伍
「可畏」
それは、いつぶりの声だったか。冷えた黴臭い闇の奥底で、可畏は耳を塞いだ。きっと幻聴に違いない。腹が減りすぎておかしくなっただけだ。そう自分に言い聞かせて、近づいてくる気配にも気づかないふりをした。
昔、何をしていたともしれない地下牢に可畏は居た。無理やり押し込まれたのではない。自らそこに入ったのだ。
可畏は当主と賭けをした。
『代わりの贄で満足できるのであれば、お前の言う通り次の機会まで牡丹は生かそう。だが、前回の様に空腹が続くのであれば、もう牡丹を喰らうように仕向ける』
可畏は護法を受け継ぐ
だが、可畏は耐えた。当主も可畏が耐え続けるとは考えなかったのだろう。命令を撤回しようとした時にはもう遅く、可畏の飢餓状態はどうやっても解けなかった。
もう、可畏の衰弱が先か、それとも諦めて牡丹を喰らうか。我慢比べとなっていた。
「可畏」
そこへ、幻聴だ。気配どころか匂いまで濃くなって、目の前まで迫っている気がした。それもきっと自身が作り出した妄想に違いない。そう思い込む事にした。が――
「いつまで寝たふりを続けるの?」
可畏の顔に何かが触れた。それが誰のものかなど、繊細な指先だけで可畏には知れた事。同時に今にも指に齧り付きたくなる衝動を抑える為、身を丸め、喉を絞るように言葉を紡いだ。
「牡丹……何故、逃げなかった」
「ふふ、だって、興味がなかったもの」
「それで、俺に喰われに来たのか」
「言ったでしょ? 死に場所は決めているって」
さも当然のように言う牡丹。可畏はくつくつと喉を鳴らした。
「お前も大概気狂いだなぁ」
「きっとご先祖様譲りね」
牡丹が飽きる程に可畏が語ったという、何代も前の不知火の当主。罠を仕込んだ妻を餌に可畏を誘き寄せ、可畏を護法の柱に仕立て上げた張本人。牡丹もまた、その血を引く不知火の末裔である。
「どうする? 苦しいなら食べる?」
「俺の苦労を無駄にする気か」
「そうね。可畏がこんなに苦しんでるの初めて見たわ」
「お前は本当に可愛気が無い」
「生まれつきだもの」
そう言って、触れるだけだった牡丹の両の手が、可畏の顔を包み込む。顔を持ち上げられ、可畏はもう抵抗する気力も果てかけていた。だが、ふつと気が付く。
「……牡丹、お前何をした」
可畏は空腹のままでこそあったが、牡丹がどれだけ触れても、牡丹を喰らおうとは到底思えなかった。まるで、どうやっても当主を殺せないと感じた時のような――
「本当はね、もうあなたが苦しむ必要は無いの」
可畏が目線を上げれば、暗闇の中で薄ら笑う牡丹の顔が映り込む。
「護法の契りの主は、今は私」
牡丹の口から出たとは思えぬ言葉に、可畏は返す言葉を見失う。しかし思い出す。不知火の本質は邪気を喰い、鬼を喰らう一族であると。呆然とする可畏をよそに、牡丹は続けた。
「私は不知火家なんて興味なかったのに、勝手に怯えて馬鹿よね。私は可畏に食べて貰えたらそれでよかったのに。なのに、あなたはちっとも私に手を付けないんだもの。だから、もう待つのは止めたの」
化生の様に卑しくも美しく。妖艶な女に促され、可畏は上体を起こす。そうして牡丹は更に近づいて、可畏の身体へと乗り上げた。
「だから、可畏。あなたに選ばせてあげる」
鬼の可畏の紅い瞳にすら、異質に映るその姿。
「護法を解いて私を食べるか。それとも、護法の契りはそのままに私の物になるか――どちらにする?」
どちらを選んでも、牡丹の望みもままだろう。極論のような考えを前にして、可畏の答えは決まっていたも同然だった。
「なあ、それ――餌とか褒美は貰えるのか?」
牡丹は返事の代わりか、静かに微笑む。それはそれはもう、うっとりと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます