅人はそのまま真っ直ぐに伸びた腕をなぞるように、体勢を低くして前進する。少女は瞬時に体制を変えて、蹴りを喰らわせようとするが、少女の懐に入った旅人は腕を掴んで、そのまま体を捻って、華奢な少女の体を容赦なく地面に叩きつけた。

 少女はとっさに空中で体を捻って着地しようとしていたが、旅人はそれを許すことはしない。全身を地面に強打した少女は、肺の中にあった息を全て吐き出して、声にならない呻き声を挙げた。くらくらと揺れる視界の中で、旅人が自分に覆いかぶさる

ような体制で、手に持っていた短刀を振り下ろすのが見えた。



 薄明をむかえた深い紺色の空に、輪郭がはっきりとした月が浮かんでいる。黄昏が終わり、静かで優しい夜が訪れるのを少女は眺めていた。

 

 ……ああ、何て楽しい時間だろう。終わるのがもったいないぐらい。

 そんな楽しいままに終われる事が、少女にはとても嬉しい事だった。

 少女にとっては殺すという行為が最大限の行為の現れならば、その逆もまたしかり。少女は一目ぼれをした相手に殺されて、幸福のまま死にたいと思っていた。

 いくら少女が殺しの才能に恵まれていても、結局は人間という枠を出ることは出来ない。いずれ、何かが原因で、誰かに捕まるのは目に見えていた。

 牢獄に入れられて、長い時間かけて裁かれて、最後は死刑という、見知らぬ誰かの間接的な殺人を受け入れるのが、少女には耐えられなかった。

 ……ならば、幸福なままの死を、自分で選んだ相手から受け取りたい。好きになった相手を見ながら、好きな相手に見守られて死んでいくのだ。


 ——それは、どれほどの幸福だろうか。


「——悪いが、あんたの思い通りにするつもりはない」


 少女の声をかき消すようにして声が響くのと同時に、旅人の握っていた短刀が弾き飛ばされた。

 自分の手に奔るしびれで、短刀に何かをぶつけれられたのだと気が付き、声のする方に視線をやる暇もなく、旅人の体が後方に引っ張られる。引かれた勢いそのままに地面を転がりながら、とっさに受け身をとって体勢を立て直そうとする。回転する視界で見たのは少女の命を刈り取る相棒の姿だった。


 ……ああ、……やはりこういう結末か。

 少女は他人事の様にその光景を眺めていた。

 正直に言えばとても残念だったが、旅人と殺し合いをする事が出来ただけでも上出来だ。

 どくどくと激しく心臓が脈打ち、血液が全身を回り、体温が上がり、充足感が少女を満たしている。

 先ほど感じた幸福感には及ばないが、満足したまま死ねるのであれば、きっと悪くない終わり方だ。できれば殺人で終わりたかったのだが、そこまで望むのは贅沢だろうと自身を納得させる。


「——ありがとう」


 最後の台詞は何が良いかと逡巡したが、愛の告白は旅人に対して十分にした。ならばするべきは感謝だろうと、少女は一瞬のうちに決めていた。

 視界の隅に映る旅人が手を伸ばすのを注視しながら、少女は満足そうに無邪気な笑顔を浮かべた。


 旅人が少女に駆け寄った時には、彼女はすでにこと切れていた。満足そうな笑顔を浮かべて、まるで昼寝でもしているかのように穏やかだ。そこに死に対する恐怖の様なものは見受けられない。

 外傷を与える事なく、綺麗なまま少女の命を終わらせた張本人は、ちらりと旅人に視線を向けてくる。


「……邪魔をしたな」


 隣で少女の顔を覗き込む旅人に、相棒は礼儀としての謝罪を口にしたが、そこには後悔は一切ない。

 声をかけられた旅人が無言のまま顔を上げて、二人の視線が交わる。相棒は自分のした行為に罪悪感はまるでなく、旅人は自分の不甲斐なさが情けなくなり、感情を堪えながら口を引き結ぶ。


 静寂の中では異様に響く、どくどくと激しく脈打つ心臓の音を聞きながら、旅人は自分を落ち着けるために深呼吸を繰り返して、平静の状態まで戻す。


「——……何故?」


 端的な言葉でも十分に伝わり、相棒は淡々と、けれど誠実に答える。


「それがそいつの望みだったからだ。一目ぼれをするのも、告白をするのもいいが、——お前の一生を縛るようなことは駄目だ」


 少女の望みは殺し合いをする事。彼女にとっては殺人という方法自体が一種の愛の告白と同じこと。それを旅人がし返すのは、愛の告白に彼が答えたのと同義になってしまう。


「——別に、お前の事を見くびっているわけでも、蔑ろにするつもりもない。お前が殺す覚悟を持って行動していたのも理解している。……だが、こいつに対してはそれは駄目だ。お前は無自覚で、気にしていないというかもしれないが、——それは一種の契約の様なものになってしまう」


 辺りは夕闇に包まれて、夜の帳が訪れようとしている。


「これから先、何か影響が出る可能性だってある。……お前がこいつの事を心から好きで、人生の全てを賭けて応えるというのであれば、俺は止めはしなかった。……だが、そうではないだろう?」


 その問いかけに対して、旅人は自分の表情を見られないように顔を俯けて、小さく頷いた。


「……まあ、こいつもその辺りは分かっていたんだろう。たった一人でも、自分の気持ちに正面から答えてくれる人間が現れて、こいつはそれだけで十分に満足だったんだろう。だから、こんなにも穏やかな顔をしている。少なくとも後悔をしている様には見えない」


 相棒の言う通り、微笑むように眠っている少女は満足そうに見える。

 少女は自分の志向が異常なもので、常識から逸脱している事を理解していた。平凡な家庭に生まれて、一般教養を学校で学び、普通の人間として生きてきた。

 自分の考えは誰にも理解されないと分かっていても、——分かっているからこそ、少女は孤独だった。

 肯定をしてくれなくとも、そういう考えを持っている人間だと理解した上で、その考えに沿った対応をしてくれただけで、——きっと少女は満足している。


「……結局巻き込んでしまってすまない」


 徐に立ち上がった旅人は正面から相棒と向き合う。彼の精悍な顔つきに、相棒は手をひらひらと軽く振る仕草で返した。

 夜の闇はこれからさらに深くなっていく。町には明かりが灯り、暗闇の中で輝く光は星の真似をしているように思えた。



「——人間が人間を殺すから、殺人なんだよ」

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