「可畏」


 それは、いつぶりの声だったか。冷えた黴臭い闇の奥底で、可畏は耳を塞いだ。きっと幻聴に違いない。腹が減りすぎておかしくなっただけだ。そう自分に言い聞かせて、近づいてくる気配にも気づかないふりをした。


 昔、何をしていたともしれない地下牢に可畏は居た。無理やり押し込まれたのではない。自らそこに入ったのだ。


 可畏は当主と賭けをした。

 

『代わりの贄で満足できるのであれば、お前の言う通り次の機会まで牡丹は生かそう。だが、前回の様に空腹が続くのであれば、もう牡丹を喰らうように仕向ける』


 可畏は護法を受け継ぐあるじの命令を跳ね除ける力があった。しかし、一度飢餓状態に陥れば、それも難しくなる。本能は可畏の精神を蝕んで、可畏の意識は消えて行く。弱った精神では命令を拒否する力は無いに等しい。

 だが、可畏は耐えた。当主も可畏が耐え続けるとは考えなかったのだろう。命令を撤回しようとした時にはもう遅く、可畏の飢餓状態はどうやっても解けなかった。

 もう、可畏の衰弱が先か、それとも諦めて牡丹を喰らうか。我慢比べとなっていた。


「可畏」


 そこへ、幻聴だ。気配どころか匂いまで濃くなって、目の前まで迫っている気がした。それもきっと自身が作り出した妄想に違いない。そう思い込む事にした。が――


「いつまで寝たふりを続けるの?」


 可畏の顔に何かが触れた。それが誰のものかなど、繊細な指先だけで可畏には知れた事。同時に今にも指に齧り付きたくなる衝動を抑える為、身を丸め、喉を絞るように言葉を紡いだ。


「牡丹……何故、逃げなかった」

「ふふ、だって、興味がなかったもの」

「それで、俺に喰われに来たのか」

「言ったでしょ? 死に場所は決めているって」


 さも当然のように言う牡丹。可畏はくつくつと喉を鳴らした。

 

「お前も大概気狂いだなぁ」

「きっとご先祖様譲りね」


 牡丹が飽きる程に可畏が語ったという、何代も前の不知火の当主。罠を仕込んだ妻を餌に可畏を誘き寄せ、可畏を護法の柱に仕立て上げた張本人。牡丹もまた、その血を引く不知火の末裔である。


「どうする? 苦しいなら食べる?」

「俺の苦労を無駄にする気か」

「そうね。可畏がこんなに苦しんでるの初めて見たわ」

「お前は本当に可愛気が無い」

「生まれつきだもの」

 

 そう言って、触れるだけだった牡丹の両の手が、可畏の顔を包み込む。顔を持ち上げられ、可畏はもう抵抗する気力も果てかけていた。だが、ふつと気が付く。


「……牡丹、お前何をした」


 可畏は空腹のままでこそあったが、牡丹がどれだけ触れても、牡丹を喰らおうとは到底思えなかった。まるで、どうやっても当主を殺せないと感じた時のような――

 

「本当はね、もうあなたが苦しむ必要は無いの」


 可畏が目線を上げれば、暗闇の中で薄ら笑う牡丹の顔が映り込む。化生けしょうと見紛う妖艶に笑む、女の姿。その妖艶な女の唇が、思いがけない言葉を紡いだ。


「護法の契りの主は、今は私」


 牡丹の口から出たとは思えぬ言葉に、可畏は返す言葉を見失う。しかし思い出す。不知火の本質は邪気を喰い、鬼を喰らう一族であると。呆然とする可畏をよそに、牡丹は続けた。

 

「私は不知火家なんて興味なかったのに、勝手に怯えて馬鹿よね。私は可畏に食べて貰えたらそれでよかったのに。なのに、あなたはちっとも私に手を付けないんだもの。だから、もう待つのは止めたの」


 化生の様に卑しくも美しく。妖艶な女に促され、可畏は上体を起こす。そうして牡丹は更に近づいて、可畏の身体へと乗り上げた。

 

「だから、可畏。あなたに選ばせてあげる」


 鬼の可畏の紅い瞳にすら、異質に映るその姿。


「護法を解いて私を食べるか。それとも、護法の契りはそのままに私の物になるか――どちらにする?」


 どちらを選んでも、牡丹の望みもままだろう。極論のような考えを前にして、可畏の答えは決まっていたも同然だった。


「なあ、それ――餌とか褒美は貰えるのか?」


 牡丹は返事の代わりか、静かに微笑む。それはそれはもう、うっとりと。

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